救われ方はそれぞれ

だから思想はいろいろあるんだね

あなたが救われたのなら私も嬉しい

前回のコラムに書き足します。

 自分の特徴に気づくには

特にこちらについて ↓

「教え」は各自の好みで

ですから、仏教や神道や各種信仰や宗教的な解釈や説明をするつもりはありません。そういった用語ももう日常語になっているような言葉として使いますが、教えなどを広めるつもりもありません。ストレスケアの話を基本したいので、そこに余計な(あえて余計と書きますが)教えや思想を入れるのは全く好まないです

 

過去に何度も書いていますが、私がどんなこだわりを書こうが、違和感を書こうが、生きづらさが少しでも楽になりご本人が良ければそれが一番なんですよ。

 

私の方針として、思想と信仰はご本人が選択したら良いと思っており、ストレスケアのサポートする際に私の側が「それは仏教では〇〇と言います」とか「量子学的には〇〇です」とか「神は〇〇と示されています」とか持ち出したくはないという事です。

理由は割とはっきりしていて、私が苦しい時期に仏教の教えを読んで知識にはなっても救われた感が無かったし、自分なりの信仰心は支えにはなったけど心体で感じたストレスが(おぉ!軽くなったぞ、楽になったぞ)と実感したのは「ストレスケア」だったからです。

ですから、悩んでいる方や生きづらさを感じている方に「教え」を伝えるって根本的にずれているんですよね(言い切るのも勇気が要りますが)。教え類は回復期の滋養にはなりますが、主は「教え」ではなくて「ご本人が主」として考えていきたいという私の好みがあります。

 

悩んでいる方や生きづらさを感じている方に「教え」を伝える方とはそもそもの立ち位置が違うのだと思います。ベースが「教え」なのか、「(例えば)療法」なのかの違いですが、優劣はないし、基本ベースの選択が違うだけで、その知識体系を創った方がはるか以前の方か近代で顔がわかりやすい方かの違いでしょう。

 

 あ!新しい宗教もどんどん生まれているらしいから、そうなると時代は関係ないですね。

ミスマッチ

ストレスケアをしたい方に「教え」を用いるのはずれてる。

教えを知りたい方に「ストレスケアがいいよ!」というのもずれてる。

 

悩みについて「教え」「メッセージ」で答えるというは核心がぶれませんかね?ぶれずに回復される方はそれがご自分に合っているのでしょうから良いですが。

カウンセリング、セラピー、ケアのそれぞれの得意とする分野もあるようだし。

 

私が「いまここ」みたいなものを感じるのと、じゃあそれを他者にわかった風に言いたいのかは別の話です。体験や体感をシェアするのはまたちょっと違う風味にカウントしています。

 

もし私が「教え」の答えだけみたいなものをシェアして、それを読んだ側のストレスケアになる方ってどのくらいいるんだろうか?私がそれをする場合は、それは教えを言いたいだけの自己満足では?悩める側は置いて行かれていないか?という可能性も考えたりします。だってこうゆうことを解きほぐすのが得意なんだから。そうやって自分の自己満も自己顕示欲も自己認知してきましたし。

 

自分目線で文章は書いていますが、思想というよりも体験談のシェアが多めのような気がしています。これも自己満は自己満ですが、自己満の中に他者や社会や人生のリアルみたいなものを大切にしているつもり。そういられたら良いなぁって思ってる。

もし、私のこういった考え方ややり方にも「教え」的な専門用語があるのかもしれないけれども、それが先ではなくて、実感と体感、嗜好に基づいて考えていこうよというのが基本的な手順です。

ご本人が楽ならそれが一番

ですが、これらの知識や情報、教えで楽になる方がいたら勿論それでよかったんだろうし、楽になってご本人が喜んでいるのでしたら私も嬉しいです。

 

