自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

競争社会と私。情報と私。ストレス自家製造の仕組みと私。

今回のコラムは、こちらの続編として読んで頂くと分かりやすいです。

ONの中のON ONの中のOFF

 

ある日の体験

今から書くような不思議系については、いつもはサイト「こすも」に掲載するのですが、私の行った瞑想風な体験で得た(ような気がした)「なるほど」のシェアが活きてくるような気がしてきたので今回今までよりもう少し詳しく書いてみたい。

 

1つ目

これまでも何度も書いていますが、「ストレスに感じるものについて、分析も深堀も理由探しもせず、自分の身体の陰陽の仕組みを使って統合、融合していく。」という手法を行い「あ!」と思うや否や、ストレスを感じた瞬間に統合、融合していく方法を採用していることを、以前、私が勝手に「脳内に宇宙図書館がある」と思っている治療家の方にお話しましたら、「武田さんが行っているのは陰陽のこの図のことですよ」と教えてくださり、続けて非常に私にとっては貴重なことを教えてくださった。

この時に私の目からウロコがドバドバとどっさり落ちた。

なぜなら? それはこの「宇宙図書館が脳内にあると思える方(リアルマスターヨーダとこれも勝手に書いています)」が、この図が立体だと教えて下さったからです。

これは大大大ホームランでした。昨今、こういったことを教えて頂けるチャンスって無かった。

私がある日突然やり始めたストレスケアの、その行為の理由や説明などを気にしていなかったし、教えてくださったような答えがあるということすら知らなければ、探す気もなかったから、教えて頂けた瞬間 脳内のシナプスがグググっと広く繋がったし、つながりが強くなった気がした。この先にも書くが、このご教示のあと、いろんな点と点がまた一層繋がった。

 

そして、そんなことを私の頭脳は教えて頂くまで知らなくても、身体や直感は知っていたことにも(へぇ~)という気持ちになる。私がこの方法を取り入れるきっかけになった過去のご縁からの流れと、同じことを知っていても(情報を共有しても)その後の変化には個人差があるということも思い出した。

個人差の因子の1つに、瞑想を頻繁にするのか?、しないのか?があったことにもたった今気がついた。

 

2つ目

ある日、私は実験をした。

自分一人で。

実験の詳しい内容は、マネする脳のタイプによっては危ないといけないので省きます。

 

よく、上からのメッセージとか、下へ落ちるとか、深層意識へ潜るとか、上と繋がるなどという表現が使われますでしょ?

 

で、私がこの時の実験体験によって何を理解したかと言うと、上も下もない。

上と下は繋がっているということでした。

 

こんな話も、今書いていてようやく気がついたのは、

これもまさに「陰極まれば陽に転ず。陽極まれば陰に転ず。」を体験したという事でしたし、理論や思考、意味づけではなく、「なんだろうこれは?」という体感があるということは大変ありがたい事なんですね。

自分自身と調和している場合と、不調和が起きている場合。ONとOFF。

 

2つ目の体験も、まさしく陰陽の

  • 太陰大極図(たいいんたいきょくず)
  • 陰陽太極図(いんようたいきょくず)
  • 天地自然之図(てんちしぜんのず)
  • 先天太極図(せんてんたいきょくず)

の立体の中を移動したんだね。この実験では、あえて「移動する」ということにチャレンジしたんですが、まさか自分が太陰大極図(たいいんたいきょくず)の中を移動しているとはこの時は気がついていなかった。

 

1つ目に書いているストレスケアの方法は、天体の宇宙ではなく、人体の中の宇宙の仕組みを使っており、其処には時間も縦横高さも関係ない(よって上も下もない)ということを実際にお会いしてお伝えした方は数名いるのですが、その中のお1人はこのストレスケアの方法と「宇宙の発生」との類似性を教えてくださった。

 

エッ!そのような宇宙の在り方を利用するつもりなんて無かったけど、そう言われたら そうねぇ。一緒に思えるわね。あらまぁ という新鮮な驚きがあった。

 

