どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に

心体カウンセラー 武田美紀

このコラムを書いている途中、(これを書いてなにか意味が有るのか?)と頭によぎった。(誰の役に立つの?)ともチラッと思ったのですが、(意味があろうと無かろうとこのコラムは仕上げよう)と考え直し、書き上げました。長文過ぎるので、本当にお手すきの時間があるときにご一読いただけましたら嬉しいです。

 

いつも通り書き進めていくうちに脱線しているようですが、ご容赦ください。

良いことをやってるはずなのに どうして?

こちらのブログの続きを書きます。

このブログの中でシェアさせて頂いてる記事は分かりやすいので是非そちらも目を通してもらいたいです。

 

私は、ヨガがなんだか引き金になっているような気がする。

ということや

瞑想はなんだか厄介を創り出すときがある。

ということを別々に考えていたということは既に書いていましたが、ブログでご紹介している方の記事にはそこに気功や、禅修行他が加わったりしている。

私もこれを読んで、(そう言えば、気功もそうだったな。)と思い出した。

 

そして、大切なのは、ただOFFをONにしているだけでは、起きていることは同じではないか?という自社データの存在。

ヨガ、気功、瞑想、禅修行他それぞれ、厄介になる方もならない方もいる。

「身体に良い」とか「メンタルに良い」と言われているのにもかかわらず、返って関わったら厄介が起きるという事もある。不思議とそういったことに興味のない方よりも、取り入れた方の方が「厄介リスク」がアップしている。

それはOFFをただONにしているだけも同じことが言えそうだ。OFFをONにすることでは厄介なことにはならないなどという特別扱いこそバイアスがかかっていると今は思う。

実際に「良いはずのもの」に接しているし、摂取しているのに厄介や不安定さが増すことも少なくない。

 

 

なんでこんなことになっちゃうんだろう?と思った時に、「良い事をやってきたのに」と頭をよぎるのでは無いだろうか?

良いって教えられたし、今現在もそう聞いているし、古来からの教えだし、いろんな素晴らしい逸話があるのに、とか、情報や知識は「良い」ということになっているし、症例やエビデンスもある。(例えば、「脳科学的には良いはずなのに」とか、「気功は良いはずなのに」とか「世界的にヨガが認められているのに」とか「教えに書いてある通りにしているのに」とか)

 

なにが違っていたんだろう? とか、どこで間違えたんだろう?と頭によぎらないだろうか?

 

 

今日はこんなことを書いていきたい。

ウマく書ける自信などない。実はここの文章を書いている今、結論は浮かんでない。ただ、「なんでこんなことになっちゃうんだろう?」「いつの間にこんなことになっちゃったんだろう?」「どこから始まっていたんだろう?」という疑問が湧くのではないだろうか?ということにについて考えていきたいと思っています。

 

なぜなら、はるか昔、私自身が「良い」と思っていた大人への成長についての方向性へ邁進していたら、(アレ? なんで?)と思った状態になった事があるからです。

その時に、「なんでこんなことになっちゃうんだろう?」「いつの間にこんなことになっちゃったんだろう?」(プラス「気を付けていたはずなのに」というケースもあるだろう)と愕然をしたのを覚えています。「どこで間違えたんだろう?」とか「どこから間違っていたんだろう?」とか、もう物凄く考えた。過去のコラムにも書きましたが、頭がショートするほど考えた。

 

その時に、今の様なネット社会では無かったので、簡単に誰かの意見を読むという対処方法も無かったため、その時は兎に角 一馬力でトコトン考えた。心体に不調が起きるほど考えた。脳が働き過ぎてオーバーヒートしたし、一部はその時にショートした感覚があった。(今のようなストレスケア方法は1つも知らなかった)

 

「良さそうな」バランス調整をしていても、厄介は起きるし、崇高な目的に向かって邁進しているはずでも厄介は起きるのは何故だ。

遺伝子からは逃げられない!?

とことん考えると、さかのぼって血の呪縛、家系の呪縛に到達する方は少なくない。今考えると、「遺伝子」ということに行き当たったわけだ。ウチにいらっしゃる相談者さん達も一馬力(独りで)でこの苦しい辺りを脱した方々がいらして、「お互い大変でしたね。そこをなんとかクリアできてラッキーでしたね」と会話をすることもある。

なにが苦しいって、「逃げられない」と感じたあの瞬間の絶望感だ。遺伝子は私の存在でもあるわけで、身体から抜けないということは「逃げられない」という発想に繋がったと、今は解説できる。

 

まっ、それなりに凄いことに気がついちゃったショックで苦しく感じるが、もちろん逃げられるし、抜けられる。

実際抜けたし。

 

まぁ、早い話 復活した(笑)

 

逃げるんじゃなくて対処するんです。ストレスケアするんです。文言だけで調整するよりも、認知と感覚をバランス調整しましょう。

ですから、この記事の内容のほとんどがあなたの役に立たなくても、これだけは覚えておいて欲しい。

フワッとする方向へ行かずに、先ずはこの課題に取り組んでみたいと思えて、出来るところまでケアしたら、そのケアしたところまでの呪縛からは抜けられる可能性がとても高いです。

