そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?

最初にお礼を書きます。
まだ直接お会いしたことが無いのがとても残念なのですが、CBSキネシオロジーの代表 松原次良先生とはFacebookで繋がらせて頂いてます。

ただの私の勘違いなのかも知れませんが、松原先生は私の自己研究報告と考察のようなコラムを読んで下さっているのではないだろうか?と感じる事が時々あります。

というのも、面識のない私に、チルチルミチル、青い鳥のパン屑のような道標を度々ご提示くださいます。Facebookの投稿でさりげなく考察に類する言葉や知識を道標やヒントとして送って下さっている様な気がしてなりません。それに関するこのような言葉があるよ。表現があるよ。というようなニュアンスを勝手に受け取らせて頂いています。

今日のコラムを書き上げて、子供のサポートから帰宅してもう一度読み返したらアップしようとしていたのですが、出先でFacebookを見たら、松原先生がまたまたヒント、道標、知識を送ってくださいました。(その様に感じた。の意)

そのヒントに関することを出先で簡易ながらも調べたら、今日のこのコラムの内容が中々的を得ているような気持ちになりました。

松原先生、いつもありがとうございます。治療室にお礼に伺う日を楽しみにしています。

非常に有り難いことに、門下生ではないわたくしにも、智慧を授けてくださる先生方(今日の松原先生も、度々登場する大竹先生も)に感謝ばかりです。ありがとうございます。

ONやOFF以外の大切な事

以前の記事の続きだと思ってください。

似ている記事はこちら

ONの中のON ONの中のOFF

 

前回の記事はこちら

どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に

 

何度も似たようなことを書くことにウンザリしかけていた時もあったけれど、やはりそれでもキーボードを叩いて文章を書いてきた自分がいます。いろいろな表現や考え方をシェアすることで「伝わり方」が変わるので、似たようなことだと自分が感じていても、読んで下さっている方に何がピンとくるのかはわからないし、自分がそれなりに真剣にお伝えしたいと思う事ならば、手を変え品を変え、分かりやすさを追求することも大切だと思えるようになった。

ついつい書いてきた今までと異なり、初めて、「同じ事でも何度も書けば良いじゃん」と思えた。もう飽きたわと思われれば読まれないだけだもの。

後に出てきますが、私は書くことで思考が先へ進みます。書いている時にひらめきや思考が次に展開するヒントが湧いてきます。ですから、同じような内容でも、私の中では毎回「新しい事」が含まれているんです。そういう事に今頃気がついた。

そう、私もなんだか知らないうちに一歩進んでいた。(笑)

オフをオンにするという行為が余計に自分を見えなくするという事を考えた事はあるだろうか?

OFFをONにするという行為が余計に自分を見えなくするという事を考えた事はあるだろうか?

 

  • バランス調整を複雑にしたからなのか
  • 基本を踏まえてないからなのか
  • 流れが美しくないからなのか
  • 心がこもってないからなのか
  • ただの作業になってしまったからなのか
  • バランス調整という行為の純粋さやエッセンスがその行為に含まれていないからなのか
  • 始まりのころの純粋で大切なエッセンスのような何かが途切れてしまっている場合もあるようだ
  • ONにしたから大丈夫、と そこでストップして、その先を考えないからだろうか?
  • ONになったその後のやり方、その先の進め方を知らないと言うこともある。(その先の進め方がわからないので、時間が経過すると元に戻らざるを得ないという作用が働くのか?)

 

チャートにのっとっていたら良い場合も有るだろうし、チャートにのっとっていない方が良い場合もありそうだ。

 

オフをオンにすることが、返って自分を見失う方向へ牽引する例が少なくないのはなぜだろう? と、これも特に誰にも話すことは無いものの、自己研究していた。世の中の風景の中にその構図・パターン・型が浮き上がって見えているのでそれについてなんとなく考えずにはいられない。何となく気にかかるその構図・パターン・型が現実に増えていけば、(なぜだろう?)と気になるものだ。そうなるとぼんやり見えていたものを、目をパッチリと開いてみるようになった。焦点を当て始めるわけです。広くも、狭くも、縦横斜めからも。その一部が前回の記事になった。これまで書いてきたコラムも同様だが。

 

答えはあるのだろうか? と思いつつ、パターンが見えてくるのを待っていた。

1つの仮定

それは、

要らないものを取り除いて行っているつもりで、どんどん本来は必要のない「良さそうなもの」を取り入れていっているからではないだろうか?

 

それは、

「良さそうなもの」を取り入れないと良くならないという思い込みじゃないかしら? 「解放」「リリース」という名目・目的で、捨てているつもりで「取り入れ」ている。

これがOFFに鈍い心体づくりのようなことを重ねることの怖さだ。そんなつもりなど無いのに、OFFに鈍い心体を形成する「行動」になっちゃっている。OFFに強いんじゃなくて、OFFに鈍い。強ければOFFに影響を受けにくいが、鈍ければ影響を受けているそのものに気がつけないまま厄介な事になってくる。

がしかし、OFFに鈍い方がひょっとして色々考えなくて済むのかもしれない。流されて生きていきたいという嗜好の場合は、OFFに鈍い方が楽なのかな?とも思えるが、そうなると話は別だ。意識的にも無意識的にもそこを選んでいることになる。其処にはひょっとしたらONにも鈍くなるという事も付いて回っているのかもしれないが。

 

