結婚はゴールじゃないという割に

今日も目が覚めた

ありがたいから文章を書こう

目が覚めたというのは覚醒とか意味深ななにかではなくて、普通にオハヨウ!と目が覚めた。心臓が動いて呼吸もしてて神経も働いていてくれて記憶もあります。ありがたいです。

当たり前のことって本当は一番有難いのでは?当たり前に感じられるほど奇跡が続いてきたという恐るべき奇跡という捉え方もできるねぇと思うことも多いです。

皆様はどうお感じになりますか?

世の中の素晴らしいセンス

私は大食いの動画を見て自分も食べられるような、食べているような気持になる時があります。思い出したように大食いの動画などを見ます。もうYouTubeの正解の中では、メディアで知られている有名どころさんを軽く凌駕する大食いさんがいらっしゃるのも理解しました。

こういった方を拝見していると、やはり個人の個性・センス・画面でしかわからない範囲のお人柄のようなものにファンが付くんだと実感します。ハロー効果以外のところでファン層を築き上げていかれているんだろうと思います。

結構な量をお食べになるYouTuberさんに「大食い主婦 もぐちゃん」 87.4万人という方がいらして、この方はテロップでいろいろお出しになるのですが、膨大な読書量がうかがい知れる言葉のセンスと感性に感服しています。

沢山ある中の

誰かの創作は誰かの現実を救う

という言葉も素晴らしかった。もぐちゃん氏の書かれた文章なのか、どなたかの引用なのかは不明ですが、的を得てるな~とメモしました。

実際に私も救われてきましたから。

 

ここのところは読書をすることが激減しまして、代わりにオーディブルで聴いておりますので、もぐちゃん氏のテロップを読み続けることも少ないのですが、素晴らしい言葉があふれていますからお勧めです。

画面から優しい雰囲気が漂っています。

優しい雰囲気と言えば、たくさんお食べになるYouTuber「ふみたろ」氏 4.02万人もそうです。

 

治療家 CBAの松原先生が「酸化と糖化」の改善が不調改善の鍵ともおっしゃていますが、ロシアン佐藤氏 113万人をはじめ大食いの皆様の内臓機能の強靭さに感服しております。

 

「裂け目」と感じる感性も様々あった

オーディブルで小説を聴いていると、最初は漢字・文字を読まないのでなかなか頭に入ってこなかった。今は前より小説を聴くことに脳が馴染んできた。本当に視覚情報って大きいな~って実感したもの。

で、吉本ばなな氏の初めて触れた「ヨシモトオノ」を聴いていて、あまり吉本ばななファンでもなく、大した量を読んでいない私がこの方の文体に影響を受けているんだと気が付きました。それなりの量を読んだ村上春樹氏の影響は自覚がありましたが、吉本ばなな氏もそうなんだ!という感じ。

 

でまた、丁度良いタイミングに感じる内容だったんですよ。

「炎」という作品の中で

サケメという言葉が出てきました。

裂け目?さけ目?さけめ? 文書を読んでいないので表記が気になりましたが、私も丁度コラム

人生舞台の「破れ」による「その隙間」

と書いていたので、(あ!わかる!)と思いましたが、しかしその言わんとするところは違いがありました。ニュアンスが違っていましたが、(そうか、同じ言葉でも理解が違うもんね。そりゃそうだ。)と当たり前のことを何度も認識しました。

「花」という作品の中で

既に他界されている方が「こっち側にいると色んな感情が薄くなる」と言ったというシーンがあるのですが、恨みも妬みも薄くなるというようなことでした。

これもコラムに引用したヨガの祖の方の「死んだように生きる」というニュアンスと近いんだろうなぁ(作品の中では故人だから既に生きてはいませんが)。丁度なタイミングだったので印象深かったです。

タイトルについてはここから触れます

結婚はゴールじゃないってよく聞きますよね。同意です。

新しい生き方が始まるわけだから。

 

この先はまた素人変人ヘンクツ論を書きますので、

そんなのよみたくねーよ

という方はここでさようなら。

悟りはゴールじゃない

私も昔、(悟ったらその後一生楽になれるのかな?)と思っておりました。思っている割には仏教系にのめり込まなかったのが笑えます。願うことと行動が不一致しておりますわな。

しかし、我流で「良かれ」をやっていましたので、努力みたいなものはズレていたとしてもやっているつもりだった。が、そののち、我流の「良かれ」のもともとの設定が違っていたと気が付き、崩れ落ちましたが、今はすっかり立ち直りました。トライしてエラーがわかった。これで良かったと思います。

 

で、この過程の途中やその後も一応考えるわけですよ。体感や体験も増えたりして。

するとこんなことも感じた。 ↓

「いまここ」と散々おっしゃっている方々が「悟りはゴール」と思っていらっしゃるようだと感じる事があります。そこに到達したらその先一生その立ち位置を確保できる保証を得たというような感性です。一抜けたというような。昨今のFIREというようなイメージとにているのかな?

それでは「いまここ」と一致しないんですよね。

 

今日現在の私は、「悟り」も一瞬だと思っています。

そう、悟りも「いまここ」。

それが続くという保証はない。未来永劫「悟り」という安全圏に入れるというようなイメージでは無いんじゃないの?という意味です。

未来永劫「悟り」という安全圏に入ったと思ったら、ここにずっと居たい、居られるはずだというエゴがほとんどの場合生まれそうですから、それを気にしている限りは悟らない(はずなんだけど、理論上は)。

私の理解というか、ヘリクツ的には「悟ろうが悟らまいがどうでもいい」と心底心底心底心底思っている方の方が悟りに近い気がする。近いっていうのはイメージで、実際に距離などないだろうけど。

「いまここ」と言いながら、「悟り」という領域に入りたい。というご本人も気が付かない矛盾があるような気がするというヘリクツでした。

 

真摯に修行されている方も多いと思いますから、私の書くことは不勉強者のヘリクツです。

こいつわかっちゃいないな~

とスルーして頂けると助かります。

そう思い込んだ理由があるのでは?

瞬間の積み重ねが続いていて、それを「いまここ」と表現されていると思うんですが、何故か悟りだけ別物だと思いこむ理由があると思うんです。

そういった情報がどこかで流布した。多分実際にそういう状態にいない方が思い込みで「教え」たのかもしれない。

しかし、正解などないのなら、それもそれで本当かもしれません。

というようなことも推測したりしたよ。という話でした。

ここ最近は

ここ最近は、「できることをする」それで良し。と思っているんですが、先述した「ヨシモトオノ」でもそのような記述がありました。

正解はわからないけど、自分なりに考えて、違うと思ったら修正して、新しい景色が見えたら見て、覚えていたつもりのことを忘れ、できることをする。間違えたら学び、持って生まれた人間味も個性だと受け入れるようになったら救われた気がしています。