ストレス反応をカラダの反応で確認する。その使い方と生き方の好みについて。
Contents
人生の捉え方。選択の仕方。過ごし方について。
これまでの流れ
ブログにこの記事を書きました。
「カラダの声を聴く」といわれて、体の筋肉の状態でストレス反応を確認するということについて、上でシェアしたブログのその前後になるような事を書いていこうと思います。カラダの声を聴くという行為の内容について、諸説意味づけをされていますが、その正誤を問うのではなくて、「そのスキルを使っているのは人間だね」なんてことが書けると嬉しい。
そして、念のため今日も断り書きをします。
真偽、正誤、良し悪しの話を書いているわけではありません。
これから書くことは、あなたの生活や人生に小さくお役に立つこともあるかもしれないが、全くもって不用ということだってある。
OFF探し
ストレス反応を筋肉の反応を確めることで判断するというようなスキルを心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアで利用します。必ずこういったテストをするわけではありません。他の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアの手法もあるし、対話だけのカウンセリングをご希望になる方もいらっしゃいます。(対話だけのカウンセリングを希望されている方も、随分と感性や価値観が変わっていかれて、結果人生にも反映されていらっしゃるようで何よりです)
これらを扱う側、教える側の立ち位置のようなものも様々あり、そのヒトの数の分だけの主観や方針があります。
筋肉のストレス反応、マッスルテストについて、OFF探しという立ち位置、教え方もあります。
それは原因探しというような意味も含まれているケースも多いようです。
これらについては、今までも何度かコラムやブログに書いています。
私の場合は、特に教えてもらった訳ではないのですが、筋肉のストレス反応、マッスルテストについてはストレスケアだと思っています。原因(探し)はもちろん大切な時がありますが、ストレスケアをして今より先をどのような人生展開にしていきたいか?ということに焦点を当てていきたいという個人的な嗜好によるものです。嗜好と言うか、相談業を行う者としての方針とでもいいましょうか。
今になってみれば、こういった事を考える余地があったことは良かったと思っています。
逆に言えば、(あくまでも私の場合は、ですが)「(キネシオロジーテストを利用して行う事とは)OFF探しである」と本間先生から教えられなかったことが大変ラッキーだった。
だからと言って、先生からは「ストレスケア」とも教えられてはいないのですが、(あくまでも私の場合は、ですが)自分で考えられるように「余白、余地」のある教え方をされたのは大変ラッキーでした。
ひょっとしたら、本間先生から「OFF探し」と教えられていても、(それってそうかな?)といつの日かそれを疑問に思う時が来て、今あるようなストレスケアへと方針変更が起きたかも知れないが、多分それに気がつく(という感覚がするのですが)には今日現在に至るよりももっと長い時間・月日が必要だったんじゃないだろうか。
ですから、ストレスの反応を筋肉の状態で確認するという手法やスキルを学ぶ際に、
- 自分で考えるよりも、ルールに従う方式を好む方や
- 絶対的に従うルール、手順をより細かくルール化して欲しい(複雑でより細かく原因を筋肉の反応で特定できるチャートなどのルールブックが欲しい)と思う方
- 原因探しのアイテム、調整に必要なアイテムが多ければ多いほど安心する(私が習った当時はバランス調整法はシンプルで、アイテムも少なかった)
- 対話や考えることは苦手なので、機械的にOFFをONにしていく方が好きだ
という方は私が教えて頂いた当時の本間先生の方針に心許ない感じがした方が居らしたかもしれない。(昔の話を書いています)
本間先生を含め、色んな団体の方やキネシオロジーを学んでいる方、教えている方にご迷惑がかかるといけないので、もう一度書きますが、真偽、正誤、良し悪しの話を書いているわけではありませんし、他の方から見たら私の書いていることは(それは違うよ)と思われるかもね。ということも当然あるだろうと考えています。
今日現在の私の方針ということでしかありませんが、マッスルテスト・筋肉の反応を見るというスキルをつかってもいなくても、これらは相談業を始めて以来変わらぬ姿勢です。
ですから、シェアしたブログに書いたように、個人的な人生観として、(人生で)窮しないことを最優先にするのではなくて、
- 人生いろいろ体験をしてみる、
- 窮すること(失敗するかも知れない、恥ずかしいと思うかもしれない、黒歴史と思ったり、他人がどう思うだろうか?と心配になるetc)もあるけれど、体験する事を怖がらない
- 窮したことを(失敗だと思った、恥ずかしいと思った、黒歴史と思った)、その後に活かしていく
という、「窮すれば通ず」の「通ず」を一層大切にしていきたい。そうできたら良いなぁと思っています。
決して修行というイメージではなく、自分を鍛えていく・成熟していくというイメージになるでしょうか。
興味があってもOFFなら行動しない、選ばない。
今日、ここまで書いたことと、シェアしたリンク先に書いてきたことを踏まえると
興味があることも、筋肉テスト・マッスルテストがOFFなら選択しないというようなことがベストでは無くなります。
というのも、自分のためになっても、確実に興味があっても、今までの
- 苦手
- 怖い(変化に対する恐怖が強い)
- 不安
- 嫌われたらどうしよう
- 良い子で居なくちゃ
- 損したくない(得したい)
- 現状維持したい
などのモロモロが影響して、マッスルテスト・筋肉のストレス反応はOFFとなっている時だってあると思う。
奇しくも、上でシェアしたコラムの中にも「通じる」と書いていましたが、
興味がある
という自分の気持ちよりも、潜在意識(なのか、その時の感情なのか、好き嫌いなのか)がOFFなら自分の興味を満たさない。それをするのは「窮する」ことになるからと感じるのかもしれない。
潜在意識に従じた事をしないと運が悪くなると考えるということもあるのだろうか?