コレがダブルバインドやトリプルバインド、それ以上の複雑化につながってる。前回も、生きていればダブルバインドもやトリプルバインド、それ以上の複雑化も人生に内包していると書いていて、それはその通りだろうと思っていますが、そのような事象に気づいていることと、もう何がどうなっているのか訳が分からないのとでは少々心体の反応も考え方も変わってくると思える。

 

 

すると、

複雑なものが良いという信念が出来上がる。いや、私が感じる限り、シンプルと言いつつ、複雑な手順を好むケースもある。シンプルになろうという目的でストレスケアをしながらどんどん複雑さを取り入れていくこともあるようだ。手法に囚われて本来の目的を忘れてしまう事って多い。ストレスケアに限らず、私達はしばしばいろんなものを忘れる。

 

シンプルを体験しないと、何がシンプルかわからないものね。シンプルなヒトと話さないと、シンプルの具体例がわからない。複雑な方と話さないと、その複雑さは推察できない。OFFが好きな心体になっているとシンプルが苦手になるケースもある。

 

簡単なもの、シンプルなものは効力がないという価値観になったり、逆行を感じにくくしたり、依存が増したり、素直から遠ざかる。この(私の、俺の)ストレスがそんな簡単に解消されるわけないと思い込むこともある。

 

自分をそのまま感じるという素直さからも遠ざかり、「良さそう」な感じ方に自分を合わせていく。合わせていくのだけれど、それが吸収されず、表面上の憑依、演技、真似、思い込みのようなものだと効き目に時間の長短があるだけで自分の土台には組み込まれていかない。

 

 

オフ(オンにも)に鈍感になり

オフがデフォルトになると

オンにしても

オフの中のオンにしかならなくなる可能性がアップするとしたら、

私はこっちの方が嫌なんですよね。好みの問題です。

 

 

だって、オフが好きになり、オフに惹かれていくんだもの。

そして、オフに気がつかなくなる。

 

すると、居心地が悪く感じるオンを遠ざけるようになる。ONにも鈍くなる。

 

もともとの自分に気がつけなくなるということは、気がつくチャンスはますます遠のいてしまう。

 

コレが一つのカルトのスタイルだし、危なっかしいタイプのスピリチュアル信仰だし、ヤバイ洗脳の一つの特徴だ。それを行っている側ももう気がつけないので、言う事もそれらしくて良さそうだし、ある意味言葉はあっているんだけど、それを構成しているエネルギー(エネルギーという表現がイマイチ好きじゃないので、もっと的確な言葉が良いのですが・・・)、構成されている粒子か量子かなんとも言いようが無いのですが、理解度や伝え方というようなそういったものがOFFを伝播させ生産していくというようなことがあるのだろうか?とも考えたりしました。

そういったものはやはり一見それらしいし、短い時間はONにもなったりするし、ウットリ感があったりして心地よく酔っぱらうことができる。しかし、心体内はまるで樹海でグルグルまわって正しい方向をさせない方位磁石のようなことになっている時がある。ある種の「混乱」だろうし、逆転だろうし、「自分の明け渡し。自分を見失う。」ような事なのかもしれない。

 

良さそうな教えやそれらしい法則や、ついに解明されたらしい新しい情報や知識、学説は数々あれど、それ自体が厄介を引き起こすわけじゃない。それを利用、採用する側が厄介を引き起こすということは遥か昔から繰り返し起きているわけですよ。

一線を超えるというようなことも、はるか昔からいろんな言葉、表現で警鐘が鳴らされているわけです。

けれどそうなってしまう。

いくら書かれていても、聞いても理解できないことがあるということや、わかったつもりになっても本当に分かるわけじゃないということ、影響を受けて自分もそうなった(立派な人になったとか、真理がわかったとか、能力を得たとか)と思い込むことと実際の行動は異なる(ということはそうなっていないってことです)ことがあるということも、自分自身が「居た」うえで体験して、体験から得たものを自分の土台へと循環・変換させていくという大切にしたほうがいい手順や経緯があると思う。

どうやら、OFFの中のONという事では、土台への循環、変換あたりが怪しそうなのである。以前の「表層を撫でている程度」という表現を用いたころがありましたが、同じ事です。そうなるとグルグルと同じパターンを繰り返す。「抜けた」と思い込んでいるので余計にパターンに気がつきにくくなるという厄介なオマケまでつく事もある。

 

エゴの肥大化にもなるだろうし、魂もインフレーションをおこしちゃう。なんと、禅病という言葉がある事を今日初めてFacebookの投稿を拝見して知りました。

そりゃあ、躊躇せず一線を軽く飛び越えちゃう。そして、先へ先へと加速度がついて進んでいく(誰でもありますよ。軽いものから危ないものまでさまざまな一線があると考えているので、誰にでもある。)

 

 

気をつけよう。

私も気をつける。

マジで。

 

例えるのなら、樹海の中でいくらONにしても、そもそものONとOFFという磁石が機能していないという感じだろうか?