そう、太陰大極図(たいいんたいきょくず)は宇宙を現わしているんだということは本には書いてあるが、それはあくまでも学問・知識・情報として受け止めていただけだったのに、関連性に無自覚なうちからその仕組みを使ってストレスケアをするという実践だけは先にやりはじめ、そのあと、時間も縦横高さも関係ない(よって上も下もないというか、繋がっている)空間を移動したかのような体感をし、多次元とはこの様な感じか。と言うまた別の体験もし、これらにより物事の本質のようなものを体感し、「なるほど」「これはこれとして受け止めておこう」と頭の片隅に保存しておいたあと、幸いにも、「あなたの体験はこれですよ」と私が質問する前に回答をいただくが如くこの太陰大極図(たいいんたいきょくず)が立体だと教えて頂き、自分の各種体験の関連性の1つの解釈を得ることができました。

約10年弱前に(あら!これはなに?)と体感をし、友人にシェアしました。「東洋医学というのは、古来の先人達の体感によって構成されたんだな」と実際に体感したのです。本に書いてある事は例え話じゃなくてホントだったと友人に話ました。しかし、その時よりも月日と共に体験が増え、「ホントじゃん」ということに益々厚みがでた。

 

1つ目のストレスケアの話をリアルマスターヨーダに話している時に、この2つ目の体験との関連性までは私は気がつけていなかった。

リアルマスターヨーダは私の話を聞きながら、(それは太陰大極図の1つの体感だな)と思っておられたのでは?とようやく気がついた。・・・遅いけど。

あの時のあの言葉とあの表情はそういうことだったんじゃないかな?

 

物事を理解する時に、時間がかかることって多い。

私は割と気がつくのが遅いタイプだが、理解に先行して体感していることが多いのは有り難いことだとつくづく感謝している。

 

陰陽が一体ならば、善悪も一体

世の中には情報が山ほど情報が溢れている。

その情報の多くは、正義感を刺激し、好奇心を刺激し、不安を刺激し、真理・真実を知ることが大切だと刺激し、恐怖を刺激し、虚栄心を刺激し、ヒエラルキーを創り出し、少しでも「上」に行ったら安心できると思わせたりする。

欲求は刺激されまくりで疲れてくるし、麻痺してくる。

自分に関心を持つどころじゃなくて、外からの刺激への対処で、もう大忙しである。

何かしらの競争意識を刺激されていること自体にも気がつかない。気がつけない。

 

その情報が「これは真実だ」と言おうが、「秘儀、秘伝」といおうが、「正義だ」といおうが、「真理だ」と言おうが、

あなたの「ヒトより抜きんでたい」「ヒトより知っていたい」「ヒトよりわかっていたい。利口でいたい。」という競争意識を刺激しているのなら、あなたは蜘蛛の糸ゲームに参加している「勝つことだけに興味がある、自分に無関心な状態」であろうということを頭の片隅に入れておいても良いと思う。

 

抜きんでることを目的にすることに問題があるんじゃなくて(それがワクワクするなら止めろと言われてもやるよね。元々やめろと言う必要もないし。抜きんでることが好きな自分に関心があるなら、自己の状態を認知できてる。)、そんな自分に気づいているのと、いない場合の違いを表現したかった。

そもそも、蜘蛛の糸を垂らしているのは誰でしょうか?

この方法以外にも救済の方法はありませんか?

なぜわざわざこの蜘蛛の糸は1本なのでしょうか?

 

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、道徳心が養われる物語でもあるでしょうし、競争心が育つ話でもあるでしょうし、因果応報に対する恐怖や不安も育つ話でもありますね。出来事にはいろんな側面があります。私には教科書(だったはず)の挿絵が一番効いたけど(笑)

 

競争自体じゃなくて

勝ち負けを決めるゲーム(将棋もそう、スポーツもそう)は、勝ち負けを決めますよ。というルールを参加者が同意している。

同意して参加しているのなら勝ち負けに力を注ぐことがそのゲームや競技のあるべき姿であろうとも思えるが、

生きていると、自分が参加表明したつもりのない勝ち負けゲームに参加しちゃっていることに気がつけない時がある。

ぶら下がった覚えもないのに、蜘蛛の糸を掴んじゃってると、自分に関心があるわけじゃなくて、競争に関心がもっていかれちゃう。

 

良い子思考もそのうちの1つ。

 

競争に参加していることには気がつかないが、「自分に関心を持とう」とか「自分を愛そう」とか「労わろう」という情報には反応しておくと良さそうだ。と思うそれは、他の刺激と同様、「良さそう」という刺激に反応しているだけなのだとしたら、そんな自分に結構驚くよ。自分で考えることと、刺激に反応しているのとは分かりにくいけどやっぱりナニカ大切な部分が異なることが多いみたい。

 

それもまた別の蜘蛛の糸だったとしたら愕然としませんか?