逃げるんじゃなくて対処するんです。ストレスケアするんです。見たくないだろうけど、感情に蓋をするのではなくて向き合ってみるんです。文言だけで調整するよりも、認知と感覚をバランス調整しましょう。

なるべくやり方は間違えない方がいいけど、これも不思議と、フワッとしたい方は、地味にコツコツおこなうことよりもフワッとしたものに惹かれていきますからそういうご自分の傾向も確認しながら進めていかれることが良いと思います。

 

ですから、取り組み方によっては、いかようにも回復するし、呪縛から解き放たれるってことです。

 

その時に、なにかの周りを惑星のように回っているだけでは解放されるのは難しい。本腰入れてストレスケアすることをお薦めします。

Shadowの統合などもおススメしますが、フワッとしないセルフケアはその際のお供にある方が良いと感じています。

 

時間はかかるものだと思っていた方が安全

根が深いものは、1回の心体カウンセリングで結果が出るものじゃ無い。そうなるまでの月日を考えたらその位は想像がつく。1回で結果出ますか?1回で結果がでてないのはカウンセラーの力不足ですよね?というセリフ自体が、精神の安全に興味のない証拠とも言える。

 

ウルトラCやDのスキルやテクニックにしか価値を見出せないのは心理ケアには向かない。そういう場合は、地味にケアするということができないから、スキルやテクニックを駆使することに意識が向き過ぎて これまた厄介なことになる。

 

逆算思考で「無くしたり、消したりしたら その大切なセンターらしきところに鎮座するんじゃね?」と考えて、それをテクニックやスキル化するというその発想が危ないと感じてもいる。
コラム「このようにしか生きられない。」より引用

 

そもそも、気の流れも順行と逆行がある。電流も流れがあって、逆だと動かなかったりするし、機械が壊れることもある。

物事には上手くいく方向、流れがあるけれど、それを人生やストレスケアには当てはめようとしないのはナゼだろうか?

 

おそらく、「自然の流れ」というような言葉や、「気の流れ」「手順」「段階」というような言葉を使ったり発したりしていると思うのに、こと自分の事になるとそれを忘れちゃうのだろうか?

それとも、自分はそんなものに影響を受けないという驕りなのか?

 

どうしてそんなにウルトラCやDのスキルやテクニックを発見したがるのか? ある意味覚醒だけを求めるのか? 気の流れや電流の流れという知識はあっても、ただ知識なだけで現実に当てはめたり考えたりしないのか? それがフラクタル理論のパターンの1つかもしれないという可能性だってあるのに。

これも大切なんだろうな

自然の流れの向きや順番で自分のストレスケアをするという視点は大切だと思っている。

 

早さじゃない。

浅い考えの効率の良さでも無く、時間がかかっても順を追っていくことが結果一番効率が良かったりするという可能性は考えたほうが良いと思っています。

 

厄介を解きほぐそうとしているのに、焦って また厄介を抱え込む。それは、本当に厄介をほぐそうとはしてないのかもしれない。目先のテクニックやスキルに酔ってしまっていないだろうか?

興味があるのは、自分の人生ではなくて、誰かに誇れる結果? もしくは競争に勝つこと? スピード? 

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

 

 

厄介でいる方が生きている感じが味わえるのなら、やっぱりその厄介を手放さない。いくらOFFをONにしても、瞑想してもヨガ、禅修行、気功、信仰、教えを勉強しても

生きている感じがする厄介な体験 > 生きづらさを解消したい

という図式なら、ストレスケアをしても次から次へと新たなストレス・悩み・厄介・複雑化を創り出す。

悪いとか、良いとかじゃなくて、「存在意義」が感じられなくなることをヒトは選ばない。痛みが存在意義になるケースがある。

ですから、悪いとか良いとかじゃなくて、本気度というのはこういった事も関わっていると思えている。ですから、こういった度合いも個々に合った程度というものがあるんだろう。

 

1回の心体カウンセリング™ で根深い問題に結果が出るのは、当人がやる気のときや、超ラッキーなときだ。本人が現状から脱出したく無いなら1回で出た結果は直ぐに元に戻る。

脳に教科書なんて無い

実は、もう1つ下書きが眠っていた。

 

—- ここから —-

さて、こちらも約2年前にタイトルと、数行の覚書を下書き保存していたものを元に書き進めます。

眠り続けた下書きはこれが最後。

これを書きあげると、私だけがスッキリします。

 

脳の機能を研究すれども

 

内側前頭前皮質

脳の3つの限界の話の際に

脳内(部位)のスピードは一定ではなく、それぞれがそれぞれのスピードで動いている。

—- ここまで —-

 

まだ文章にする前の覚書にしか過ぎませんが、コレを完成させるには、私自身がもう少し勉強したいし、この下書きとは異なる展開をする予定のこの先の文章を考えると、(脳のことばかり書いてもね)と言う気持ちに今はなってしまっている。

 

ここでご紹介したので、こういった内容の記事はもう書かないでしょうが、タイトルは使える。

そう「脳に教科書なんて無い」。

いや、正しくは「多くの要素を含んでいる人生を生き易くするという目的の脳の教科書なんてない」ということになるでしょうか?

