自分の特徴に気づくには
反応点
傾向の理解が進む
シンクロか?
こちらの小説をオーディブルで聴きました。
記憶喪失になって自分を守ったり、環境に無反応になり自己保護をするシーンが出てきたり、ヒトの本質や善意や理性が小説の内容の大きな点を占めていました。
コラムやblogをを書いた後だったので、見事なシンクロに感銘しました。
また、日常生活でも神様の配剤の意思を感じたと思いたくなるような出来事があって(これはすごいな)と思う瞬間もありました。
生まれて以来奇跡であろう一瞬一瞬の積み重ねだと思うようになったし、その中で生きながら人間風味をどう併せ持って、人間性をどう理解して継続させていくのかがこれまた奇跡みたいなことだと考えたりしています。
しかし通常はそれらが当たり前すぎて意識しにくいというか、奇跡ぶりを感じにくいのだろうと思うんですよ。これらを知識・情報ではなく体感で感じるのは人生舞台の壮大な舞台裏を見るようなものなのかもしれないが、舞台裏があるという知識はあってもそもそも体感しずらいような分野なのかもしれないです。
しかし何かの拍子に時々チラッとそれらが見えたような気持になる時があるんだろうと勝手に推測しています。それが量子のモツレの体感なのか、人生舞台の「破れ」による「その隙間」に起因しているのかは不明です。ただの勘違いや思い込みかもしれないからね。

量子のモツレの体感なのか、人生舞台の「破れ」による「その隙間」なのか?
以前コラムやblogに似たようなことを書いたような気がしますが、それが量子のモツレの体感なのか、人生舞台の「破れ」による「その隙間」といった感覚が今回は(あ!今、この場が天か神様か他のナニカかは不明だけどそれらに設定されてる)と気が付けたような瞬間があるとして、それに「乗る」か「乗らないか」を瞬間的に判断(選択)するというシーンもあったりするような気がしたんですよね。
今回の私はそのお膳立てがされた場(瞬間)に(これに「乗る」か?「乗らないか」?は私が今この瞬間決められるんだ)と感じた。あくまでも感覚の話ですが。
で、結果(このお膳立て(チャンス)を受けよう)と思ったんですよ。
何かを考える前に反応(反射と言ってもいいだろう)しているケースも勿論あって、人生のほとんどはこちらだろう。それでも時々人生の舞台裏を垣間見たような気持になる時があります。真偽は不明ですし、証明できませんが。
まだ見えないはずのシュレディンガーの猫が見えたのか?認知の隙間なのか?これが何を指すのかも良くわからずただの感覚で言葉を書いていますが、まぁこんなことも考えると楽しいですよね。(笑)

それとは逆で
どの文章で出会ったか忘れましたが、小説家さんのエッセーだったかもしれない。
そこには、あまりに良すぎるタイミングで起こった「ソレ」を選択しなかった。というとある方の体験談が書かれていた。
その当時の私は(へぇ~)とその文章を読んでいたのですが、2026年の今はその当の本人は
そのお膳立てがされた場(時間)に(これに「乗る」か?「乗らないか」?は私が決められるんだ)
という「破れ」?の隙間(舞台裏)を見たんだろうと想像しました。
そしてもっと自由に想像すると、A「乗る」、B「乗らない」のどちらを選択しても途中経過はいろいろあれど、人生の到達点はとても近いところで決着するんじゃないかな(と考えることもできる)。
それが「性質」というもののパワーというか、影響力かなぁなんていう意味で。
性質って?
この件で言えば、「破れ」?の隙間(舞台裏)を見たような瞬間に遭遇した際の冷静さが「性質」由来なのかなぁ?と捉えるからなのです。「破れ」?の隙間(舞台裏)というような存在の知識があったり、マルチバースやら多次元やらという情報をいくらもっていても漏れなく「冷静さ」が付いてくるわけじゃないから。
不思議体験や瞑想などや世界の仕組みが分かった感じになって禅病のようなパターンに入っていくような感じがする場合とそうならないケースの違いはこういった影響もあるかもねぇ。
認知力や精神力、ストレス耐性ということと関りがあるような気もするね。最近一気に広まったらしいメソッド的にはそれを「知性」と表現しているような気もするけど。
びっくりする位話が横道にそれました。