相談者さん以外でも、苦しかったが信仰を得て楽になりました。という日本の方にも海外の方にもお会いしたことがあります。私もシンドイ時期があって今はストレスケアとも出会って救われた感をひしひしと感じますので、個々によって「教えに救われる僥倖」を体感されている方もいますし、カウンセリングやセラピーやケアによって楽になる方もいる。

皆様が救われた感があるのなら本当に良かったと私も嬉しいです。

 

私がそれら「教え」をご提供することはないのですが、求める方は仏教なら仏教、キリスト教ならキリスト教、神道なら神道、他にも数多くの教えがありますから、それらを求めている方はそれらをご存知の方を頼っていかれると思います。信頼できる方と出会えると良いですね😊

仕組みを本当に理解して実践しているなら「発信」しない?発信以外の反応もしない?

私はヒトとして有難く生まれましたので、ヒトとして感じる情熱や嗜好や思考を満喫したいと思っています。思考力と感じる心体の働きを感じられる僥倖に感謝しているし、体験できて有難いと思っています。

過去のコラムに書いたように、ある日「生きていることに私たちが期待するような意味はない」という体感を理解したような気がした瞬間があったり、「この人生の中の『この世は幻』の最高実感感覚」を感じたような気になったこともあったけど、そこで止まることを良しとしないことにしました。

ヒトが悩んだり苦しんだりするのは「生きている感覚が欲しいからだ」という(なるほど)という視点にも出会いました。

原文は次の  まで飛んでいました。

2026/04/08追記&補足—–

以前、何も感じないような「無」Timeを経験したように感じていた時に

「無い」というのはこうゆう感じか・・・ふーむ。というものの中に味覚も無かった。水を飲むんだけど、水を飲んでいる感じがしない。神経とか感覚みたいなものが「無い」という実感(感じないんだから「実感」という表現はおかしい。「体感」が無いような体感。というのがおかしいように)。

心が動かない感じ。だから何かを見ても反応しない(反応する自分は深く眠って意識がないような)。気持ちの良い風が吹いていても、風が吹いているという現象は認知できても、そこに「気もち良い」とか「湿気がある」とかには無反応。というか、無感覚。

これらを試すという思考力もありませんでしたが、もしあの「無」Time中に肌を針でツンツンと軽く刺激していたらどうなっていたんだろう?感じたのか?無感覚だったのか? やっていないから答えはありません。

こういった珍事な時間の最中に、(ということは過去の自分のシンドさや苦しみ、もがき、悩み、葛藤、嬉しさ、幸福はそれらを感じるという「生命」の実感だったのだ。)という視点も理解しました。あくまでも個人的に。

全て(なのかどうか不明。いや、ジャンルが不明)が「無」Timeでは、これは生きているという実感がないのは確かだ。という理解をしました。どういう事かと書きながら思い当たったのは、「(自)我」「反射」「反応」「欲」があるから生きている感じがするんだろうという事でした。ですから、これらを失くすとか、あることを非難するとか、無くすことを推奨するのは「人間やめろ」的な意味も下手したら含みますよね。それを推奨している側はそんなつもりなど無くても、仕組み的には同義語になりかねない。ということは他者尊重とは真逆か?

だから私は「教え」をカウンセリング・セラピー・ケアに取り入れるのを好まないのかもしれない。

私が「教え」に救われなかったのはこのような「肯定しつつも目指すところは人間はやめんと最高到達点には行けんねぇ」みたいな仕組みをどこかで(矛盾があるのでは?)と感じていたかもしれない。

 

  どえらいことに気が付いたかもしれない。(◎_◎)  書いていると結構新しい気づきがあるんですよね、予定していなかったこととかドンドン脳内に出てくることがあるから楽しいわ。(笑)

 

そう、以前から私は「悟りを開くことが私の今回の人生の目標じゃない」と書いている。以前はそこを目指して近くまで行けば行くほど楽になると思っていたけど、私の生きてみたい人生はそれとは違うんだとどこかの段階で理解した。悟りを開くために人生を満喫される方もいらっしゃるだろうが、私は死ぬ瞬間に「あぁ生きた!人生これでよかった。ありがたかった。」と思いたいんだったと自分の望みに気がついて、路線変更した。

