フラクタル理論は物理か? 化学か?

無学で申し訳ない。

フラクタル理論は物理か? 化学か?ということをネット検索したら、物理という記述があった。

 

前回の記事の続きを書きます。

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

そして、以前書いたブログの方の記事との関連性についても触れていきます。

なんと! また名称があった。それはフラクタル理論

ようやくしっくりする言葉が頭に浮かんだ。

今朝いきなり天啓が下った。(笑)

しかし多分、天啓ではなくて、私の記事を読んで下さっているどなたかが、(それはフラクタル理論だよ)と心の中で思った事を私が有難くキャッチできたんだと気がついた。どなただろうか? ありがとうございます。

 

そう、こんなどなたかのご厚意により(そうか、フラクタルだ)とひらめいた。

私の知識程度では、フラクタルとは、(同じ図形が繰り返されるパターンのことだっけ?)としか思えなかったので、ネット検索した。

いつもと同じ烏の行水検索ですが、良いです、雰囲気は私のイメージと似ていたので。

そして、この理論と世の中と、世の中の事象と様々な化学や物理の理論と、私の脳の捉え方の関連性が整理できた。(正解かどうかは別だ)

 

で、どんどん話を進めていきますが、心理学の「投影」ということは、それぞれの脳内のフラクタル図形を目の前の事象や人物に見出して反応しているんだな。という考え方も出来ますでしょ?

だから、誰でも世の中の相似形というものにはずーーーっと反応し続けているし、自覚していようが無自覚だろうが、図形やパターンを捉えている。

そもそも、学問や思想、宗教というものもこういったパターンや型を私達に示唆していたりします。

とあるタイプの脳内で起きている事

私もそうだし、私の脳のタイプ(脳のタイプが似ている方はお話していると分かることが多いが)と似ている方の特徴は、図形やパターンを見ているという自覚があることや、解析のような事をしているところや、それをMyデータとして蓄積して整理していることかもしれない。

加えて、こっちがより一層特徴的なのかもしれないが、感情が動いていますが、このパターンを捉えるという作業も同時にしているため、感情に包み込まれる脳のタイプとは認知する範囲が異なるのだと思えます。多分、何か起きた時、見た時、聞いた時に、脳の1か所だけで反応を起こしているのと、脳の数か所で反応を起こしているというような違いがあるのだろうと今は理解しています。

一か所反応タイプは感情的に即座に反応して、数か所タイプは一呼吸、二呼吸、もしくは数時間、数日、数年という「時間」を利用して、結論を出すまで寝かしている。

 

専門用語ではなくイメージで書いていて申し訳ないのですが、こういった脳の反応のことは他のコラムにも割と沢山書いているのでご参考にして下さい。

ですから、脳のタイプということは、脳の使い方のタイプということになるわけですが、

私のような脳のタイプは、図形やパターンを見て、解析のような事をして、それをMyデータとして蓄積して整理するというサイクルとずーーーっとやってきた。おそらく生まれついての習性で、クセなんだと思う。

ですから、私が「考えている」と自覚しているのは、このサイクルの中の「解析」のところで、全てが初めての頃(経験が少ない頃)はココに時間がかかった。流用できるデータやパターン認識がないわけですから。私の読書熱は自分の経験不足を補うためにデータとパターンを集積したい熱だったんだなと今気がつきました。それも固まった集合域以外からの情報も欲しいので、乱読した。その後映画熱にもなりましたが、兎に角パターンと型を無尽蔵に集めて「ステレオ理解」に留まらない、広範囲のMyエビデンスが創りたかったのかもしれない。

フラクタル理論を活用するにはまだデータが足りない! なんて認識などゼロでしたが、兎に角、(もっと、もっと)と欲していた。

今になれば、認知できるフラクタル図形の範囲を大きくしたかったとも言える。確かに今のように落ち着く前は、新らしい環境にもどんどん飛び込んで一から始めるようなことも人より多くやった。

 

ということは、どなたさまも同じですが、年齢を増すと今までの経験が活きてくることがあるんですよね。経験値ってそういうことですものね。

エビデンス

エビデンスというものの論文を見ると、実験データなどが掲載されていたりしますが、その結果というのは分布しています。ですからエビデンスとして発表されるものは一番多い域(値)を「効果」というようなものの根拠にするのですが、その大きな集合域から外れているものが必ずある。

そして、実際の日常生活にも大きな集合域に属さない出来事も出てくるし、行動や思考もでてきて、スポーツの世界でもそういった方は天才と呼ばれたりするでしょうし、アインシュタインとかダビンチとかも大きな集合域から外れて活躍された方でしょうし、飛びぬけた方は各分野にいらっしゃる。

 

諸説ありますが、確率的には60~80%くらいのものは割と決まったパターンや型が適用されるそうです。

教えや思想というものは、60~80%などではなく、全てをそこに当てはめて解説するような感じですね。

帰ってくるとか、こないとか

そして、前回の私のコラムの中の

そして、少ないMYデータでは、これに魅力を感じ始めると一気に進んでいくことが多い。行き先は一線を超えた先。そして帰ってこなくなる方もいる。10年くらいで何か気づいたり、帰ってくる方もいるが、10年と言うのは早い方かもしれない。どうやらこんなことにも慣性の法則が働くようで、どんどん行っちゃうケース(だと私が勝手に感じただけ)が殆どだ。帰ってくる方の多くは行くところまで行って突き当たった方で、突き当たらない方は慣性の法則は止まらないようで帰ってこないみたい。