もうね、こんなこと多いよ。案外多いもんだよ。

 

こういった事も、フラクタルのパターン、入れ子の箱、マトリョーシカ人形のように大小のパターンが組み合わされていることを知るという事も良いと思う。自分もきっちりその中に入っていることも含めて。

 

自分は抜けた。と思った先のトラップ

私達の欲望や煩悩と呼ばれるものは、分かったつもりにはなるけれど、奥が深いものですよ。

 

いや、奥が深いということも幻の迷路で、おそらく本当はとっても簡単なんだろう。

難しいのは、自分でいる。という方なのかもしれないね。自分に関心を向けるという事なのかもしれない。

 

ということは、焦点をあてるところは、欲望や煩悩を消すテクニックではないのでは無いか?

これがテクニックの問題なら、無心になるはずの瞑想で厄介なことにならないということがデフォルトだろうし、デフォルトじゃ無いにしても厄介が起きるケースが多過ぎやしないか?

いや、、数じゃなくて、こじれ方の話か。

 

 

どんな存在が、どんな天才的なゲーム盤を創っているのかは私には理解できないが、「自分は世俗的なものから抜けた。」「私はヒトより抜きんでた。」それこそ「ステージが上がった」という考え方の先にトラップがあることが多い。

 

陽極まれば陰に転ず。ということなのでしょうかねぇ。

 

トラップに引っかかると、自分に跳ね返ってくる事も多い様で、この跳ね返りは結構痛い。こたえる。

それとも、この天才的「人生ゲーム」盤を管理している審判員はなかなか厳しいってことなのか? 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」によると、審判員はお釈迦様が兼任していた気がするが。

 

だからと言って、因果応報という法則については私は門外漢ですよ。それらしい自社データはあるけれど、よくよく見ると、出来事というものは入り組んでいるためにそんなに簡単に言いきれない。

 

で、どうするのか? これまで書いてきた事を踏まえてどう考えるのか?

自分不在ということは、割と何重にもベールに包まれている時があって、丁寧に優しく、その多くは自分でかけてしまった隠し身の術を解いていくことが望ましいと思っています。

 

こういったことの経過には、今まで信じていたものが違っていた。と感じる体験も含まれているのでシンドイです。

信じていたものが違っていた事を認めるだけですよ。と書くのは簡単なんだけど、そこに根底からの自己否定が入ってくるとキツイ。

世界がひっくり返るような衝撃が走る時がある。その異変は心にも身体にも現れてくる。

 

でも、復活できます。大丈夫。

時間がいつまでかかるのかわからないけど、俺(私)は復活する。生まれなおす。仕切り直しだ。と思っていたら良い。

 

身体の電位、波動、磁場、次元が変わる時はこんな感覚がするんだなと思っていたら気が楽ならそれでもいい。

 

その復活劇に、ストレスケア、セルフケアがあると、ダメージから立ち直るのも楽になる。

 

中庸でいるというのは難しいという話ですが、中庸が生きやすい1つの立ち位置と仮定するならば、それは「自分で居る。」という意味もあるんじゃないかな。あちこちに引っ張れず、自分で居る。それが中庸。

 

改めて、精神的な成熟度という言葉を連想したが、それは、中庸で居られる時間が長い方をそう呼ぶのかもしれない。

 

自分を無くしたり、消したりするのは、ひょっとしたら 陰極まれば陽に転ず。陽極まれば陰に転ず。 ということなのかもね。

 

しかし、厄介な事になったとしても、また中庸になったら済むだけなんだけれど、自己否定が入ると信じていた足元が大きく崩れる感じがするのでちょっと長引くことがある。

 

