スッキリ化を進めました

サイト「こすも」を閉じました

変化に伴う行動変容となりました

ホームページの投稿も減っておりますが、個人セッションは変わらず行っております。

個人セッションを変わらず行っておりますが、セッションのご予約を承る日時には変化がありました。この件については昨年お知らせ済みです。

ホームページの内容が変わりました

そして外部blogで閉鎖することをお知らせしておりましたが、人体の不思議、脳の不思議、私個人が不思議と感じたことなどをご紹介していたサイト「こすも」も無事非表示となりました。

 

サイト「こすも」は(へぇ こんな感じがすることってあるんだね)という私個人の感覚を記録しておりましたが、それは私がそういったことの体験数がなかったからこそ不思議さが際立ったのであり、ありがたいことにそれらがデフォルトになってくると今度はそれら不思議さが際立たなくなりました。儀礼通過のようなもので、それらに執着しなければ次の段階、感覚に進むというか、変化していくんだろうということにしています。

あくまでもわたし個人が想像したことですが。

なので、過去との紐(リンク)を消しました。切りました。消えました。切れました。

この2つは、脳内映像が正しかったと言えるかな?

サイト「こすも」を閉鎖した後に、(まぁ いろいろあったけど、「気のせいの可能性がゼロじゃない」の域を出たと言える事例が2件浮かびました。

証拠があるというか、なんというかそういう意味で。

過去が観えた

1つは、その個人の情報が無い時に、目の前にいるその方がとあるスポーツのユニフォームを着ているように見えた。その時の服装は私服だし、そんな過去のスポーツを話題に個人的な話はしていなったから、目の前を歩いているその方の後ろ姿がなんとユニフォーム姿に観えてしょうがないから、おもわず

「〇〇さん、▢▢(スポーツの名称)してました?」

と尋ねた時のその方の振り返った時の驚愕の表情を覚えています。それを見て(当たったんだな)って思ったし。

ご本人も「YES」って言ったし。

 

これは整合性がとれた希少な例。

答え合わせが無いケース

名古屋で生活していたころに、質問されたことについて感じたことを伝えたら「見てないのになんでわかるの?」と驚かれたこともあった。あの時は私にその質問をした方が感じていたことと、私が発言したことが同じだったようだけど、これは真実の確認とはちがいますでしょ? さきほどの「そのスポーツをやっていた」というはっきりした答えがないから。

あくまでも、感じかたが似ていたと言うだけで。

未来?現在?過去?のMIXバーション

他には、とある方がその先Aという仕事に就くことをもちろん私は知らなくて、思わず脳内に浮かんだ(観えたというのか、なんでしょうかね? 脳内イメージですが)いくつかのことを話したときに向かいに座っていらっしゃったその方のこれまた驚いた顔が印象的でした。

どんな脳内イメージだったのか?というと、それはその方が実際にAという仕事関連で訪れた場所。川があるとか、古い家とかそういう抽象的な話ではなくて、「△△」というぴったりとその場所だったので私もそのあと驚きました。(例、那覇市役所の3階 とかっていう範囲の狭め方)

面白いのは、この方がAという仕事に関わる話が持ち上がる前に「○○が脳内に浮かびました」と伝えた(その当時は伝えていたんですね。今は特に脳内映像が無いので伝えておりません)時には、ご本人もまだ周辺に変化が起きていないので「????」なにそれ? という感じでしたが、半年?1年近く?会わない間に思いっきりその仕事の道に進んでおりました。それもオファーがきて。ご本人が私に言われたことに影響されて転職活動の選択肢に加えたんじゃなくて、相手からオファーがきたそうです。

誰でもオファーが来る仕事じゃなかったからビックリでしたというか、そういう仕事って先祖代々家業にしてなくてもなれるんだ! と私はそっちに驚きましたけどね。

私の中の雑学には、一般人がその職業に就けるという情報がなかったんで。

 

と、この2件くらいは、あれはあってたな~と言ってもいいかな?

 

脳内映像に浮かんだものを即座に真実・合ってると信じ込むようなことが私の場合は難しいので(勘違いも思い込みってこともあるし)、今日書いた2件のような事例があると、答え合わせができた事例として区別しています。

他も、あっていても外れていても、脳内イメージが伴う時もあるんですが、ちゃんと答え合わせがされないものは脳内の「正解は不明」フォルダに入っています。

能動的になれば答え合わせができるものもあるのかもしれないけれど、そこにはあまり情熱が湧きませんので、先述した2例のように、自然に答え合わせができる現場に居合わせることができただけで十分です。

 

そして、こういったことも徐々に変化してきて、今はご本人に感じることは感じていただいて、私は特に以前のょうな脳内イメージが湧いておりません。このような変化については喜んでもいないし悲しんでもおらず、その時その時の今を生きてるという感じです。

そこの優劣は大切か?