人目を気にして外見を整える
前項は書く予定の無かったことを書いていたので収集が付かないかもしれないけれど、前回、前々回のコラムの流れを汲んだ内容に軌道修正していきたいと思います。
自分に興味を持つ
他者にどう思われるか?他者の目にどう映るか?だったり、
おしゃれが好き!とか自分に似合うスタイルなど外見に少々気を配りますか?
体重とか、自分が心地が良い素材とか色合いなどなど。
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それらの程度を目安に自分の性質、傾向に注意を配っても良いのでは?という自己認知を取り入れる目安について書いています。それらを知っていた方が自分が過ごしやすくなるケースもあるから。
もともと合わないものに、「合わない」と傷つくことも減るし、自信を失うことも減るだろうし。

美容院に行く頻度で自分の身体のケアをしましょう!と提唱されていた沖縄の若きオステオパスがいらっしゃいましたが、こういう意味です。美容院で自分の外見を整えるという意識があるのでしたら、そのような意識をボディケアやメンタルケアに向けても良いよね!と。
「推し」がいらっしゃいましたら、推しを想うのと同じ程度に自分も大切に想うとか。
自分を研究、自分に馴染む
社会の中には私と似たような方がいらっしゃって、生きていくのがなかなかシンドイと思うからこそそのシンドさの原因や理由を研究せずにはいられない方もいらっしゃるでしょうか?
私は脳の性質上、自分を一生誤魔化し続けることは無理でしたので、これらを考えずにはいられなかったけれども、功を奏したのかどうかはハッキリしませんが、功を奏したのかもしれないと思えるほど楽になりました。

ただただありがたいですが、このありがたさをシェアできるかもしれない(シェアが誰かの生きやすさのヒントになるのなら書いておこう)という意味も少しあってこのような自己研究をせっせと書いたりしています。自分の脳内から思考を出す(アウトプット)ということが私自身の「楽」に繋がることが第一ですが、2次効果的に誰かのヒントになったら尚良しです。
「教え」は各自の好みで
ですから、仏教や神道や各種信仰や宗教的な解釈や説明をするつもりはありません。そういった用語ももう日常語になっているような言葉として使いますが、教えなどを広めるつもりもありません。ストレスケアの話を基本したいので、そこに余計な(あえて余計と書きますが)教えや思想を入れるのは全く好まないです。
仏教や神道や各種信仰や宗教的な解釈や説明を好む方はそういった発信を受け入れやすいでしょう。私はそれらの満足をご提供することはできない。
ただ、私の体験や意見を見たり聞いたりして、「それは仏教では〇〇と言います」とか「〇〇思想と同じです」とか、そうですね以前「不思議なほど一定のパターンが散見される。見えない道でもあるのか?」と書いたら「それは禅病」と匂わせてくださった治療家の先生がいらっしゃいましたが、こんな予想していなかった方向からの示唆も有難く受け入れやすい場合となんだか脳内フックがひっかかって違和感を持つ時があるんですよ。面白いですね。
また、量子学的な解釈や可能性なども自己研究として前項で先述したように書きますが、体感の解説に用いているだけでそれが正解とは書いておりません。
解説しているわけじゃないんです。
基本体感と実感、推論、自社データ(My統計)を書いております。
私が書いた文章がなぞられている?
私の書くものが読んでくだる方の脳にスッと入ることがあるんだとしたら、それは体感や実感を書いているからかもしれません。脳にスッと入った方がまるでそのまんま真似したような内容を発信されるのも私が知識や情報だけを書いているわけではないからかもしれない。と今思いました。
私も小説家さんたちの文体や思想などが脳にスッと入って無意識に寄っていますし、染まっている。影響力ってこういう事でもあるのかもしれないですね。
影響の「量」ではなくて「浸透ぶり」という指標。
以前眼科で診察を受けた際に、医師にされた質問に答えたら「君の説明はとても分かりやすいね」と言われたことがありました。体感の言語化がちょっと得意なのかも。と今思いましたわ。
そういえば過去、施術を受けた際の体感をブログに書くと、施術をした側のオステオパスが「体感のシェアが細かい」と私が書いた文章を紹介してくださった方もいらっしゃったし。
まぁこういったことも有難いことに私の特徴でしたら、どなかたの役に立つこともあるのかもしれないですね。小説家さん達や映画が私の血肉になったように。
脳内のフックはなぜ引っかかるのか?
とても自分が反応したセリフがありました。脳内にフックがかかった。フックがかかった理由がわかるまでしばらく脳内で思考を巡らしました。
そして、大きな原因に絞れましてスッキリ。フックが外れた。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像
「モヤモヤ」だけでは脳内フック外しに近づきにくいですよね。モヤモヤの正体に近づけば近づくほど脳内フックが外れる確率が上がる。「モヤモヤ」から「□□が強く影響している」などと具体的になるのを自己認知が深まると言うのでしょうか。
今の私はこれらの作業に対してスキルが上がってきましたが、こういったコツがわかるまでは自分の反応の特徴について取り扱いを理解するまでなかなか厄介でした。(理解じゃなくて体内物質とかのバランスが安定するのが個体として遅かったのかもしれないが)、頭と身体がしっくり連動してない感じがしてた。違和感ありまくりというか、どうしたらシックリくるのかな?という疑問を抱えた流浪の民状態でした。