脳の各所を使って生きてるので、脳の機能を知ることが生きやすさと直結しないだろうという意味です。

 

現在のところの脳科学はあります。研究されている方も賢い方ばかり。人体の研究も日々されている皆さんがいる。

脳科学と人生や心理を直結して考え過ぎる?

ただ、それを人生というものに活用するまではなかなか行ってない。

書籍も沢山ありますが、それを読んで人生に使えるような気にはなるけど、具体的にそれがなんなのか?という事まで落とし込むのは大変だし、実際に自分の人生に落とし込めるほど使えるのはその知識ではなくて、もっと現実的な例え話・実例だったりするわけです。または対話やコミュニケーション。

 

また、人生の参考に信仰や「教え」を勉強することも大切でしょうが、その教えは生きている人間のためにあるとしても、体験と自分の思考が置き去りなっているのなら 教えではなく、ただの「読んだ本の内容」にしかならないのでは無いか?

 

魔法の杖にはならない。万能のツールもない。大切なのは「今のあなた」に適していること。

気功や、瞑想や、ヨガや、禅修行、宗教、各種「教え」、OFFをONにする、だけでは思考の繰り返しを止めることや、一線を超えるストッパーにはならないという実例が多いという現実をちゃんと見る必要がある。それに気がつけないのは「目の前の出来事を見ていない」ということですものね。

ということは、

  • 地に足がついていないということでしょうか?
  • 今を生きていないということでしょうか?
  • 物事を観るチカラの問題でしょうか?
  • 脳の使い方でしょうか? または鍛え方。

 

あんなに「良いはず」のことをしているのに? かえって、益々こじれていくことがあるのは何故でしょうか?

 

一体なにをどの程度調整してるの?と考えることは大切で、Do の後の「検証」はした方がいい。

「良さそう」がプラシーボとなって実際生き易くなっているんならそれはプラシーボではなくてバランス調整されているんですが、「良さそう」(ウットリではなく)が生きやすさに繋がっていないのなら 見直してみる。

 

先述しましたが、良さそうなストレスケアならば、ストレスケアの順番もレバレッジがかかるような流れを意識していた方が良いのではないだろうか?

ですから、単発よりも、流れのある複数回のカウンセリングがやはり良いが、その複数回のカウンセリングでこじれてしまうことがあるので、ご自分の意向と、カウンセラー・セラピストの考え方を確認してからカウンセリングやセラピーを進めるとと良いですよ。

 

人間を大切に考えた時に、私は大きな変化を1回で出す事が大切とは思ってなくて、「厄介をこじらせない」と言うことも大切なバランス調整だと考えています。

どんどん不安定が増したり、不調が増えるのなら、一旦その「良いもの」と思い込んでいるバランス調整法はお休みしたほうが良いし、厄介は増しているという現実をちゃんと認知するのも大切ですよね。

 

今までソレを信じてきたからこそ、「良いわけではない」と認める事は私の信念の土台が揺らぐ。という体験もシンドイですが、だからと言って意地を張ってる場合じゃない。少なくとも今は同じ事を続ける事が悪化するのだから、お休みしてみよう。という余裕はあった方がいい。

 

一番大切なのはそこから脱出、回復する方法はあるのか?ということの方だと思いませんか?

そのためには、なぜ自分はそうなったのか?も勿論考える必要があるはずですが。

 

 

そう、気がついても、どんどんこじれていく時がある。

そんな慣性の法則は止めることができるのだろうか?

自然に関わると自分を取り戻しやすい

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

考えるチカラと理性は宝物

雑念は考えているうちに入らない。がしかし、雑念が入り口で グググっと真に迫っていく時もある。

 

どこまで自分の心を見るのか?、向き合うのか?というご本人の心構えも人それぞれで全然違う。

私は前回も書いたように「行けるところまで行く」と願っていましたが、その際に「独りでもやる」と決めていた。そもそも「誰かと一緒に」ということは微塵も考えていなかった。そんなことに興味のあるヒトを自分以外に実際に知らなかったからです。こういう方面の依存心は低かったでしょうね。そもそも依存先がない訳だし、元から誰でも良いから頼りたいという傾向でもないし。

 

これを書いていてようやく気がついた。きっと私はヒトより早かったんだ。人生を考え出すのが早かったんでしょうね。そう思うと、もうそれなりの年月が経っている為ある種のベテラン感が自分にあるのかもしれません。(笑)

だからと言って、こういうベテラン感もトラップにハマる要因になるので、子どもに返るって良いんですよ。

 

もう最近は、心体カウンセリング™ をしている時と、こういったコラムを書く時以外は今書いているような事は忘れてる。会って話をする機会があれば内から出てくるけど、個人セッション以外でわざわざこういったことを、自分から電話してまで話したい欲求もない。することもない。なぜなら基本忘れているから。

私の場合は、「会う」が基本なんだと最近ますますはっきりわかってきた。

 

優先順位も大切だね

行けるところまで行くのなら、

あんまりフワッとしてるとその時間が勿体無いし、興味のない競争に参加するのも限度があるし、全方位に良い顔をするのも程度問題だ。

興味がなかったり、全然納得いかない「教え」「考え」に貸す耳もそうは無い。(一応聞く。それは大切にしている。すぐさま、最初から否定はしない。)

