思考の形成
粘土をこねる
形成の手順
文章を書いてアップ(公開)した後に、書いた後(マラソンなどでは「流し」または「ウインドスプリント(Wind Sprint / WS)」と呼ばれるようなアノ状態をイメージしています)に、内容を引き続き脳内で練っているようで、それにより気づくことも多いです。
今日もそんなウインドスプリント状態から内容を書きます。
こちらの記事に続きます。
この記事の中に「悟りはゴールじゃない」という項を設けていますので、それについてちょっと書きます。
こちらに加えて、
の中の「次元上昇ってなんだ。私のヘリクツ説。」という項が合わさったことを今から書きます。
多分ですね、何らかの思想、信仰によって「上と下」という位置づけが人間?日本人?アジア人?が染み込み過ぎているんだと感じるんですよね。「天国と地獄」という信念みたいなものも関係しているんだろうと思います。昔コラムに絵を載せました(その時のイラストを2枚下に ↓ 貼りました)が、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も糸を上へ、上へと争って登っていくというお話でした。


こういった背景もあって、「悟り」が上がり(人生ゲームの上がり的な意味、現代のFIRE的なイメージ)だと思っている方と、次元上昇のイメージが近い方が多いのかもしれないなぁ と感じます。
そこには、優越感風味があったり、「知っているぞ、わかっているぞ」風味が寄り添っているようにしばしば感じます。しかしその逆に、自分がそこに参加できていないのではないか?と焦る派もある一定数いるというイメージです。
素人不勉強ヘリクツを炸裂させていただいてOKでしたら、この先もお読みください。聞きたくない方はこちらで離脱お願いします。

どっちも同じく「違う」気がしてしょうがない
最初にお断り
最初にお断りしますが、正解は存じ上げません。(ふ~んそんな事思う人もいるんだ。へぇ~。性格ひん曲がってない?)程度でお願いします。
脱出に違う意味があるのでは?
次元上昇の正しい定義をしりませんが、おそらく、次元上昇を信じている方や望んでいる方も正しい意味追求というよりイメージ先行ではないでしょうか? 違ったらゴメンだけど。
私が昔、自分の理想を「悟り」に勝手に期待したみたいに。
助走

自分の影には無関心。
「期待」とか、「救い」を求める側って自分のイメージを先方に当てはめますよね。事象にしても、ヒト(他人)にしても”思ってるのと違う! 私の期待に沿わない!”と不満や怒りを持つ時は相手を見ているのではなくて自分に相手を当てはめている(押しつけか?)だけな時が多いもんね。あなたや私が社会生活上正義だとしても、それを守る気が無いヒトに”私の期待に沿わない!”と不満や怒りを持つ時は相手を見ているのではなくて自分に相手を当てはめているのは同じでしょうから。
認知としては、「社会上必要なルールを守る気が無いヒト」というところを基本に捉えて、じゃあどうするのか?はまた別の話ですね。
認知と選択って別の作業だったりするという一例になっているでしょうか?
本来の意味ってこんな感じ? と今日現在は認識しています
この項の本題に入ります。
勝手な想像ですが、「一抜け」とか「脱出」みたいな思考に囚われなくなることが本来の「次元上昇」の意味じゃないかと想像したんですよね。頭と体に染み込んだ「一抜け」とか「脱出」といった固定概念を放棄する瞬間が増えることを意味しているんじゃないかな?という意味です。
それが次元上昇ならば、現実と精神世界をどちらも生きる。とか、元々そうなんだけど、現実をただ否定して脱出するのが主旨じゃないという前提を取り入れてみるとか、
悟りならば、それらの観念・囚われからの脱出だとか。
違う角度だと、自分から逃げないというか、今を生きるって今のその環境にいる自分を其の瞬間は生きるしかないだろうと思うし、それは多分想像している異次元への脱出とかじゃないような気がして。

間違えないで頂きたいのは、現実逃避や空想の世界へ逃避することで人間が壊れないようにする機能は私たちに元々あるようだし、そうやってなんとか生き抜いている方もいる。ただ、これらと、流行りの(?)スピ界での次元上昇には一線を引いても良いかなと思っている。
現実逃避や空想の世界へ逃避するというのは流行りだからしているんじゃない。切羽詰まっているときの生き抜く手法・戦法なんだと感じています。逃げない方が良い時もあるとは思うけど、0ゼロ 100ヒャク思考でそれしか選択肢がないと感じるから逃げるわけですから。
戦うか逃げるか反応で、戦わないなら逃げるしかない!という反射みたいなことですよね。命にかかわらないケースだと、逃げるわけじゃなくて”かわす”とか、戦うのではなくて一旦向き合う、向き合って環境を変えるなどなど実は選択肢は他にもあるんだけど反射で逃げちゃうという習慣が身についていたらその癖はよほど意識しないと一生変化しないと思います。
これらに一線があったほうが良いと思うのはあくまでも私の価値観でしかないし、流行りの思想も古い教えももう動いている(走っている)から止まらない。
こんなことも考えたりして前回も書いたように、次元云々というのは、今の社会から「抜ける」というよりも意味合いとしては「アップデート」じゃなかろうか? と想定しているわけです。
もし、「抜ける」こと「人生ゲームであがる」ことを自分のアップデートだと認識している場合でも、根っこの根っこでは「抜ける」「普通の人間として生きるのが終わる」というイメージで固まっていたりしないかな?と勝手に想像している。