私の脳内フックになる例で多いのは、言葉と行動の整合性が合わないことに対してのようです。
日常生活や社会生活に整合性がちゃんとしているような事例って皆無かもしれないのに、反応が起きる場合と起きない場合がある。整合性がちゃんとしているような事例って皆無かもしれないなら脳内フック案件の方が断然少ないことになります。
本当に人間は面白いです。いろんな組み合わせによって反応が起きたり起きなかったり。同じ人間でも違う反応があるし。体内も体外も刻々と変化している。
かと思えば、ヒトは変わらない。と思いたくなる時もありますよね。
正解等はなくて、コツコツ取り組んでいった結果が出るだけなのでしょうか。

シナプスを繋げていこう
余談
余談ばかりで申し訳ありませんが、ここ数か月で気が付いたことについて書きます。
潜在意識に願いを落としこんだかどうだか記憶がないほどノーマークだったことが現実化していました。現実化していたことに最近気が付きました。
えっ!? そうなの? ってことはかつての(それができたら楽しい人生経験になるだろうなぁ)が叶ってる!!??? とちょっと驚きました。
(そうなったら良いな~)と強く思うような距離感ではなくて、例のごとく(まぁ 無理だろうけどそんなことがあったら楽しそう)くらいに頭に浮かべた程度だったと思う。
過去にも、(まぁ 無理だろうけどそんなことがあったら楽しそう)と全く期待もなく、無理だろうなぁと思っているので感情も動いてなかったはずの案件でしたが気が付いたら実現化していたことがあったんですよね。
(ほほぅ。そういえば叶ってるなぁ)みたいなかんじ。
海外の方が書かれた本家?の引き寄せ本的には、感情たっぷりにイメージするのが基本形でしたよね? 私の現実化した案件に対してはそのようなことはしておりませんが、諦めつつも(そんなことがあったら楽しそう)というのは執着が無い状態でかえって良かったのかもしれない。願って忘れろ的に。
最近気が付いたのも、諦めつつも(そんなことがあったら楽しそう)(そんなことになったら良いなぁ)という感じだったのに結構大きなことが2件現実になってました。
日々の奇跡に加えて、これらが叶ってた。
そこに至るまでの自覚としては日々もがいて、疲れて、不器用なりに真面目に生きて、報われないことなどを悲観していましたけどね。だから「気が付いたら現実になってた」感がありました。
なんともまぁ有難いことばかりですわ。
人生面白いこともあるなぁと思える平和な今日がありがたいですわ。