 

多くの作家さんは、生き方について物語のなかにチラッと触れる方もいらっしゃったので、作家さん達の書いた多くの書籍(主に小説)が一種の参考書のようなものでした。

もし当時、脳科学の本などはあってもこういった時は全然役には立たない。心理学の本もこういった段階ではそうたいして役に立たない。私が知りたかったのは、「心持ち」だったり、具体的な「人生に対する姿勢」だったり「傾向や具体例」でしたから。

心理、精神、脳の本に書かれている対処法が先じゃなくて、全体像が先だった。スキルやテクニックじゃなくて「姿勢」「心持ち」も知りたかった。

そうですね、哲学ということになるのでしょうか? 哲学の定義をいまいち把握していないのですが。

自分の人生に興味がありますか?

本当に興味があれば、きっと独りでもやる。理解者がいなくてもやる。大体、こういったことに興味があるとうことは今の時代ならともかく、少し前なら(あーあ、痛いことになっちゃってんな)と思われがちでした。話し相手も居なかったから誰にも言ってなかったけど、芸が身を助けたような、今のような日が来るとは想像していなかった。

来ると良いな。とは思ってはいましたが、そんな保証などなかったからさ。

 

理解者がいたら励みになる。嬉しいよね。理解者がいなくても、本気なら独りでもやるんだろう。

 

もし、「えーーーそんなに興味持てません。持ちたくありません。」なら、興味の持てる範囲で関わればいいし、全く興味がないのなら関わらなければ良いだけだ。

面倒だと感じる方もいるようだけれど、面倒でやりたくないのなら、多分やらないだろう。興味はないのに「良さそう」と乗っかっても、ご本人も楽しくないし飽きる。かえって面倒だから「心理って嫌い」とおっしゃる方もいた。「そんな事考えても人生は変わらないし、一体ナニになるの?」という方もいらっしゃる。

 

自分の人生に対する興味や改善したいことなどは人それぞれ。

 

そう、世の中に情報と知識は氾濫していますが、自分に合うか合わないかこそが優先順位の一番だというようなこともあります。

 

その為にも、自分が安定してるのか?、安らげるのか?、安心できるのか?は素直に感じる方が良いと思う。

 

意地を張ると遠回りになると言うことも人生勉強ですし、飽きない方は何度も同じパターンを繰り返します。それも自由ですが、くれぐれも安全の範囲内でお願いしますね。

 

しかし、どうしてこうなっちゃんだろう? とか、どこで間違えたんだろう? と感じて、修正をかけたい、立て直したいと真剣に思うのならただOFFをONにしているだけじゃ不足していると思う。

瞑想、ヨガ、気功、修行、なにかの服用や波動云々もしかり。

 

今までそれをしてきても、実際に「ナンデこうなっちゃったの?」 ということになっていることがその理由です。そのOFFをONにする方法がマッチしていないのでは無いでしょうか? またはウルトラCやDを好み過ぎて、足元がまだ手付かずだっていうこともある。

 

瞑想法でも、ヨガ法でも、気功法でも教えでも、各種のバランス調整法、他のモロモロということも、あなたが土台からのONに意識がむくような体験をするのには物足りなかったのかもしれないし、あなたの本気スイッチを入れなかったのかもしれない。

 

「良さそう」なものに関わっていることに興味があり、自分のこととして捉えて無い可能性もある。

 

または考え方がわからなかったと言うこともある。

どうして良いのかわからないこともある。

 

良いはずのストレスケアをしたけれど、潜在意識は発動しなかったのか?

潜在意識頼りではバランスは取れないのか?

 

脳だけをストレスケアするだけでは目的を達するまでの日数がかかり過ぎるのか?(何百年後には分かりませんが)

 

はたして、あなたの求めている状態とは?

そもそもあなたが本気になるつもりになっていないのなら、多分、どんな調整法を持ってきてもあまり役には立たない。

 

科学的なバランス調整も、魂的なバランス調整も、意味が無いことが多い。

その時はONになっても、OFFに戻る。

自分でOFFに戻ろうとする。

 

そんなことに飽きた時は、

ここらで一丁、惑星ではなくて恒星として、自分で考えて、我が事として根本も見ていくことも大切だという段階に来たのではないだろうか?

 

飽きていない、うんざりしていなのなら、また繰り返す。

そんなもんだ。

繰り返すことができるほど生命力が強いとも言える。そういう意味では私はとても弱くて、何度も痛い目に合うのは耐えられないのでパターンからの脱出方法を探してしまう。弱そうに見えるヒトは強くて、強そうに見えるヒトは想像より弱いというのは一理あると思えるのはこんな時です。

 

繰り返しが悪い訳じゃない。おそらくその方がご本人は安心できるんだろう。その安心の領域から出てくる気持ちになった時にストレスケアに今より真剣に取り組んだらどうだろう。

 

ストレスを減らしたくない

依存傾向が強い脳もあるし、性格もある。

 

私が治してやるんだと思う方もいらっしゃる様ですが、どんどんこじれていって、不安定が増しているのなら、あなたの手には負えない。

人間に限界は無いという考え方はあるが、今のあなたには限界がある。意地を張るよりも、それを認めることも大切で、限界を認めるからこそ、不足していることも見えてくる。対処方法も探しやすくなる。