陰陽論的にもこういった分類をされますが、心体に染み込んでもいませんか?
それはもう人間としてしょうがないことで、「空(クウ)」とか「無(ム)」とか「イマココ」と言いながらlightな「教え風味」をビジネスと絡めて普及する側についついなってしまう不整合性とも似ている感性なのかもしれない。本格的な教えだとされていても宗教法人という法人格を持つ時点でこれまたなかなか考えようによっては整合性が合わないような気もする。シュールなような気もするし、私の書き方が皮肉に満ちているようにも読めるし、同じ穴の生息者のように読もうと思えば読める。
並行世界に同時存在しているともいえる。
他人事は自分事。
フラクタル人形。マトリョーシカ。
自分トランスフォーマー、アップデートってなんだ?
スティーブン・キングの小説に「陶工が魂を込めずに創った作品は土塊なり」というようなセリフがあるのですが、わたくしこのセリフが甚(いた)く脳に染み込みまして、私の価値観や感性にとても大きく影響しました。

今回ここまで書いてきているような現象をヘリクツ解析するときにも影響するんですよね。
思考の形成・価値観の形成
思考って、粘土をこねてイメージを形にしていくような要素があるような気がしています。少なくとも手を変え品を変え私は何度も何度も似たような題材を扱いつつ自分の価値観、モノサシを設定していっているような感覚が確かにありますが、これらは粘土をこねてイメージを現実に形成していく行為と似ているような気もしています。
形成の過程
粘土をこねて、大まかに形を設定して、削ったり、加えたり、調整を重ねて、変形・成形していくというような感じですかね。
ですから、どこかの誰かの思想などをそのままなぞるというのは、コスパは良いのかもしれない。感覚としては粘土の型抜き形成みたいな感じで見た目は良いのかもしれないし、お手軽。
ただ、成熟というルートは通りにくいだろうし、微調整とか、ましてや変形や工夫ということ自体が荒業だと思われそうだ。
そりゃあ完成までの時間と手数のかかり具合が異次元でしょう。この異次元ぶりが次元上昇と表現されるナニカと関係があると思おうとしたらできるし、いろんな「教え」が安易なカルトになりやすい所以かもしれない。
「厚み」って平面(2次元ですか?)でも立体かのように描くことはできる。しかし、描かれた立体は実際には「厚み」を持たない。
錯覚を起こすこともできるってことですよね。

3次元以上の多次元となりますと、「厚み」もあるようですし、質量というまた別の要素も加わってくるし、積み重ねるという「時間」の影響により熟成することもあるだろう。複数の視点から立体を見る角度というものも同時に成り立ちますよね。

となりますと、私は個人的に「脳内多次元説」を採用していますから、思考だって粘土を形成するかのように、本当に立体化(厚みがでる、質量がある、熟成する)ということが想像しやすいです。
たしか、量子力学的にも思考に質量があるような説って無かったでしたっけ?

Gerd AltmannによるPixabayからの画像
あら、驚いた
つい数行前に「量子学的」と書くために「物理学 種類」と検索したら
物理学は、物質の構成や運動、エネルギー、時空の根源を探求する学問であり、大きく「古典物理学」と「現代物理学」に分類されます。主要な5分野は力学、電磁気学、熱力学、量子力学、統計力学です。
と出てきました。
ということは、私が過去、数学的な思考だと書いたような感性や、生体電気により影響しあうという感覚なども物理学に丸っと含まれていたんですね。なるほど。生きた物理学、社会生活で感じる物理学と言っても良いのかもしれないと思えました。
学校の成績は鳴かず飛ばずでしたし、学生時代(こんなこと社会にでたら意味無いし)と思って開き直っていましたが、あの授業のチンプンカンプンTimeも社会生活に役に立つもんですね。
先生が社会生活への役立て方を授業に織り込んでくれたらもっと授業が皆の人生の役に立つだろうけど、先生自体も「決められた教え方をする」以外には考えていない方が多いんだろうということが自分が大人になって理解できた。
そんなことはカウンセラーにも言えるだろうし、どの仕事もそうなこと多いんだろうな。

今回の記事をまとめますと、情報1つ、教え1つも、型抜き粘土作品のような受容・認識をするのか、立体のように見える絵で消化するので満足するのか、脳内のホログラムイメージで創ったつもり・わかったつもりになるのか、陶工となって全身の感性や神経や空間認識能力をフルに使って受容・認識するのか? などいろいろあるよね? そう思いません? 違います? ということを書きたかったつもりです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像
矛盾?の例として
最近書いた記事でご紹介したら良かった書籍
幸せになりたいと願いつつ、なぜ矛盾や葛藤を抱えるのか?というような背景の一部について書かれていたような記憶があります。
前回か、前々回の記事の中でご紹介したらよかった。

今回も一応アップ(公開)する前に読み返しましたが、なんか文章がわかりづらいような、何を書きたいのか伝わっていないような気がしました。
が、もうこれで一旦公開します。
トライ&エラーで言えば、エラーの回かもしれませんが、また次回わかりやすく書けるようにトライします。