それ(運との連動)は本当だろうか?(答えは知りません)
(もちろん全てとは言わないが)それって、別に潜在意識に訊ねなくても結果一緒じゃない?なんて思う時もある。
誰か他人に「やめておいた方が良いよ」と言われた時と何が違うの?って。
占いなどの結果でも良いし、誰かのアドバイス(と称されるただの相手の好き嫌いの反応だったりする時もある)でも良いし、
気持ちを無視し(または満たさず)、「あーあ、潜在意識がOFFならしょうがないか。」と心底思えたりするものだろうか?
(OFFだったけど・・・)(止められたけど)と頭の片隅か、心の片隅で気になっていたりしないのだろうか?
潜在意識の正解は知らないが(この世の中にそれを知っている人は本当にいるのだろうか? これまでも居たのだろうか?)、私はヒトの気持ちに注目してしまうのである。
ONやOFFを優先する価値観とそうじゃない価値観
私は、何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣が無い。気持ちや興味があることはTRYしてみるし、自分の内面の反応を感じてみたり、ONやOFFを気にする前にもう取り掛かる(石橋を叩く前に渡り終える感じになるのだろうか?)ことが多い。
自分の興味も好みも大切にしている。
何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣が無いとは言え、確認することも0(ゼロ)じゃない。
0(ゼロ)ではないが、OFFでもやってみることだって普通にある。OFFならONに調整して Do it だ。
何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣を、やろうと思えばできるけれど、あえてそれをしない習慣を取り入れているのは、それだと「自我」「自己認知能力」「自己感受能力」みたいなものが鍛えられないかもしれないぞ。と考えていたからですが、何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣を取り入れていても「自我」「自己認知能力」「自己感受能力」の発達に影響のない方も居ると思う。それに「自我」「自己認知能力」「自己感受能力」に興味のない方や影響を受けない方は、何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣についてそもそも疑問も持たないのかもしれない。
というか、潜在意識に従っている(沿っている)のが正しいという価値観だってあるんだし。
私は潜在意識的な働き・反応を、ストレスケアには使えるだろうと思っていますが、「正しいかどうか」は別の議題だろうと考えているということに今気がつきました。
ひょっとしたら、2極思考、良いか悪いか、という価値観をお好みですと、潜在意識の反応のON=正しい という方が脳の収まりが良いのかもしれません。一方「ON」はただのストレス反応だという捉え方もできる(と思う)。
ONと「運」をがっちりと関連付けている捉え方もありそうです。
こんなことも人生観に影響するでしょうし、反映されるのでしょうね。
人生観は様々です。
気にならない時はこんな時?
ここまで書いてきたことを、手を変え品を変えあちこちに書いてきたわけですが、究極のことを書けば本人がそれで幸せならそれでOKなんだと思います。
今の私のように、何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣が無くても、幸せなら「このやり方で良かった」と思うし、
何かをやる前に必ずONやOFFを確めるような習慣があったとしても、幸せなら「このやり方で良かった」と思うし。
幸せとかシンドイとか無関係に「このやり方で良かった」という信念もあるでしょう。
ビジネスシーンでは「結果が全て」と言われます。私もいろんな職種を経験してきて、とてもシビアに「結果が全て」に口ごたえできないことだってありました。頭の中に(それも確かにそうだけど、プロセスが大切な時、いや、プロセスこそ大切な場面もあるんじゃないか)ともよぎることもありましたが、しかし、旅行も安全に帰宅したという結果があって初めて「楽しかった」と後々まで思えるんだと思うと「結果が全て」ということも言えるんですよね。私はレジャー業界でも働いたことがあるので、安全第一が基本。どんなに途中楽しかったとしても命があってこその「楽しかった」だという現場も体験したので、事故が無く帰宅するという結果が全てということも身に沁みています。
こういった事も含めて考えると、何事も成人以降は自分の人生観によって手法も選択するものも変わってくると思うし、変えられるとも思います。
結果が全てと考えようと、
プロセスが大切だと考えようと、
両方のバランスを大切にしたいと考えようと、
結果もプロセスも興味が無かろうと、
自分の考えなどではなく、潜在意識の反応だと感じることを人生の羅針盤としようと、
その好みが自分自身の人生観であろう。
自分の人生観を「これでいいのだ」とバカボンのパパみたく思っている時は、それで良いんだと思う。
無理や強がりで「これでいいのだ」と思っていたとしても、それはそれで経験だし、その先に「やっぱりこれでよかったのだ」と思うこともあるだろうし、「これではよくなかったのだ」と思う事もあるかもしれないが、それはその時にまたどうするのか考えても良いし、潜在意識を羅針盤にしてみても良いんだろう。
それはそれで、またその先に目の前に現れる現実があるだろうから。
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