そもそも「限界など無いと思いたい」それは、周囲の全てを自分の思う通りにコントロールしたい、仕切りたいという欲によるものだったりする。世界を思い通りに動かせる、動かしたい欲求が発端だったりする時もある様だ。

 

私も真面目に頑張ってきたつもりだが、自分には限界があると遥か昔に認めた。「良かれ」も心を込めて話しても伝わらないし、火を見るより明らかな危険を「危ないよ」と伝えても伝わらず止められない事が多いと、私の伝える注意など相手にとっては必要がないものだし、信用されていないのだろう。コレが(その時の案件に対する)私の限界なのね。と認めた。

言われた方もケチをつけられたみたいで「フン! 俺(私)の好きなようにするもんね。一々気分悪いわ。」という気持ちになるようだし、その後、その通りになったとしても感謝されたこともない。かえって嫌われるだけだったりするんだけど、言った事が現実になると少しは耳を貸してくれるようになる時もあるが、だからと言って仲良くなるわけじゃない。

それどころか、当たったことで、もっと私がその方にとって苦手な存在になる時だってあるようだ。

当たれば良いってもんでもない。

 

「良かれ」って裏目に出る事が多い。昔からそうだ。何度も書くが、私自身も「フン!」とは思わなかったけど、素直にその時に聞かなかったこともあった。

でも、その方の言う理由がその時にわからずに実行しなくても、相手が自分のために言ってくれていることは理解していたので「ふん!」とは思わなかったけど「好みが違う」とは思ったかな。そして、後になって(あの時、あの方が私にアレを言った意味はこういうことだったのか)と分かったんだけどね、その時直ぐにそれを理解するほど利口じゃないものですから(-_-))

 

それに、私も何も言わない時だってある。その時は私こそ、(多分通用しないな)と最初からあきらめている。耳を貸してくれるだろうとすら相手を信用していない。または、その時の現状を割と正しく認識している。

 

そうですね、やっぱり信頼関係という事でしょうね。そういった関係も月日が経つと変化したりしますけど。

または、私がその先を考えた時に危ないよと言いたくなったわけですが、ご本人がその先に興味が無ければ、興味のないことを一々さもわかったふり(に感じるでしょうね)で言ってくる奴なんてうっとおしいんだろうね。そうか、そういったこともマウンティングに感じることだってあるだろうな。

 

という、(言っても嫌われても、信じて貰えなくても、耳を貸しても貰えなくても)この先も、とても危ないと感じたら「危ないよ」とは言うだろう。

それは、ストレスケアをすると良いですよ。と自分の意見を言うのと同じです。

先日公園を散歩中、目の前の小学生が自転車ごと転んだので、「大丈夫?ケガしてない?」と思わず聞いたが、それと同じ。この女の子は「(虫かごの)蝉が逃げる!」と焦っていて、ケガはしていなかったので良かったけれど、危ないと思ったら「危ないよ」と日常生活でも言うので、それと一緒だ。

 

 

面白いことに、自分の限界を認めた後の方が、(あら? こんなチカラがあったのね)という自分の新たな一面との出会いが多い。

 

なんの因果でこうなってるのかわからないけど、頭を柔らかくするって良いんだろうなと書きながら思った。

 

現状をありのまま観るということは、頭の柔らかさや、自分の限界を知ってることや、現実を認めるというある種の素直さが必要なのかもしれない。

 

話が似てくるのですが、「良かれ」ということが良い結果を生むとは限らない。それは私の「その考え方は危ないよ。」という言葉だろうが、「良いはず」の心体の回復術・アイテムだろうが同じ。

違うのは「良いはず」の心体の回復術・アイテムは固執するほど信じていて、自分が信頼していないヒトの言葉は参考にもしない。いや、信頼もそうだろうけど、やっぱり「やりたいようにやりたいから、それを否定するようなことは聞きたくない」ということでしょうね。

そりゃそうかも知れない。

自分を全面的に肯定して欲しいものだもの。

 

あなたを否定しているわけではなくて、「危ないよ」と伝えているだけでも、「肯定されない」ということが「自分は否定されている」と感じるのだろう。

「良かれ」「良さそう」という感性が違えばそうですよね。

 

「良かれ」が逆恨みされたりしたことがあったので、よほど危ないと思わないと私も伝えなくなった。「良かれ」って思うのも私のエゴだからしょうがないよね。今は、(うるせー)と思われることも踏まえているし、うっとおしがられたら2度目はないのでご安心を。(^^)

 

 

しかしあれですね、「良いはず」が益々厄介を招いていることにはなかなか気づけない。私自身もやっぱり信頼して固執したものは長く矛盾に気がつかなかった。「良かれ」で発言しても、私の「良かれを受け取って欲しい」というただの押し付けだったという事も含めて。

 

スピリチュアルとかカルトとか、教えとか、瞑想もそうだけど、「良いよ」という看板を見て続々と入店していくが、看板に偽りがあるのかないのかをその後検証するということは案外少ないのだろうか?