うん、これはなかなか良い例えのような気がする。(樹海の中で方位磁石が効かないというのが都市伝説だとしたら、ごめんなさいね)

このコラムの文章を仕上げ手前で、あーじゃない、こーじゃないともう一度考えていた時に、この例え話の中の樹海の中でOFFをONにしているつもりで、ONをOFFにしてしまっていることってあるのかな?と頭によぎった。

・・・こんな可能性があったとしたら、まぁまぁ怖い。

やっぱり、ストレスケアもやみくもに行うより、丁寧にした方が良いね。と、勝手に自己完結しそうになったよ。(そしてこれは強く伝わって欲しいところではあるのですが、シンプルというのは手数、手順のシンプルさという事とは少し違う意味があります。それを構成するエネルギーというか、エッセンスのことを書いているつもりです。私の文章力では表現しきれませんが、これを読んで下さった方にイメージがいつか伝わることを願っています。)

 

大切なのは、最初に樹海から出て、景色の広がった見通しのよい場所に出てみると良い。方位磁石が働く環境で改めてONやOFFを確認してみてはどうだろうか?それがシンプルという1つの意味でもあるつもりです。

ぎんぱさん

ねぇ それって具体的にはどういう意味? 抽象的過ぎてわかりません。

 

心体カウンセラー 武田美紀

ですよね。お気持ちわかります。私も経年による今日までの自社データしかありません。
で、生きているうちに1つの正解のようなものを出すのがなかなか難しくて、正直この段階で正しい答えは書けそうにありませんので、この先も、私の今の考察を書いて行きます。

 

2つ目の仮定

これは1つ目の中にもあったんですが、「ただの作業になってしまっている。」をもう少し丁寧に書きたい。

「食べる」という例え話が分かりやすいでしょうか。

 

ただお腹に何か入れば良い。という行為も食事と捉えている方もいます。

ただお腹に何か入れば良いからお菓子だけ食べるという方もいます。「朝ごはんはお菓子」とお菓子を食べることを食事と捉える方もいる。

お腹に入るなら滋養を考えたいという方もいます。

お腹に入るなら、食事という行為も楽しみたいという方もいます。

お腹に入る食事という行為を楽しむために、花を飾ったり音楽をかけたり、盛り付けを美しくするという五感を使った工夫をする方もいます。

お腹に入るということを食事と捉えて、食材の調理法も食事に含めるかたもいる。

 

と考えたりすると、

ただOFFをONにする。ことについては「ただOFFをONにする」だけでそれでOKなの?

 

これを読んだ時にキネシオロジーテストを愛用されている皆さんの脳裏にはムクムクと反論や疑問、補足がしたくなる反応が起きていることでしょう。(笑)

重ねて書きますが、これは答えではありません。

作業になっているとはどういうことか?の(ヒトによってはイライラする)例え話です(笑)

 

そのOFFをONにするということに関わる質や内容ということは、次なる課題なのか? 私はそこも最初からかかわる問題ではないのか?と思うこともしばしばです。

 

そして、これはヨガにも瞑想にも気功にも禅修行にも信仰にも教えの類にも修行系のアレコレも同じことだということを書きそえると、もっとモヤモヤする方を増やしてしまうことでしょう。

考察 答えは「不思議」

唐突かもしれませんが、こちらのブログの続きをここに書きます。

 

この一線を超えると、不思議にひょいっと後ろに下がってもそう簡単に抜けられなくなっているようだ。グルっと一周回ってくるというのが順行で、この順行の流れでしか元の位置に戻れないというルールでもあるのだろうか?と感じるケースばかりだ。元の位置っていうのは、純粋な自分というような事なのかもしれないが、OFFの微調整でそこへいとも簡単に戻るということは想像するより難しいのかもしれない。OFFの微調整で後ろへ戻るという感覚は逆行であり、ONにしてもあまり意味がないというような可能性はあるだろうか?

 

これを書いていて浮かんだのは、始まったら終わりまで行くしかない私達の今の人生と同じ形なのだろうか?これもフラクタル図形のパターンだろうか?という事でした。一線超えゲームというのは、人生の中にあるいくつかの輪廻転生ゲームの1つで、始まったらグルっと一周するしかないのかもしれないね。もしそうなら、「不思議にひょいっと後ろに下がってもそう簡単に抜けられなくなっているようだ。」という私の感覚と非常に似ている。

また、その「一周」は、短いものから長いものまであるようだ。

 

そして、輪廻転生ゲームの内容にもよるが、一周回ってくることが非常にキツイケースがある。多くの場合は途中でやめる。もうしょうがない。(途中でやめたってそれはもうしょうがないことなんだということを絶対に書いておきたくなった。)やっぱり精神力や生命力や思考力や自分の人生に対する情熱や愛、それとケアなどが揃っていた方が頑張れるが、なかなかそこまでは難しいようだ。また、「抜けたつもり」の場合は、抜ける最後の最後にまた似たようなお膳立てをされてなんだか試されるような時があるが、そこでまた一線を超えてしまって新しい一周(ゲームはだんだん難しくなったりする)へ突入することがある。これが本当に多い。

それももうしょうがないことなんだ。それが当たり前のことなんだ。

私達の人生は大小さまざまな輪廻転生ゲームを繰り返すことで、体験し、学び、知り、考えていくのだろうと感じる。様々な人生の歯車と表現しても良いのかもしれない。歯車の動く方向に順行と逆行があると考えるとイメージしやすいだろうか? 歯車の逆行は空回りにしかならないというようなことはあるのだろうか?

 

自分にとことん向き合うって難しい。自分の「負」と感じるものを認めきるのは難しい。認めたら強くなり、逃げると弱くなるようなんだけど、弱ったところからの回復がまた厄介度数が上がる気がするからこそ、早めにちゃんとケリをつけておいた方が結果ラクなんだと感じている。しかし、早めに気がつけるのはおそらく天才級の能力なんだろうね。

「負」と感じるだけで、負でもなんでもなく、人間としてのデフォルトな機能なだけなんだけど、それを認知するのを邪魔するものはなんでしょうね?