もちろん、今日生きていることなど奇跡の連続の結果だと思うので、「生かされている」「なるようにしかならない」「全て決まっている」というお話も分かる。わかるけれども、その方が生きやすい方はそう捉えるだろうし、そう思いつつ、それと並行して「いろいろ考えて、試して、経験して、感情が動かされて、なんか上手くいった時はうれしくて」みたいなものもマルチバース・並行宇宙とのフラクタル形としてあると思っていた方が楽しそうだと思う派もいると思う。

こんな感じ。自然の中で生きている、できる範囲のことをするとちょっと変わったりする。時として案外の飛距離を出したりするかもしれない。

私は基本マルチバース派だからなのか(ただ恰好をつけて表現してみた)こういった考え方の方がFitするというだけの話で、正解など知らないし、正解があるのかどうかも知らない。簡単に言うと「思想」の話だろうし、とどのつまり「好き好きだろうね」というオチなのかもしれない。今回のコラムのタイトル通りに。

 

こんな経緯もあったので、長々と加筆しました。

 

元の文章だけでは、文章の読みようによっては無関係の方に失礼になりますから、この部分 ↑ を追記&補足をいたしました。

ヒトが悩んだり苦しんだりするのは「生きている感覚が欲しいからだ」という(なるほど)という視点にも出会いました。

というこの文章とその意味したいところは、個人的な体感、視点、理解だとご理解お願い致します。

—- ココまでが追記と補足でした —-

それを知っていても、わかっていても、「自分の人生」「今生きている感覚があることの僥倖」に感謝して「幻でもどうでもいい。感覚が気のせいや勘違いでもどうでもいい。ありがたく感謝して生き続ける」と決めましたので、そうして生きています。それらの教えを(なるほど)と体感したような気がしても、その下に入らなくていい、下に入ることが正解じゃない。影響されなくてもOKだという世界観を「新しい次元」とでも書いたらそれっぽく聞こえますか? まぁこんなそれっぽさなどどうでもいいよね。ただの例え話だから(笑)

感覚的には、新次元よりも、エンジンの乗せ変えとかギアを丸ごと変えたようなイメージが近いかも。今を今までと同じように生きているんだけど車体が変わったとか、エンジンの仕様がかわった。しかし走る道は同じ。という例え話です。乗り心地が変わったり、走り心地が変わったりして、乗ってる私の気分も楽になってるみたいに。

 

これらの(なるほど)というような体感があるまでは、教えなどの情報や知識の我流理解で「この世は幻らしいから、じゃあ何にも感じなければ楽じゃん」とか「感情的な反応は人間ができていない証拠。感情を失くした方が楽で優秀で良い」という返って生きづらさが増すような手法を選択していました。こういった自分の体験があったので、やたら仏教思想を放り込まれるのも、幻なんだよ、量子学的にも。みたいな解説も(ずれてる)と感じるようになったわけです。

ここが一番大切なんですが、これらを発信する側や説く側が悪いんじゃないなくて、私のその時その時の状況や心境とマッチしなかっただけなんです。

でも良かったことは、自分のこのようなトライ&エラー体験によって、教えが良いとは(万人のいろんな状況に合うとは)限らないというケーススタディを得たことでした。

 

教えを悩みの「答え」のように口にする側は、その「この世の理ことわり」説を聴いた側が「自分はそのようになれない」と苦しむ人がいるとは想像しないのかもしれないし、悩みの間に教えというワンクッション入れ込むことで問題を複雑化する可能性を考えていないかもしれない。「教え」の使い方(引用)と伝え方が悩めるご本人にマッチしていないと苦しみが増すこともあるだろう。しかし、それは私が書くストレスケアについても同じです。

ただ、ストレスケアには「この世の理ことわり」説感のような圧力(実はこれらも圧力になる作用を含んでいると感じる場合もある)は極少のような気がしますが。

 

書かなきゃいいのに、書いてみる

この項の見出しに書いた気持ちがするケースって少なくないかも。

仕組みを本当に理解して実践しているなら「発信」しない?