 

私はストレスを減らしたかったので、ケアに努めましたけれど。

治りたくない! というのが素直な気持ち

厄介がこじれて行ったり、不安定さが増す場合、

「治ることはイヤなんだ」というのがご本人にとっては素直なのかもしれないし、こじらす事で周囲に理解してほしい事があるのだろう。

だから、治そうとしないで、そのままの私を愛して欲しいと思っている事がありますね。「治って欲しい」という条件を付けないで欲しいと思っている場合もある。愛の量を試している時もある。

 

なにも条件をつけず、存在だけで愛して欲しい。甘えたい。それがちょっと目立つようになると、(赤ちゃんのように扱って欲しいのだろうな)と思う事もあるが、赤ちゃんと大人は違う。そもそも赤ちゃんは、「試してやろう」と思って泣いていない。

 

治らない事で周囲の自分への愛情を試している時もあるが、あなたがそれにとことんまで付き合うのならそれも人生の選択だし、限界ならば去ることも選択の一つだ。と、こんな話もする事がある。

 

どんな自分も愛して欲しい。ということで、何をやっても、何を言っても、それがDVでも、やりたい放題で、「私(俺)を愛しているアナタの姿勢を見せて」と試すヒトもいる。

私は相手が子どもならば試すような事をされても寛容ですが、ある程度の大人だったらその類のお試しには付き合いません。大抵キリがないです。どんどん暴君になるだけです。その暴君の様は、まさに自分が無く、これぞ魔境ingで真っ最中です。依存心が強く、自己愛はあるが自己肯定感が低いというケースには起きがちです。

相手を愛するよりも、自分を愛して欲しい気持ちだけが大きいです。

 

なりふり構わずしがみつくケースもある。あなたが居ないと生きていけないと涙ながらに訴えるケースもあるが、しがみつく側は、しがみつきたい相手が手に入った後は暴君になったりする。「俺(私)が居ないとこのヒトはダメなんだ」「そんなに俺(私)を愛しているんだ」としがみつかれた側は最初は自分の価値の高さだと思ってまんざらでもないようだが、それでその後幸せになっているカップルを見た記憶がない。

しがみつかれないと「自分が好かれている」と思えない方もいるが、そういう方は大抵しがみつく側にもなる。人間を信頼するという体験が少なかったのかもしれない。

 

好きだと訴えることと、しがみつく事は違うし、そもそもそういったケースは「相手の幸せ」を考えていない。自分のことだけしか考えていない。だから、(その手を使うか)という手段に出る時もある。頭にあるのは、自分の執着を満たすことだけであって、相手への愛とは少し違うようだが、「こんな手を使ってまでも俺(私)のことを好きなのね」と拡大解釈をして幸せになったカップルも記憶にない。しがみつかれた方も一瞬はそれで自己承認欲求を満たされるし存在価値が満足するんだけども、その満たされ感は長続きしない。

相手がすがりつくから「自分より下」だと思っていると、あっという間に立場が逆転して、今度は下だと思い込んでいた相手にブルン ブルンと振り回される。元からそれだけ強いヒトだったのに、勝手に「弱い」と決めつけた結果なのだけれど、「泣く」ことや「涙」というのは弱さを強調できるので、見抜かなかった側にもちゃんと責任がある。相手が自分より弱いから好きになったという可能性もある。弱い人を周りに集めて自己価値欲求を満たす方もいらしゃるが、弱いと思ったら大間違いで、ゆくゆくはブルンブルンと振り回されるというレッスンをするようだ。

上とか下とかで判断しないことも大切ですよ。

 

というようなケースも人生で拝見したり、こういった関係から逃げたい方の玉突き事故にも巻き込まれたりしながら、(ある程度の大人だったら)その類のお試しには付き合わないという自分の方針を決めた。お試しに付き合わないとこれもまた逆恨みされたりするんですが、もうしょうがない。

小説の中で「依存心が強いと、それが叶わないと今度は逆恨みするのよね」というセリフがあったと以前書きましたが、流石作家さん、短い言葉で端的に表現されますね。

被害者意識を持つだけ損。世界は広いこと思い出して!

 

 

自分で「変わろう」と決める方もいるから

ある程度の大人ならば、そんな自分のやり方を変えようとTRYすることはできるし、気がつく事だってできる。でも、そこは手を付けようとしなくて、相手を試すようなスキルだけは伸びていくケースもある。自分で飢餓状態を亢進させちゃう。

それに付き合っていると、欲望オバケ・依存オバケを私が育てる事になってしまう。

私が育てて、私が苦しむ。

なんじゃこれ?ということになるので私は離れます。

 

え!?

ふと、(そうなると、神様のお試しというのは愛なの?)と頭に浮かんだ。

・・・難しいですね。

 

自分で立つ とよく聞くけれど

ヒトによっては、自分の守護神的な存在に頼るのも良いけれど、それに余りに依存すると自分で立てなくなる。そんな人生も好む方には良いだろうが、なにかしらのセンターからは遠ざかる。

 

守護神的なものとして、瞑想や禅修行や、気功やストレスケアだってヨガだってあるし、その方の感じる「守ってくれているモノ」や誰か実在の人物の場合もあるでしょう。

 

何かしらの守護神ともどもHAPPYになるには、支え合うと共に、お互い大切なところは自立していることも大事だと思えます。

お互いが安定して、安心していると、強くなるのは愛や信頼感だと思える。そしたら試すようなことをしなくて良いわけです。どこかわからない迷宮へ入り込まなくて済むわけです。

 

片方が、または両方が骨抜きになるケースも知っているが、あれはなんでしょうね? フワッとしちゃうのはなに? 不安定になるのは? それも愛? 依存? 依存も愛? 当事者が愛と感じたら愛?