 

いくつか頭に浮かびませんか?

 

一例を挙げるのなら、「抜けた」「自分は例外だ」「自分は特別になった」と思ったそれが、まさにエゴを肥大させ過ぎる新しい一周の入り口だというケースが本当に多い。本当に本当に多い。ですから、土台の変容や地固めというのは時間がかかると最初から思っていた方が良いみたいなんだよね。適した時間をかけてゆっくり丁寧にやっていこうとしていると良いみたい。そう思っていたら案外早く血肉になって土台になった時にはラッキーだと思えば良いと思ってる。

早い変化を「ひゃっほー」と喜ぶと、厄介が増すことが多いようだ。

先述の文章をもう一度用いると、

まだ定着していない自分をそのまま感じるという素直さからも遠ざかり、「良さそう」な感じ方に自分を合わせていく。合わせていくのだけれど、それがまだ吸収されておらず、表面上の憑依、演技、真似、思い込みのようなものだと効き目に時間の長短があるだけで自分の土台にその気づきはまだ組み込まれていない。時間というものや、定着ということもストレスケアの際には考慮しても良いと思うのはこんな時だ。

 

なんでこんなことになっているんだろうね?

誰がこのようなルールらしきものを創ったのはわからないし、本当にあるのかないのかも見えないけど、しかし現実に似たパターンとして其処此処で起きているようだし、ルールの適応を免除されている人も居ないようだし、太古と書きたくなるくらい昔からルールらしきものはあるようだ(それこそ、あちこちの「教え」にかかれているもの)。

 

不思議。ほんと不思議。

 

こんなことを気にせずどこでも何度でもグルグル回ればそれで良い様な気もしてくるし、見えもしない様々な一線などというのは単に私だけの感覚で、何の威力もない。そういったパターンがあるようですね。という感覚がただ「ある」だけだから、コラムを読んで頂いて、唾棄されるのもOKだし、ちょっと考慮してみようかと思って頂くのも人それぞれの人生の好みだ。

 

今も昔も引き続きある

がしかし、今も昔も、警鐘は同じように鳴らされ続けている。「危ないよ」という人は居なくなっていないということです。

おそらく「本能的」な辺りで、危険を感じる類のことだと思えるからじゃないかな?と感じているんですね。ということはこの辺りに鈍いということはやっぱり改善した方が良いんじゃないかと思うわけです。しかし、ONにし続けていてもこれらに魅力を感じて(感じるのも人間のデフォルトだと思っています)、感じるだけならまだしも、易々と超えてしまうというのは何なんだろう?というようなことが、私の個人研究の発端だった。

吸引力の強さの問題なのか、吸引される側の弱さの問題なのか?(私個人的な体験で言えば、やっぱり私が弱かったですけどね。自分がこんなに弱いなんて! がっかりだ!(号泣)という気持ちになりましたもの(笑))

 

まぁ強くたって、「魔が差す」という言葉があるので、あっさり足元をすくわれることだってありますよ。みんな一緒です。

自分にいつまでも失望したり、間違いを認めたくなくて頑張っているよりも、「こんなことがあった。今後は気をつけよう。」と認めて、早く一周回っちゃった方が楽ですよ。あぁ、バランス調整だけに頼ることなく、自分でも気をつけたりするという変化をしないと、また一周始まっちゃうようだけど。

逃げたり、見ないふりをするよりも、「また一周はじまっちゃったの? え~~~なんで? 私どこでまた同じ事選んじゃったっけ?」とさっぱりと割り切って、どんどん一周回ってきちゃうことを私は選んでいるつもりで、その際に「私どこでまた同じ事選んじゃったっけ?」と考えていないとその周回に終わりがない。何も考えずにOFFをONにしているだけで良い時と、バランス調整と共に考えた方が良い時があり、この時に考えるのは、「良さそうなもの」「テクニック」「思想」「教え」「メッセージ」について考えて視点・関心をずらすのではなくて、自分が樹海から出る方法を考えるというシンプルに的を得る事が適しているのではないだろうか?

これが樹海のような独特の磁場のようなものから出るコツということなのかもしれない。

余談 私の輪廻転生ゲーム例

私は以前も書いたが、同じ仕事、同じ職種にならないように転職してきた。わざと。多くの社会や生き方やルールを体験してみたかったという理由も一応あるんですが、これも自分で好んで行っていた人生の中の輪廻転生ゲームの1つだと言えるのかもしれない。働くことを通じて、多種多様の知らないことを知りたかった。友人は「履歴書が汚れるのは嫌だから」というのが転職をしたくない理由にあげていたが、勿論その価値感は現実的だし、社会的な価値観と合っていることは私も知っている(知っていた。)

ただ、昔から私自身は1つの世界に通じているスペシャリストにはなれない、ならないだろうと思っていたし、ゼネラリストという生き方で良いと思っていた。一芸に秀でるとか、一度やり始めたらとことんやれとか、辞めることは逃げる事とか、それなりに葛藤もしたんだけど、働くことは好きだけど、一芸に秀でたいほど興味が持てることが無かった。それなりでそこそこ辺りでスペシャリストになれない自分はやっぱり劣っているような気がした時もあったけれど、この考え方も刷り込みで、誰か知らないヒトの教えだなということになり、ゼネラリストという生き方で良いし、私には向いているという事になった。履歴書は汚れるかもしれないが、それよりも人生で色々体験するということを優先させた。