しかしもう一度書きます。

でも、復活できます。大丈夫。

時間がいつまでかかるのかわからないけど、俺(私)は復活する。生まれなおす。仕切り直しだ。と思っていたら良い。

その復活劇に、ストレスケア、セルフケアがあると、ダメージから立ち直るのも楽になる。

 

私の個人研究

世間の評価やブームとは全然関係なく。とも言えないが、ヨガ人口が流行や体験、口コミによって増えるにつけ「おや?」と思える事例が目に付くようになった。おおよそ10年ほど前からだ。それがヨガではなく、ヨガにも含まれている瞑想の影響ではないか?ともう一段階「おや?」と感じた原因が幸いにも最近クッキリしてきたような気がしている。

ヨガと瞑想の事例を別々に考えていたが、それが一連のながれ、1つと考えるのは難しくない。が、別々に考えても良いケースもあるのかもしれない。

私の個人研究の仮の答えは得たが、まだ最終結論とは言えないし、生きている間に最終結論がでるような気もしていない。

 

マニアックな個人研究の1つとして

先ほども触れたが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」についてもう少し書く。

私が小学生? 中学生?の時に「蜘蛛の糸」という話を国語の教科書で知り、挿絵を見て、「これは大変な話で、この挿絵は大変なものを見事に現わしているぞ」と脳裏に焼き付いた。

これは世の中の1つの仕組みを現わした図ではないのか?と。

実例 競争に興味がない

私自身も競争しなくちゃいけない時に、この挿絵が頭に浮かんで、(私は競争しなくちゃいけないんだ)ということが凄く嫌だった。

小学校の水泳部の先生は、ちょっと怖かったけど「勝て」とは言わない先生で水泳が好きだった。小さな大会はいつも1位だったが、大会に出ることにはほぼ興味がなかった。大会に出る事が部活動のルールだったので自動的に出場していた感じだった。

 

中学になったら、「勝て」という先生だったので、楽しく無くなってきて逃げた。

私が「勝つ」ということがモチベーションになるのなら良かったはずだし、「勝て」と言われても心が屈しなければ楽しめたはずだし、「勝てって言われると萎縮します」と自分の気持ちを言えたら良かったのかもしれない。これに似たような事を言ったこともあったが、あの先生はその時、「俺、そう言う考え方キライ」とそっぽを向いた。

今なら「俺、そう言う負け犬思考って嫌い」という意味だ。

そういう時代だったし、人気があった若かりし頃のあの先生は、生徒は皆自分の言う事を聞かないと許さないキングだったし、私は屈するか逃げるかしか当時は考えつかなかった。また、女性につきものの生理も水泳部となると切実だ。しかし「勝つ」ことが目的だと生理などは部活動を休む理由にしてはいけなかったのも(こりゃダメだ。できない)と思った理由でもあった。

結果逃げたわけだけど、自分が逃げたことは私が一番知っている。年を重ねた今はそれで良かったと思っている。何故なら、今は全然泳がないけれど、泳ぐことが嫌いになっていないもの。それどころか、泳ぐことが仕事のダイビング業に大人になってから就いたし。

タイム(速さ)を他人と競う競技としては没頭できなかったけど、泳ぐことは好き。とても気分が良い。

私の水泳の楽しさは、

  • 無重力感
  • 浮遊感
  • 水に乗る という感覚
  • 水が身体を撫でていくようなすべらかな感触
  • 何も遮らず伸び伸びとした様
  • 綺麗なフォームでゆったりと大きく動く事
  • 水の中で聞こえる音の独特な様
  • 透明感 だった。

好きな要素にスピードも勝ち負けも1ミリもない。

これらが私と「泳ぐこと」のベストな相性なんだと思う。そこに他人はいない。競争は無い。

 

競争に興味が無いと、さっきのイラストはこんなことになる。

 

当時、「俺、その考え方キライ」と言われた視点だ。

 

キング思考では、コレ ↑ は負け犬だが、私は別にそれで良かったんだからしょうがない。

 

ジャッジも評価もする必要がない。正義感も必要ない。見下す必要はもっとない。

ただその状態を見るだけ。認識するだけ。

 

私の場合は、自分が楽しめない世界でも、その中で活き活きしている皆さんを(凄いな〜)と思っている事も多い。その気合や、パワー、強さに感銘を受ける。

私には出来なくても、尊敬する事って本当に多い。

 