 

恋人に対してこういった体験をされた男性がご自身で「昔はメンヘラだったから、離れられず、依存して、厄介なことばっかりやってた」とおっしゃっているのを拝見したことがある。その当時は相手の方に「愛しているのならできるでしょ?」というお試しメニューに自傷行為を要求されて、やったそうです。今でもその傷は身体に残っているって。

しかしその男性は、そんな自分のやり方を変えようとTRYして変わり、その当時の自分の不安定加減に気がついたそうです。

 

難しいですよ。難しいけど変わろうと思えば出来ますよ。思っているよりその変化のあとは楽になりますよ。

 

なにが違っていたんだろう? とか、どこで間違えたんだろう?ということに向きあうのは、その状態になるまでのそれなりの質量にむきあうことになる場合もあるから、頭も使うし、精神力も使うし、結果 体力も使う。

自分の遥か彼方の「間違えちゃった瞬間に気がつく事」や「それに気がつく沢山のチャンスを自分で踏みつけてきたことを認める」ことが簡単ならば、そこまでこじれていないわけです。

 

多くの場合、過去の似たような教訓が含まれていた案件から目を背けていると、同じようで、かつ、もう少し解決が難解だと感じる出来事が現れたりする。困ったことにお試しのようなハードルとはどんどん上がっていくことがある。

毎回ちゃんとケアして、ケリをつけておきましょう。と書く(言う)のは簡単だ。時間は少しかかっても、きっちり考えて、自分のどんな心の持ち方がこのパターンを創り上げるのか?をしっかり考えておくと良いみたい。

また、一気に雪崩のごとくお試しが降ってきているような気持になる時があるけれど、その時はとってもシンドイ。多分それはやはりある意味人生の転換期だと思います。あえてその時に辛抱強くケリをつけていくと、それが人生のジャンピングチャンスだったということが多い。逃げると(逃げても良いんですよ、自分の人生への姿勢の問題なので)再チャレンジチャンスがどんどん遠ざかるみたい。(自社データ調べによる)

 

ですから、変わりたかったら、今まで取り組まなかったそれらにカタをつけると良いみたいなんだけど、それも自分で選べる。誰も強制できない。私も強制しない。する立場にもないし。

 

善き人になったつもりの、自分のまぁまぁなエゴを認めるのは難しい時がある。人には陰陽、善悪両方あるのだから、「善さ」に固執している心もエゴなのかもね。ヒトのためと言いながら、結構自分のためだったりするし。

 

自分で煙幕を何重にもかけてきてしまったのなら、解放までにそれなりに時間がかかる。

次元のバグの現れ方? あなたの時間間隔と空間感覚は、あなたの知らないところで機能している。

以前も書きましたが、自分と向き合ったり、修正するのはシンドイ。

途中で投げ出すのもわかる。私は責めない。

私は運に見放された。運がない。と思う時

 

ただ、行ける所まで行ってみようと思えたのなら、自分のために時間と労力を使ってみてはどうだろう。

ONの中のON ONの中のOFF

 

自分で思っているより「善」だし

自分で思っているより「悪」だったりする。

 

魔法を解きますか? どうしますか?

自分で自分にかけた魔法を解きたいのなら、それなりに覚悟がいるし、知らないうちにヒトからかけられている魔法にも気がついた方が良い。

 

あなたの脳をコチョコチョする(意のままに操ろうとする)そんなヒトとは距離を置くことも検討した方が良い。相手が自分より下だとか、しっかりしていないとか、精神の成熟度が低いとかなめてると、先述したように、そんななめていた相手にすっかり脳をコチョコチョされて人生の歯車がおかしなことになるケースもあるし、名声や立場に弱いとすっかり脳をコチョコチョされて操作されてしまうこともある。

ただ、脳をコチョコチョされるのが好きなケースもあるので、単純に善悪などは言えない。そう、自分で考えるより流されることを好むのなら、コチョコチョされ続けている方がラクなようなんだよね。

 

自分でいる。って簡単なようで割と難しかったりするようですね。

良いヒト、イイ子になるより余程難しい。

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

 

「良さそうなもの」を盲信しない。

 

ある日の朝

ある日、目が覚めそうな、ちょっと前。

意識が戻ってくる前だから、まだ眠りの方が勝っている無意識の時に

(生まれてきてよかった。嬉しい。)と思った。

 

しっかり考えて、ストレスケアを知ってからはコツコツ行ってきて、お陰様で、生まれてきて良かったとか、生まれてきて有り難いとか、いろいろあった父や母にありがとうと素直に感謝の気持ちを持てるようになりました。

感謝の気持ちを持ちなさいという教えに従って「感謝の気持ちを感じているつもり」ではなくて、内側から感じるようになったので、これ以上の感じ方は無いだろうと(いつも通り)信じ込んでいた。