ということについて話題を進めます。

 

帰ってくるとか来ないとかという表現は「私の居る場所が正しい」という意味合いではなく、趣味嗜好が異なることと、私がその一線を超えることを好んでいないというただの好き嫌いの話です。好き嫌いの理由として、「危ない」と感じてしまう私の脳のクセによりこのような表現をしています。

 

そして、これも相似形の1つであり、とあるフラクタル図形が私には見えています。

パターンが見え始めるのは、ほんの少しの(例えば)違和感です。

それを前回のコラムでは嗅覚と書きました。

この辺りの嗅覚は敏感かもしれないが、それは勉強ではなく、観念・思考追及でもなく、市中の出来事を見聞き、体験、検証してきたことを整理してきたからだと思っている。

 

そして、この手のことは、不思議と、というか、確率や法則にのっとったかのように展開していき、エビデンス以外のことが起こる確率が本当に少ない。

  1. 最初に(おや、なんだか怪しいな)と感じ、
  2. (あら? 前より進んでる?)と感じ、
  3. (こりゃもう完全に足を踏み入れてしまったな)と感じ、
  4. 帰ってきたら「お帰り」と言おう。と思う。

 

何か警告をしても通じたことがないので、起きていることをただ見ていることしかできたことがない。自分を振り返っても同じだよな~と思えるし。

しかし、今は、よっぽど親しければ、私の勘違いだとしても 1.の段階で当人に伝えようと思っています。私の勘違いなら「ごめん、勘違いだった」と謝ればいい。

 

直接伝えない時は、ひょっとして何かの役に立つのかもしれない、立たないかもしれないが、前回みたいに文章にすることがある。何かを期待している訳じゃないが、何もないとも限らないという気持ちで書く。

何度も書くが、私は高みの見物ができる立場じゃない。あくまでも構成物の中の1つだし、フラクタルの一部に属している。

そして、今はこういったことを書いているが、同じような事を発言していたり、書いていた方が一線を超えていくこともある。私も別にそれを免除されているわけじゃないからこそ理性を大切にしたいと思っています。

止まれないのは、慣性の法則なのか? 止まりたくないという本人の選択か?

前回の最後に

無くしてしまった自分を愛せますか? 消してしまった自分を愛したいですか?

と書いた。

 

一線を超えた先には、ある種の恍惚感やうっとり感、フワフワ感、覇者感、万能感、全能感は感じるだろうと思う。

人間の(そこをくすぐられると弱い)というようなことも一線の先の入り口辺りに準備されていることも多いだろう。何故なら、より一層止まれなくなるように慣性の法則を喚起する必要があるからね。

実際に、一気に加速していくように見えるもん。

で、影響されやすい人を巻き込んでいくし、影響を受けやすい方は自ら飛び込んでいく。

 

しかし、我に返った時に、こんな質問に答えてみて欲しい。

  • 周りの誰かと「ワハハ~~~~」と楽しく大きな声で笑っていますか?
  • 肩を寄せ合って、顔を見つめ合ってクスクスと楽しく笑っていますか?
  • 心を寄せ合うという感じがありますか?

 

そう、あなたの大切なナニカを置き去りにしていませんか?

 

あなたが寄り添いたいのは誰ですか? どこですか?

 

というような話になってきやしないかと私個人的に思うわけです。

 

自分の人生の方向性や好みをちょっと真剣に考えるって大切じゃないかな~って思う時はこんな時です。

 

人間だから、パターンにはまっちゃうこともありますよ。私も散々やりました。私もやったから見えてくる色々なものもあるんです。

しかし、違っていたな~と思えばパターンから抜けることができる。

慣性の法則をとめる、この手の恒常性となったものを変えるのが、簡単な方も難しい方もいるのもわかる。脳の仕様によってはハードルが高いこともある。

 

今すぐとは言わない。

いつか我に返ったときに、おそらく考える時がくる。

 

失敗でもなんでもなくて、私達の人生はこんな仕組みになっているだと今は思っている。

ずーーーっと続いてきて、これからもずーーっと続くのかもしれない。

それも含めてのフラクタル理論なのかもしれないですね。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

 

最後に

こちら ↓ の記事も、結局のところ、その他もろもろ みな一緒。と書いたが、分かりやすい単語がもうあった。

フラクタル理論だ。

それこそすべてがこれに該当しないか? という感じだ。

 

以前は「入れ子の箱」「マトリョーシカ人形」現象と書いていた頃があった。

そして、この記事の中には量子力学と書いてある。

「私達の認識と脳内の特色」と「宇宙論」と「量子力学」

 

 

相似形という言葉がこんな表現に変わる日が来るとは予想できなかった。

誰だ! こんな素晴らしい理論に気がついたのは! と検索したら、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロさんだそうだ。フラクタル理論とは、この方が導入した幾何学の概念とのこと。私は勉強の数学は出来なかったが、考え方は数学的なのかもしれないなと再度自己認知したということで今回は終わります。

多次元と素粒子とミラーニューロン その他もろもろ みな一緒

今ならもう少し数学が楽しいかもしれないね(-_-)

 

 

そう、今多分、頭が一時的に良くなってるみたいなので、今のうちにかける記事を書けて良かったです。(笑)

アルジャーノンに花束を みたいなことが私に起こっているようだと下の記事でも書きました。

続 ゾーンについて(補足)

 

 

(2020/04/29)(2020/05/05 加筆)

 

コラム一覧へ戻る