そもそも、人間と人生に興味があったところでそれが仕事になるとも思っていなかった。ましてや、今この様に考えを発表する日が来るとも思っていなかった。作家さんにならないとこの手の「発表」する場など無いと思ってきたし、バカみたいに興味があって色々考えていたけれど、それは世の中に発表したいからやってきたわけじゃない。やらずにいられなかったから続けてきただけだもの。

 

月日が経って、今のように相談業をしていると(将来今のような事をする想定していたわけじゃなかった。)自分の輪廻転生ゲームでの体験が感謝してもしきれないほど役に立っている。人間と人生に興味があって、それを俯瞰のみでわかったつもりになっているのと、実際に自分もそこへ飛び込んで体験してその世界を感じるのとは違うもんね。

そして、ゼネラリストを追求?したら、なんだかストレスケアのスペシャリストになってた。

ゼネラリスト時代が終わり、勝手にスペシャリスト時代が始まった。輪廻転生ゲームは勝手に次のゲーム盤へと進んだ。

 

自分の人生の中の大小の輪廻転生ということで、子どもに還ったりすることもあるのだろうか?(笑)

 

元に戻って話の続き

本当に不思議で、こんな時は「魂とはなんだろうか?」と頭によぎったりする。どんな仕組みでこういった不思議と似たケースが誕生するのか?法則があるのだとしたら、誰がこの法則を運用して、管理しているのだろうか?

 

不思議不思議と書きながらも、心のどこかでは、いとも簡単に戻ってくる方法はあるだろう。と思っている私がいるが、具体的な方法や答えはまだ浮かんでいない。

 

OFFをONにする方法はお陰様で沢山の知識と経験があるが、一線を超えたという状態をいとも簡単に解消する方法はまだ知らない。理屈では簡単なはずなんだけど、しかし不思議とそれを実際に適用できている方を拝見した記憶がない。

他人が本人の代わりに「戻してあげる」ことはできない。帰ってくるサポートは出来ると思う。

 

トンデモ発言的に例えるのなら、

輪廻転生ゲームの内容によっては、心体の細胞が入れ替わり、電流の質も変わり、素粒子?量子?が変化し脳細胞が変わり、五感の感覚が「平」になるようなある意味ショック状態を通り抜けないと超えた一線から帰ってこられないことがあるような気がする。それは多分、本当に輪廻転生的生まれ変わりを体験するようなある意味非常に強いストレス体験だと思う。(フワッとしたまま帰ってきた方を見たことが無いので)

がしかし、諦めずにそこを踏ん張れるとナニカ奥深くの大切なものが強くなる。(という個人的な意見です。)

 

近道、ウルトラDやEを発見をしたい欲。それが引き起こしたものは?

いとも簡単な戻り方がある日突然脳内に降ってくるのなら良いが、研究しだしたら一線を超えないか?なんてことも脳裏によぎる。

そうだ、そう言えば、こういったことが「出来る」とある日言いだした方が一線を超えてまだ帰ってきていないことをこれを書いている今、数年ぶりに思い出した。完全に忘れていたのに思い出すものだね。(◎_◎)

・・・そうか、数年前のあの時に既に超えていたんだね。ということは、その前から一線を超えていた。数年前より今の方が厄介は増しているようだ。

 

こういったことは水面下のようなところで緩やかに進行し、軽く10年位は月日が過ぎるものなんだな。そして帰ってくるのには同じ時間、もしくはその倍以上の年数がかかることが多いみたい。(自社データ調べ)

 

何かとショートカットしようとすると厄介がおきやすいジャンルのことって人生にはあるのかもしれない。

 

バランス調整が余計な厄介を引き起こすという事は、なにかしらこのような嗜好が影響しているような気もする。一周回らずに済むように、下手したら人生の飛び級をするためのショートカットを求めるその精神・心理こそ「理論をちょっといじって思考でチャチャッと何とかしたい、体験に重きを置かない。」という嗜好の現れなのかもしれない。理論をちょっといじくることが果たして「考える」ことなのか? 確かに考えているだろうが、智慧に変換される類のことなのか? 体験しなくても、答えだけさっさと知りたいというのは、そりゃそうだと思う。それが人間であり、そして時として厄介を生んだり、何かしらの質の低下につながることがある。例えば私が「純度」と感じるものもこれに含まれるのかもしれない。

 

それに、自分の人生を大切にしようと思ったら、「ちゃんと自分で考えてみよう」と思えないだろうか? いや、これこそ嗜好なのだろうけれど。

 

ショートカットや必要以上の効率性を好むと、求めるものから遠ざかるという不思議な誰かの決めたルールが知らないうちに適用されていたりする。段階を踏むという事が美しい平和な流れ(順行)なんだろうなと感じるのはこんな時だ。

煙幕マイセルフ

自分を煙に巻いてるとキリがない

 

どこかの本におそらく書いてあった一文が、スマホのメモに残っていた。

脳の回路は鍛えれば鍛えるほどシナプス結合がどんどん強くなる。すると、情報処理の能力があがる。

 

脳の回路が鍛えられるようなバランス調整を併用することがとっても良いだろうと思っています。

それには対話も大切。体験も大切。「教え」に従うことよりも、自分で一度考えるということも大切。

誰かの思考やエネルギーをコピーして、自分が変わったと思い込むことでは脳は鍛えられない。HSPや憑依体質の方、解離しやすい方、境界が弱めの方はこの辺りは注意した方が良い。脳が鍛えられるのと、「変わったつもり」「変わった感じ」になるのとは性質が異なるし、自分の土台に組み込まれているのかどうなのかが大切なのだから、その後が大切だもの。

また、「ただ従う」ことで脳が鍛えられるということはあるのだろうか?やはり鵜呑みではなく考えてみることが鍛えられることなるので、この2つは違う様な気がするが。

 

これと似た意味で、ただ単にOFFをONにしているだけでは、脳の回路は鍛えられないのだろうと思えている。(OFFをONにしたら自動的に考えられるというのはホント? というコラムは以前書いた。

すると、パターンの終了には繋がりにくい。その理由は「気づき」ということの質ではないだろうか?