これまでのそれは、ちゃんと起きていて、目が覚めていている時に感じていた。

 

ところが、無意識の状態で、思考が止まっていながらこの気持ちが浮かんできたのは初めてだったが、そんな自分が嬉しかった。

積み重ねの結果、見えないなにか大きなものが私の中で変わったんだろうし、積み重ねたおかげで人生ゲームのコマがまた1つ進んだのかもしれない。

 

自分の人生を大切に考える時間は無駄にならないと思っています。大切に考えるというのは、良さそうなナニカに乗っかることとはちょっと違って、自分の状態を良く知る事だと私は思っています。

「心理って嫌い」とおっしゃる方もいた。「そんな事考えても人生は変わらないし、一体ナニになるの?」という方もいらっしゃる。と先述しましたが、心理と人生、哲学や倫理観というのは絡み合っていますので、心理が嫌なら、人生についても考えないというのは勿体ない気がする。

 

生きている間ずっとストレスがあるんだから、ケアしたからってストレスは無くならない。とそもそも軽く見る方もいらっしゃる。

 

「そんな事考えても人生は変わらないし、一体ナニになるの?」という事に対して言えば、私は人生が生き易くなったし、

意識が戻ってくる前のまだ眠り勝っている無意識の時に(生まれてきてよかった。)と嬉しさを感じるという素晴らしい体験をした。

 

少なくとも私の人生は変わった。

 

 

そして、出口は見えなくても、コツコツと自分に向きあってストレスケアをしていくと、人生変わりますよ。というこのようなコラムも書くことができる。

 

良さそう でも 良い とは限らない

遠回りもあるでしょうし、勘違いもあるでしょう。

カウンセラーやセラピストや宗教家、哲学者、科学者、治療家が人生に生きやすさを感じているとは限りません。知識や情報、スキルを知っている事や、よそ様にセッションを行っていることはご本人の生きやすさと直結しているとは限らない。

よそ様にセッションをする前に自分のケアをした方が良い方が、よそ様にセッションをしてこじれていくことだってある。自分も相手も。

 

それぞれがナニに興味があるのか?も違う。

情報と知識に興味がある方もいるし、スキルやテクニックに興味のある方もいる。潜在意識に興味のある方もいらっしゃる。物理や科学に興味のある方もいらっしゃる。

私自身は人間と人生に興味を持ち続けてきた。知識や情報が無い時も、スキルやテクニックを知らない時もずっとこれまでそうだった。

 

自分をケアするって良いものです。

 

おススメは「シンプル」

そこに、「良さそうなもの」をごちゃ混ぜにせず、シンプルに行っていくことをお薦めしたい。

 

一見全てを網羅したようなあれもこれも含んだアファメーションなどは、その中にダブルバインドやトリプルバインドが含まれていたりする。そのダブルバインドやトリプルバインドというのは生きていれば当然あるものなのですが、バランス調整には適していない時もあるだろうと感じます。

全てを網羅するテクニックやスキルを求めるその気持ちが先述の気や電気の流れで言えば逆行状態(OFF)に麻痺してくる心体づくりに繋がるのでは?と私は思うようになりましたので、シンプルなバランス調整を丁寧に行う事をお薦めしています。

飛び級したがる方にも、コツコツやりましょう。とお伝えしたりします。

 

下書きをご紹介した「脳」の話ならば、1回の1か所だけの調整でドカンと効きそうなものを求めるというよりは、関連しているアチコチも丁寧にバランス調整するというイメージになりますでしょうか。

 

私は丁寧なやり方を選択したい。という個人的な好みです。

調整の視点は、広いものからピンポイントなものまでありますが、調整はシンプルに。(ただ、その調整の前にナラティブ・対話を多くとっています。私自身が人間と人生に興味を持ち続けてきたからです。)

 

その理由は、私自身がシンプルな調整を細かく沢山行ってきたという体験のせいかもしれませんが。

 

手っ取り早いって、手っ取り早さを求めたエネルギーで構成されているような気がする。でもまぁそれが貴方の人生を生き易くするのならそれが良いわけですが。

ただ、今までその手っ取り早さを求めてきて、結果ストレスケアが進んでいないのなら、結局同じものに惹かれて、また似たような惑星運動になるような気がしますけれど、どうでしょうか?

 

脳のクセや好みは、すぐには変わりませんね。そういうもんですね。

それが目先の蜘蛛の糸への自動反射なのかどうか、ちょっと考えてみてくださいね。そして、どうぞご自分のために丁寧なケアをしてください。

 

「コツコツ」って書くとカタカナ4文字なのに、これがなかなか難しいのでしょうね。そんなもんですね。

「心の治療の真実はどこにあるのか?」について お1人の意見

「共振」と「共感」は異なる。「共振」は自他の境界があいまい。カウンセラーは泣いてはいけない?!

被害者意識を持つだけ損。世界は広いこと思い出して!

 

このような方はご相談にいらしてください

ケアをしてるつもりなのに、なんだか同じ状態がずっと続ている気がする方は、一度ご相談にいらしてください。

ケアの仕方がわからない方もいらしてください。

お待ちしています。

 

 

(2020/07/13)

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