ジャッジも評価も押し付けも説得も見下しもしないということを、していないつもりの人でも実際やっている。

それも人間だからさ。当たり前なんだよね。

私もこの体験があるまでは抑えようと気を付けていても度々ひょっこり顔を覗かしていたが、その多くはこの体験でぶっ飛んだ。

なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

 

(ご本人は無意識・無自覚の場合が多いけれど)蜘蛛の糸に登りたいから登る。という行動を尊重することがどういうことか?が少しずつ理解できるようになった大きなきっかけだった。

 

私もなんだかんだと変化はし続けているが、これは近年で一番、もしくは二番目に私に変化を起こした体験だった。いや、これも凄いと思っているけど、予想すらしておらず、ぶっ飛んだことって他にもあるのよね。(笑)

 

実例 競争に興味がある

競争がモチベーションで様々なスキルが上がっていく方はそれが良い。合ってるんだから。それでどんどん伸びていくんだから。楽しいんだし、達成感があるんだし。

私だって皆無じゃ無いし、追い詰められてチカラが付く事もある。

 

私がサポートで関わっているサッカー少年は、勝つ話になるととても楽しそう。やっぱり気分が良いし、ワクワクするそうだ。

抜きん出る事だって大切な目標で、今は「楽しむ」という感じではなく集中している。試合や大会が節目としてモチベーションが維持できる役目も果たしているし、仕切り直す役目も果たす。

だから、なんでもかんでも勝ち負けが悪いなんて今時の運動会みたいなことは私は全く思っていない。私のように、勝ち負けによって自分に気がつく事だって大切だ。

 

会社員の時も、一人で地味にコツコツなんてイヤ。競争や成績が評価されると思うとやる気が出る。という先輩もいた。当然営業成績は日本一だったし、先輩の美意識には「ぶっちぎりの売上高」「スポットライトがあたる」「賞賛を浴びる」というものがあったので、それを有言実行していた。凄いんである。本当に凄い。

やはりプロなんだ。

私にはできないが、やっぱり適正ってあると思う。おそらくあの先輩が私の今のような生活をしたら、「頭がおかしくなる。私にはできない」と言うだろう。

適正とは人それぞれ。

 

私も、小学生の水泳大会のように、好きでやっていたら結果「勝った」ということならばいいけれど、勝つことを強制されるとこれがまた変な事になってきてしまう。

また、嗜癖、好みによって、好きで競争するのと、

知らぬ間に、または、強制的に蜘蛛の糸ゲームに参加しているのとは大きく違うんでしょうね。

 

自分を知るってこんなことも含まれています。

 

良し悪しじゃない。

競争が悪い訳じゃない。競争が前提のゲームやスポーツがあるんだし、そういったところで自分のエネルギーを使ったり発散して、上手にバランスをとっている方もいる。バランスとは人それぞれだもの。

 

勝ち負けにこだわるのは、人間性が低いからだと思うのは違うと私は思う。精神性の高低でもない。(と私は思う)

そういった高低を当てはめたり、高低を決めているのは自分だ。 ただそれだけ。

競うことが楽しいのに、急に人間性の問題に替えなくても良いと思うし、そうやって自分の楽しさを封印するのは勿体ない。

競技って、技を競うものだから。

 

それは私が私自身に「ゆっくり泳ぐな」「競え」といって泳ぎの楽しみ方を封印することと同じだろう。

 

そして、もう1つ。「理由」

意味づけや理由探しについて書いたコラムです。

雑念? メッセージ? 気づき?