これは先ほど樹海の例え話を書いた辺りにも書いています。

 

 

自分は行動する努力をせずに、バランス調整の追求だけで済むならOKで楽なんだよね。ヒトとコミュニケーションをとってシンドイ思いをするよりも、一人でバランス調整をしてるだけの方がラクだ。やり方を変えるよりも、バランス調整で済むならそれが良い。ショートカットしたいし、効率が良さそうな方が得な気がする。わざわざ自分が動くのは面倒だと感じるのだろう。労力も時間もお金もかけたくない方もいる。誰かの思考やエネルギーをコピーできるつもりになって、自分が変わったと思い込む方が楽だ。

宗教や教えを熱心に勉強される方も、人と関わらず、勉強をしていることが好きだという方もいらっしゃる。ヒトと関わって体験をするということは面倒で苦手だけれど、一人で自分だけのことを考えて追及することは楽。ヒト様を俯瞰しているつもりになっているのも優越感が満たされるだろう。人間について書かれているであろうそれらを、人と関わらず一人で行うことで分かりたいのもなんだかシュールだけど、それも1つの生き方だ。

自分は苦手や厄介を回避しながら俯瞰して分かったつもりになっているというその自分を俯瞰した景色に入れてみたことはあるだろうか?自分が居ないということはそう言う事も含まれているような気がする。メタ認知ということについては後述するが、自分不在のただの評論家で終るための勉強で終るのは勿体ないし、勉強しても消えないその虚無感は自分不在が故なのかもしれない。

 

誰の言っていることが正しいのかを追求するのも良いだろう。あの人は間違っている、この人は正しい。あの信仰は真理で、これは嘘だということを評論するのも良いでしょう。全てを実際に体験していなけれどネットで意見は読んでいるからと、ONやOFFとはこういうものだと限定したり、アレモコレモ間違っていると思うのも感じるのも自由です。評論する側にいると自分が一段上にいるような気になれて気分が良いでしょう。賢くなった気になりますよね。わかった気持ちになる。私が今日ご提案しているのは、その評論している(観察しているつもり)の風景の中にどうぞ自分も入れてみてくださいという事です。自分の体験や行動とその俯瞰した景色のなかの関係性を実感して欲しいです。

 

その風景の中、足を踏み入れたおそらくその先に、体験を伴った勉強と深い理解が待ち受けているような気がする。俯瞰する景色も広がる。見逃していた多くのものに焦点が当たるようにもなる。

私は昔、(このまま分かったつもりになって評論家のようになってしまうと人間として伸びない)と自覚した。自分と似たような斜に構えた人も多くて、会話していても楽しく無かったからだ。

だから行動を変えた。それはそれでまた次の課題の発見に繋がったりして、一層キツクなったように感じたことはあったけれど、今はこれでも昔よりはマシだから結果オーライだ。

俯瞰した景色の中に自分を入れてみてください。そして、その自分も入っている俯瞰した景色をもう一段階上から俯瞰してみてください。

自分が見えてきます。

 

脳を鍛えるってどういうこと?

脳だけをいくらバランス調整しても、身体の方は新しいスタイルに適合していない。全体を並行して進めていくようなやり方も一度試してみてはどうだろうか?

調整だけで「変わった」と感じる事はある。体感も変わる時もある。その後、もう少し長い目でその感じた変化が実際に、現実にどのように活かされているのか?影響しているのか?も検証してみてはどうだろう?

 

最初の「変わった!」というきっかけを感じただけで満足しているということは、ある意味のバランス調整への依存が満たされただけなのかもしれない。それを自分の人生に反映させていく、活かしていく、取り込んでいくのは自分でやることだろう。「変わった!」と感じたことに重きを置き過ぎて、その後検証したら元通りだったなんてことは人生に山ほどある。「変わったと感じた」という記憶の中に生きていて、今を見ていない。

知性と思考と行動力を動員して検証することも大切だと感じる。

 

もう一段階も二段階も土台を整えても良いのではないだろうか?

 

それが「脳を鍛えていく」ということでは無いだろうか?

脳のシナプスを活発につなげて、右脳と左脳の行き来を活発にして、電気?の発生量や流れを整いやすくして、素粒子?量子?の質(というのかどういうのか)を変えたりするんじゃないだろうか? 波動という言葉がお好みならそれでもいいだろうし、エネルギーの種類か質のようなイメージがしやすければそれでもいいが、脳を鍛えていくことと、心の筋力というのは似ているだろうし、精神力というようなことも似ていそうだ。

どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に

通じると良いの?