世の中はいろんな価値観があるということにいつも結論づいてきてしまいますが、何かが観えたり、何かを感じたりすることが優性ということではないと私は思っていますし、

観えるもののジャンルによって優劣があるとかないとかもエゴの格闘のような気もするけれども、やはり価値観はさまざまなので、この優劣こそ重要だという方もいらっしゃるんだろうと思うんです。

上下関係や優劣を決めないと、その辺りがはっきりしないと落ち着かない方もいますよね。

 

以前も書いたように、今、他人が言ったことを聞くやいなやそれと全く同じこと「ヒラメイタ」とおっしゃった方がいた現場にいたことがあるんですが、私は(それはいま今、Xさんが言った話でしょ? ヒラメイタんじゃなくて、聞いたのよね? 耳にしたのよね?)と ハ??? と思いましたが、同席していた他の4名?3名?の方はすっかり飲み込まれていた(ように見えた)。

 

そう、その場にいた5~6人の認知の様は多種多様なんですよ。

私の認知が正しいとしたら、今聞いた話をヒラメイタと脳内変換する癖がその方にはあるんだろう推測できる。ということは、自己認知の能力が弱いというか、自己感知の能力が弱いのかもしれない。心理学や脳科学で「認知力」と呼ばれる分野でしょう。

勘違いということは誰にでもあるけれど、これは勘違いの域だろうか?

 

ということを1つの事例とするならば、自己感知、自己認知の苦手な方が言う「自分を持て」とはなんぞや? それは一体どういうイメージで発言されているのか?と思うけれど、それは多分その方自身が誰かの言った「自分を持て」という言葉を聞いて、言葉の影響を受けてわかったつもりになっているだけで、体感的、脳的には深みが無いのかもしれない。

 

私もたくさん本を読んで、何度も読んで、作者の言葉が自分の考えになったことなど山ほどある。いや、山ほどあるを超えて、これらで私が構成されている。本じゃなくても、誰かの発言に(おお~~)と感銘を受けて以降自分の判断基準として採用したことも枚挙にいとまがない。

ですから、誰かの影響を受けて悩みを深めている方や、誰かの支配が苦しい方や、誰かの言葉に傷ついて悲しんでいる方は、そもそも悩まなくても良いケースがあるということは知っておいても良いと思う。

 

なぜなら、あなたに影響を及ぼしている方は、あなたよりも自己認知や自己感知が苦手で、良さそうな言葉の表層だけを、今この瞬間だけ心も込めずにパッチワーク・継ぎはぎしているに過ぎないかもしれないから。

脳の表層にある言葉たちを、軽い力(降りてくるというような感覚)で紡いでいくことって得意な方は得意。また別に、脳や身体の深層にある言葉を軽い力(降りてくるというような感覚)で紡ぐことも得意な方は得意。

でもやっぱりこの2つは違うんですよね。正しくは、私はこの2つが違うと感じる。じゃあどこで違いを判断しているのか?と言えば・・・肌感覚と書きたくなる感覚の気がする。

 

が、ご本人は深みがある、これは真理だと感じているという想像もできる。何か観えていると信じていたら脳内にはそれが観えるだろうし、自分のエゴの声を「お告げ」と変換することだってあるだろう。

これはご本人の脳の仕組みの話なので、こんな可能性もあるかも?という他者からの推測にすぎませんが。

 

だから、ご本人にも取り立てて信念らしきものはないこともある。というか、劣等感みたいなものの裏返しの時もある。

もうマウントを取りたくて取りたくてしょうがない方も居るし、それが人生のプライオリティで高い方もいる。本当にいろんな方がいるからこそ、「しゃあ自分はどうしたい?」ということを考えておくのも大切だなぁと思うわけです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

何が言いたいかと言うと

2024年になったからといって急に文才が発達することもなく、まとまりのないことを書いてきましたが、何が言いたいかと言うと

まともなことを言っているように聞こえても、中にはただの薄っぺらいハッタリもあるので、まともに真面目に全部吸収しようとしなくても良い時ありますよ!と言いたい。

 

あなたはこうだとか、あーだとか、自称観える方も、他称観える方も、お告げ系もいろいろおっしゃいますし、私も過去、セッション中に脳内に映し出されたイメージを(セッションは共同作業だからこのイメージも共有しよう)とお伝えしましたが、それらはその一瞬を切り取った事象に過ぎないという認識は今も変わらないし、なんなら今の方が確信に近い。

その一瞬をその先どう活用するのか?とか

今を踏まえてその先を選択するということも考えますが、

活用するとか、その先の選択も個々の自由ですもんね。何かあるごとに「活用しなくちゃいけない」というのもバランスが悪い気もすることがある。

意味づけして生きやすいなら意味づけしたら良いんだろうし、意味づけして複雑さを増してシンドイならただの事象だと淡々と受け止める方針に変えることもできる。

 

 

他者の感性に影響を受け合って社会が成り立っていると思いますが、他者、環境とバランスを取ることを優先しすぎて自分を失って苦しくなる時があります。うまく生きていこうと思って自分の心体がうまくいかなくなる時があります。

 

自分を大切にするって贅沢なことじゃなくて、うまく生きていこうとする損得勘定よりも、自分を大切にする方が後々良い意味で「効いてくる」ような気がしています。

ただ、自分を大切にするという意味合いを、他者から意図して搾取していくことをOKとするのはちょっと違うと思うけれども。

 

〆の言葉は関連性がありませんが、サイト「こすも」を閉じたことで、良くも悪くも、意味などなくても、妙な啓蒙になる可能性が消失してスッキリしました。もっと早く着手していれば非表示じゃなくてサイト削除ができたのに。と思うところもありますけどね。

 

今後もなにかあったら個人で消化していけばいいし、クライアントさんが自分の体験として発信されるのは元々自由だし。

 

今回の選択は、自分の言動の一致に小さく一役買ったような気がします。こんなことがスッキリ化が進んだと感じる部分でしょうね。