 

その理由探しや意味づけも、ナニカにむかっての蜘蛛の糸なのかもしれない。

登る必要はないが、登りたい。

登る必要があると、いつの頃からか信じていた。

理由や意味があると「達成感」という「勝ち」(価値)が得られる。

何も得ないのは無能だ。と言うことではないと思うんだけど。

 

 

蜘蛛の糸に登るのは自由だが、この手前の視点でも事が足りるジャンルのことがある。

ありのままを受け止める。あるがままを観る。という視点だ。

 

ジャッジも評価もする必要がない。正義感も必要ない。見下す必要はもっとない。

ただその状態を見るだけ。認識するだけ。

ジャッジも評価も押し付けも説得も見下しもしないということを、していないつもりの人でも実際やっている。

ということが次なる代表的なトラップであることを書き添えておきたい。

 

そして、このトラップは「私は知っている」「私は抜けた」と思いやすく、「私は特別だ」という他者への見下しも起きやすく、優越感を自分でくすぐったり、他者が神輿を担いだりするため、一層気がつきにくい厄介へと発展するケースが多発するようだ。(自社データによる)

 

 

そうなると、一回りして、またまた「中庸」ということの大切さが身に沁みてくるわけですね。

 

 

理由が大切な案件と、ただ理由を後付けしている案件を一度整理して、理由が無いといけない。という呪縛級の捉え方を一度俯瞰してみてください。

  • ただの「気分」にまで、もっともらしい理由が必要か?
  • 好き嫌いにどこまで理由が要るのか?
  • 興味がないことに理由が必要か?興味を持つことに理由が必要か?

 

理由が必要。先に理由を考える。というワンクッションによって、見えなくなることってある。割と大切なものから見えなくなるのが不思議だが

優先順位として、理由が先というのもなんだかおもしろい。 その理由が目的に沿ったものならその理由こそが大切な時もあるが、なんでもかんでもにそれは要るのだろうか?

 

確かに理由が大切な時もありますが、私の勝手な体感としては、刻一刻 一々理由は必要ない。細かく細かくやり過ぎて、大切なものがぼやけちゃいそう。

ぼやけちゃう=知らないうちに蜘蛛の糸ゲームに参加している。という、なんとも表現しづらい物凄い人生ゲームが繰り広げられているとしたら?

私はそっちの方が嫌なんですよね。

 

あなたにとって何が蜘蛛の糸なのかはそれぞれですが、

まずは、糸を握っていることに気がつかないと手は離せない。そして、手を離すのにも勇気がいる。

 

誰かに手を離せと言われて無理にやることもない。

自分で気がついて、やりたければやれば良い。

それに、1つ、あくまでも自社データによるが、「目を覚ませ」とか、「気がつけ!」と、さも分かったような事を言う方も、多くの場合蜘蛛の糸を握ってる。ガッチリ握ってたりする。私も例外じゃ無い。

フラクタル図形、次元とは、幾重にも入り組んでいるものなんだとよく思います。

 

 

そう、こう言った事を改めて見直してみようとするのか、しないのかも、好みの問題になっちゃうんだけど。

 

知らないうちに参加するのはなるべく控えたいと思った時には、どっしり構えるということを意識してみてください。リラックスですね。

安心とも言えます。

 

そういった安心感とお馴染みになっていくため

私も手を替え品を替えつつも、同じような事を書き続けて、食傷気味だと言いながらまた書いているわけですが、武田の一つ覚えになりますが、

ストレスケアは大切だと今回も書きます。

 

過剰な恐怖は、強制的に蜘蛛の糸ゲームに参加させられてしまう条件になりやすいです。

安心感とお馴染みになりましょう。

 

私は私で良いんだ。という安心感。この安心感にも段階があり、だんだん変化していきますよ。

どうぞ生活の中にストレスケアを取り入れてください。必要なくなったらやめたら良いので、すっきり生き易くなったな~と思えるまではやっておくと良いですよ。

 

すっきり生き易くなったな~と感じた時には、中庸体験中かもしれませんし、何かしらの真ん中あたりにいるのかもしれないですね。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

 

散々書いて、何回も一周まわって、最後に

物凄く簡単に書くと、

ストレス耐性をつけよう! と言うことになるのか?

 

これこそ振り出しに戻ってますよ。

私がブログやホームページのコラムをせっせと書き始めた初期にいつも書いていた様な気がする。

 

何年も経って、振り出しに戻って、ストレス耐性をつけよう。という言葉を久しぶりに書いて今思うことは、

答えはシンプル。というのはこんなことなのかな?ってこと。

 

情報まみれになって砂の城の上の安心感を得るのと

ストレス耐性があって「なんでもこい。どんとこい」と思える安心感の質は全く違うもんね。

 

 

 

(2020/06/30)

 

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