受け入れると通じるもんだ。抵抗していると通じない。

力が入っていると通じない。リラックスしていると通じそう。

依存していると通じない。手放すと通じそう。

 

なにに通じるのか? それは「大切な気づき」に繋がる回路とも言えると思う。

 

人生を生きながら探して見つけていき体得していく種類のものを、バランス調整だけでなんとかしようとしているのではないだろうか? バランス調整はバランス調整の役割があるだろうし、あなたはあなたの分担がある。

答えだけをササっと知りたい。それを聞いたり見たり読んだりすると「もう自分にはできる」と思う。そのようなやり方をされている皆さんの実際のところはどうかは私にはわからないが、以前もこのようなコラムを書いたので参考にしてみてください。バレリーナさんのご意見をシェアしています。

自分の人生を生きている感じがしない。虚無感、空虚であることの理由。

気合と精神力、素直さではカバーしきれない、あなたが気がつけない脳のクセ

 

気づき方も様々 阻害要因も様々

報われない。自分以外が得をした。私を特別扱いしない。私のチカラを認めない。私は特別になった。ヒトより抜きんでた。と被害者意識を持っても、特権意識に浸っても、コレは、「大切な気づき」に通じにくく、かえって何も見えなくなってしまう。

 

いろんな影響を誰でも受けやすいけれど、影響を受けやすいこと、影響を受けていることに気がつくことや、自分の中の反応点になっている利己主義、排他主義、依存にも気がついて、その様な現象を受け入れて、行動を変えていくと終わりが早い。

 

 

書くことが自己愛だという言葉をご紹介した。

 

私は、モノを書いているうちにシナプスが繋がって、自己研究の解答のようなものが現れる。書き始めに繋がっていなかったシナプスが、書いているうちにアッチもこっちも繋がり始めて「あ! そうか!」と形になってくる。人生を「走りながら考える」方法を薦める方がいるが、私の書くということは正にこれです。書きながら考えている。

作家さんの「降りてくる」という事とは違うが、書きながら答えが出てくる。

 

書く時は、通常の視点から変わるのかもしれない。

飲み込まれちゃうなら近寄らないこと。と言われたって

飲み込まれちゃうなら近寄らない。

と、書いたって、近寄るし飲み込まれる。

 

捨てるなと書いても捨てる。

見るなと言われたら見たい。

やるなと言われたらやりたくなる。

 

 

そのお気持ちわかります。

 

私も散々やりました。

そうやって多くのことを体験して理解してきました。

 

メタ認知

メタ認知とは、子どもでも持ってる子はいるし、大人でも持ってない人がいる視点。

 

自覚している「自分を観てる自分」も、何段階(階層というかなんというか)もあったりする。自分にあるから、皆もあると思っていたけど、違うみたい。

 

下のコラムにも書いている、私が昔から不思議だったこと

子供の頃から、大人が感情、思い込みに巻き取られて、引っ張っていかれるという状態のあまりの強さをみると「なぜ?」と思っていましたが、今は分かります。

おそらく脳の反射の構造が、個々で違うという事を理解しています。

性質と言えるでしょう。

自分自身と調和している場合と、不調和が起きている場合。ONとOFF。

 

脳の特性ということが、メタ認知の視点の有無に関係するのだということに気がついた。 上のイラストは、おそらく俯瞰している私という段階で、これが自分だけは別格、棚に上げた評論家で終ってしまうケースに繋がりやすい。

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

メタ認知にこれ以上の視点もある。階層というか、段階というか。

近視眼的な考え方の対称にメタ認知という言葉があることを知ったのは大人になってからだ。視点はあったが、言葉は無かった。

これは脳が鍛えられた結果とも言えるかもしれないし、生まれついてもっている視点で、成長と共に自覚できるようになった特徴なのかもしれない。正確なことはわからない。

評論家的な俯瞰ということとも似ていて、評論家的な俯瞰は先述した通りちょっと厄介やエゴも育つ。

 

そういう意味で、私は子どもの頃からいろいろと見えてしまっていたため(目の前のものを俯瞰してみることができる脳だったための意。霊的云々という意味ではない)、生きづらいし、苦しいし、楽になりたくなったようですので、私が見てきたものは天国の風景じゃなかったわけですね。評論家になったところで幸せが来るわけじゃない。自分だけを棚上げできないという事も苦しい時がある。

今ならその当時のその風景からだって「天国」というものをチョイスできるだろうけれど、ありのままをみるということは都合の良いものだけをチョイスしないということでもある。

 

ということに気がついた時に、俯瞰した視点が無い方が苦しまないという一面もあるのだろう。近視眼的に世界を見ていた方が「余計なことを考えなくて済む」ということで、それが利点だと感じる価値感だってあるんだということが益々理解できるような気持になった。

私の場合は、近視眼的に見た時の「余計な事」ということは、俯瞰的に見た時の大切な事が多いと考えている節があるので、そりゃあ私の「良かれ」も相手によっては意味合いが変わって「はぁ? ナニソレ?」ということになる。話が通じなくて当たり前。相手には相手の、私には私の異なる視点で見ているのだから。

AとBとC(そしてそれ以上のDEF・・・)の異なる視点で同じものを見ているわけがない。視界がそもそも違うんだから。

そうなると、自分の人生への興味の持ち方が全てなのかもしれない。

興味が持てないものは無理には持てない。

 

人生に興味があるのではなくて、カッコいいバランス調整(スキルや情報、知識も含め)に興味があるのかもね。ということはコラムにも既に書いているが、それが悪くもないし良くもない。ただそのようにあるだけ。

 

こちらも整理したスマホのメモに残っていた言葉で、

何かを成すことばかりが素晴らしいのではない、感じるだけで、素晴らしいのだ。

と残してあった。おそらく読んだ書籍の一文だろう。

 

私自身は脳を鍛えていこう!というような考え方や取り組みが好きだし、自分の人生を考えよう!という嗜好がある。

そのために、出来ることはしていきたい。と思っているが、そればかりに気を取られていると「ただ感じるだけで素晴らしい」という優しさを忘れる。

私がしばしば多用する表現に「酔っぱらう」「酔っぱらっているような」というものがあるが、それはこのメタ認知の有無とも関係があるが、それは次回のコラムに短く書くことにした。私自身が求めている端的に書きたいと企んでいる。(笑) そして、イイ感じに今はまだ端的な下書きが書き進められている。

今回はもう長文過ぎるので、これについては書かない。

 

そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?

そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?というタイトルについて総括すると

  1. まず、そういった事に興味があるかどうか?
  2. その興味の度合いは、ただ答えを知りたいのか? 自分のこととして取り組んでみたいのか?
  3. ただ答えを知りたいだけなら、今回の記事を読んでご自身で考えて頂ければ大丈夫だろう。このコラムに答えは書いていないが、どのみちご自分で考えて頂いて自分なりの答えを模索して頂きたいというのが私の考え方なのでどうぞ答えだけ、ショートカットを求めず考えてみてください。(^^) そのためには皆様自身がMYデータを集めて検証して頂くのが一番かと思います。
  4. 自分のこととしてONを本来のONへ変化させる取り組みをしたいということであれば、先ずはご自分の人生の指針を考えて頂きたい。そう、時間をかけてもTRYする価値があると私が感じている事です。(変更はできるので、一度決めたらそれが最後ではない。誰かの影響を受けてそれを自分の考えだと勘違いすることがあるが、今そう感じているのならそれでよい。自分の人生を考えていくうちに自分のものじゃなければその内変わる。)
  5. 自分でかけている煙幕や、誰かの影響の煙幕を一度取り除く。変わったつもりではなく、何がどのように行動面で変わったのか具体的に知覚する。変わったつもりだったのに変わっていなくたって全然OK。目的は現状確認なのだから。
  6. 自分の現状の全体像が見えてきたら、それを見たうえで改めてもう一度人生の指針を考えてみる。自分の理念、信念を考えてみる。
  7. 過剰な取り入れのないシンプルなバランス調整に加えて、それについて自分が出来ることも考える。または、やる。
  8. どうやら樹海Nowの可能性があるな。と思われたら、心体カウンセリング™ もご利用ください。書いてある事は分かったつもりだが具体的な行動についてよくわからない時もどうぞ心体カウンセリング™ をご利用ください。

 

最後にトンデモ発言的な事を書くと

人生の中の輪廻転生ゲームを何回転も体験することを怖がらない。逃げない、避けない。楽しむ。しかし、同じパターンのゲームを何度も繰りかえしていると気がついたらなるべく自分で終わらせる意識を持ち、行動の変化を起こす。

バランス調整をする案件、内容にも寄りますが、生き方や人生、認知というものを変更、変容、修正していこうとする時には、ただ、OFFをONにするだけよりも、ほんのちょっと前のめりな姿勢で向き合うと良さそうだと感じています。前のめりというのは、自分の頭脳で考える姿勢という意味です。作業ではなく、本当の関心を持つという事です。この手の答え(があるのか無いのかもわかりませんんが)って、教えてもらって一瞬分かったつもりになってもあんまり意味が無い様な気がしています。他人のMYデータよりも、自分のMYデータから腑に落ちたり、気づきが土台に循環、吸収されたり、実際に行動変容にまで現れたりする時間もどうぞ大切に。

 

ご自分の人生ですよね? 答えはヒトの数ほどあるのかもしれません。「あなたの答え」を生きながら考えていってください。

 

これまで何度もご紹介していますが、私が自分によく言い聞かせてきた言葉に「大きく育つものはゆっくり育つ」という小説の中にあった言葉があります。私はこれまで、この言葉を「善きこと」や「大切なモノ」が育つまでの時間だと頑なに思い込んでいましたが、ヤバめの一線を超えるまでも水面下でゆっくり育っていることもあるな!と今初めて気がついた。やはり陰陽は一体ですな。

どうぞ大切な気づきを、上っ面で終ってしまうのではなくて、人生の土台まで循環させて定着させてください。私も心がけていきます。

 

私はここを研究するのはやめておきます

新しい人生ゲーム盤へは、そのパターンが終わったら勝手に移るが、自分でそれらを端折って飛び級するような方法、テクニックは今の私にはわからない。というか、それを研究しはじめた時点で「一線」の境界にググッと近づいて、あっという間に超えちゃうのではないか? 古くから多くの方が吸い込まれていったように。ずっと同じゲーム盤から進まないこと(in 樹海 または磁場が狂う場所?)がありそうなので注意が必要だと予測している。魔境一直線のような予感だ。

 

おそらく、こう言った研究は、相当な純粋さと、相当な智慧のある方がされた方が安全だろう。

相当じゃないと、自分の欲やエゴにくるくると巻かれて危険な勘違いが起こり、その延長線上で他人も巻き込んで「業」を量産しちゃいそう。

 

だから、危険性を知らないなら、手を出さない事も智慧の一つだと思う。己を知ることでもある。

私にはその様な純粋さも持ち合わせて居ないし、揺るぎない智慧もない。

 

生きている間に全てのゲーム盤を終了することがあるのかどうかは知らないし、今の私はそこには興味が無い。

 

(2020/07/31)

 

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