発信以外の反応もしない?

について説明を書くと、「あるがまま」を心底、心底、心底から理解していたら「発信」ってしないと思う。「あるがまま」を心底から理解して受け入れていたら「意見を言う」「発信する」ということに意味など無いし、そこに情熱も発生しないだろう。

 

それこそ、これも以前のコラムでもたびたび触れている、古きヨガの師がヨガの到達点みたいなものを「死んだように生きる」と表現されたらしいある種のこの状態になるんじゃないかと思っている。

 

はるか昔、悟ったらホームレスになりやすい。みたいな知識をどこかで得たが、これの方が(なるほど)と思うのが安易だもの。「どうでもいいわけだから。」

 

ですから、世の中にたくさんいらっしゃる「教え派」の方で、発信行為をされている方はその時点で私の中では教えや知識が好きなのは確かだろうけれども、心底その世界に生きているとは限らない。ということになっています。「どうでもいい」「いまここ」ならば、何かを見聞きして「俺は(私は)こう思う」という反応をしない(そもそもそういった反応・反射が起きない)と思う。

「無い」ってそういう事なんですよね。

心底、心底、心底から理解したら「無く」なるような気もするけど、どうなんだろう?正解は知らないです。(私は無くならなくていい派です。最後まで人間味満々で生きていくでしょう。)

 

教えや知識が好きなのは確かだろうけれども、心底その世界に生きているとは限らないことだって「どうでもいい」ことだし、私自身はそこを求めて研究しているわけじゃないし。

ただ、行動と発言内容が違うのでは?という面で私の脳内フックに引っかかってしまう。世の中そんな事例ばかりなのになんだかこーゆーのに引っかかってしまう。

というか、自分の脳内フック反応に気付くのが先で、その後に「発言と行動の整合性に違和感として反応している」という理由がわかるという自動センサー方式でして、これこそ潜在意識なのかもしれないですね。(笑)

こーゆーことを書くのが良くない理由

私は脳のクセがあり、その衝動を抑えることもできはするんですが、あえて書きました。

私が引っかかる事例や発信者が悪いんじゃなくて、私の側が街中の騒音を測って表示する機械みたいに「ただ反応して表示している」だけなんですよ。

表示(書く)すると脳内のアウトプットになってスッキリするんです。スッキリするというのは「終わっていける」という意味でして、だんだん「無く」なっていくような気もする。

理解が進んで「無く」なっていくことってあるんですよね。

 

世の中のアレコレに反応して、その反応している自分を感知してその反応が起きた事象を表示(文章化)しているに過ぎません。死んだように生きていない証拠かもしれないですね。しかし、ご本人じゃなくてもなんだか自分のことを書かれたかのように感じた方はいい気持ちはしないこともわかります。

私もそんな反応をすることがあるから。

遠い国の住人

小説やドラマや映画をみて「私と一緒」と感じることがありますよね。「あら?私もひょっとして同じことしてる?ギクッ」みたいなことも。

そんな感じで「遠い場所で誰かナニカ言ってるな~」程度に読んで頂けましたら助かります。

 

 

皆様が健康と笑い声のある生活を送られますように。

 

脈絡なく補足

「記憶はいかようにも変わる」「記憶は、現実に起きていなくても記憶される」というコラムを書いたことがありますが、また新しい参考映画と出会いましたのでシェアします。

「リグレッション」を観る | Prime Video

リグレッション : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 – 映画.com

 

ネタバレ注意

退行催眠療法も「幻」かもしれず、信念も記憶も幻。

脈絡なく補足したつもりでしたが、「幻」という共通のキーワードがあったというオチでしょうか。