変わったのだろうか? 

あけましておめでとうございます

 

2回目です。あけましておめでとうございます。

2021年になり数日経ちました。

いかがお過ごしでしょうか?

 

私は大晦日に食べ過ぎて体調を崩し、元旦にプチ絶食をして寝て過ごし、2日からすこぶる元気になり、そのまま継続して元気です。

 

そのあと、時々起こる「なんにも無くなっちゃうtime」が訪れておりました。

こうなると、主義主張もこだわりもなくなってしまうので、ブログを書くとか、コラムを書くということがなかなか難しくなります。

しかし今回は、年末年始に私が(なるほど!)と思った事について書こうと思います。

減らず口はお終いか?

減らず口なのか? なかなか良い気づきなのか? 自分ではよくわからないけれど、「なぜ?」と思った事をコラムやブログに書いてきたわけですが、

年始に家族と世間話(というにはマニアックな話題でしたが)をして、割と長い間「は? なにそれ?」と私がついつい反応してきた人間特有の行動心理に「なるほど!」という新しい空気が入ってきたものですから、

長年の「は? なにそれ?」がいとも簡単に消失してしまいました。

 

呆気なく。

 

私自身の不勉強が理由の一つでもあった「は? なにそれ?」を、ウチの家族が非常にわかりやすく解説してくれまして、「なるほど!」と私の脳内の収まるところに収まりました。私個人が感じていた「WHY?」の1つの答えのような、考え方のようなモノが理解しやすかった。

 

そしたら、そのあと、「なんにも無くなっちゃうtime」が来たという流れでした。

 

ですから、コラムを読んで下さっている貴方のお役に立てるかどうかは全く自信がありませんが、私自身の なるほど! を書いておくことにしました。

 

半眼

私は座禅を組んだり、そういった特定のスタイルをとって瞑想をするという事はありません。瞑想が「自分を感じる」という事なのでしたら、それはいつでもやっていますし、「瞑想とは呼吸に意識を向けること」だとしたら、無意識的にやっているかもしれないです。

ただ、一般的?な瞑想としてイメージされがちなアレコレはしないという意味です。

 

ですから、半眼という言葉は知っていますが、近視ゆえに遠くを見ようとして目を細めたり、感情を表す際に(ふざけて)目を細くすることはありますが、もう全く半眼とは意味が違います。そして、それをするという習慣もないし、試しに行うという事も無い。なぜならそれをする理由がないから。

 

 

が、しかし、年始に半眼について話している家族の解説を聞いたらば、特大の(なるほど!)が出た。

 

今から書くことは真実でも、正解でもなく、あくまでも私の(なるほど!)という感覚だということをしつこく書いておきますが、

瞑想する際に目をつむってしまうとフワフワしたり、酔っぱらったり、魔境と言うものに入ったり、妖やトラップにそっくりそのまま持ってかれるリスクが高くなるために、ちゃんと目を開いて、ある程度現実、目の前、自分の周りに意識を残して?おく、視界に入れておくという半眼が大切なんだ。ということです。

 

説明として非常に粗々しいのは承知の上ですが、自分を残しておくという事が非常に大切なんだという個人的な感覚的なものが、ルドルフ・シュタイナー氏やモリー先生について書籍を通してとある方面から「そうだよ」という理論があるということを知り、そして、「半眼の意味」というとある説明で一層感覚的なものが支えられた。

 

まぁ勝手なことを書かせていただくと、自我意識や生命感覚を伴った人間道を生きていることが大前提で、その上で求めずとも現れる(現れたなら)不思議を受容したら良いんじゃないか? というような今の自分の感覚で当面は良いだろうということを感じました。

 

おそらく半眼の意味は、魔境に入ったり、トラップに引っかからないための意志のチカラというか、智慧のようなことなんじゃないかな。って。

ということは、修行や瞑想などを全くしなくても、「見たい物だけ見て、聞きたいものだけを見る」ということが既に半眼では無いのだろう。メタファー的にも行動的にも。

ですから、真理のようなものが「わかった」とか、自分は「抜けた」と感じた時点で、もう半眼じゃないんだろう。

 

何にもなくなってしまったように感じるtimeが訪れても、私には生活を放り出すつもりは有りませんが、放り出してホームレスになる気持ちもお察しする。まぁ確かにそれは魔境というイメージだろう。

また、デモーニッシュなことに疑問や違和感を抱かなくなるのも魔境だろう。疑問を抱かないということもあるだろうし、それを広める事を真理や正義と没頭するのもケースバイケースで非常に危ない様な気もするが、それは受け手の方がしっかり判断できるし、判断したら良いのだから、もしあなたが受け手側ならば、あなたも半眼スタイルを念頭に置いておいても良いだろう。

 

メタ認知のC、D、E、F、G・・・  と自我意識は両方意識していると良いよね。

 

メタ認知のD、E、F、G・・・と広く広く、高く高く見ているつもりが、高みばかりに気を取られ、半眼スタイルを忘れ、すっかり地面から離れて、宙に浮いてしまう。

ついつい自分を忘れちゃう。ついつい飲み込まれちゃう。それはメタ認知と関係が?

 

高く上ることではなくて、「何かしらの中心」にいることをおススメしたい。

 

その中心以外はALL魔境か?

・・・それは私にはわからない。

勝手なことを書くのなら

散々勝手な事を書いておいて、「勝手なことを書くのなら」という前置きもおかしなものだが、

昨年「健康的に感じないものはやめた」と書いた私の物事の捉え方は、一つの半眼スタイルと言えるのかも知れないな~と思えたんですよね。

 

私は不思議も、目に見えない力も、目に見えない世界も人より信じているのかもしれない。畏怖の念のというようなものは昔からあります。否定もしないが、傾倒もせず「まぁあってもおかしくないよね」「そういう事、有る時あるね」という立ち位置です。

 

必要な恐怖はあると思っていますし、必要のない恐怖もあると思っている。

 

適正に畏怖の念を抱いている方がヒトの道を大きく踏み外さないだろうというようなリスク管理意識とも言えるし、My灯台の構成物質とも思っています。

enriquelopezgarreによるPixabayからの画像

魔境に「良かったね」という感想

ウチの家族は私から、「魔境に入った」とおっしゃったらしいというとある方について聞いた時に「魔境と言う今までに無い体験をして良かったね」と感想を述べた。

見えていなかった世界が見えたから。というのが理由だ。

それを見て、初めて感じる事や思う事があるだろう。と。

 

 

私がそのセリフを聞いて言ったのは

「それは帰ってきたから言えることだよね」だった。

 

しかし、アッチへ行ったっきりでも人生は人生。

そもそも魔境と言うものが有るのか?無いのか?も個々の世界観による。そもそも私はどこに居るのか? 魔境じゃないつもりでいるが実際は大きく違うという事は誰にでもあり得る。

 

というような、相変わらずな話題について会話を交わしたのですが、相変わらずじゃなかったのは、これらの件について私の脳の反応が収まってしまったことです。

書き残しておこうと思って今この様に回顧文のようなものを書いていますが、もう気にならなくなってしまった。

 

その大きな理由は、人間の欲望について、私にはピンとこなかった行動様式について、(なるほど!)とスッキリしたからです。

そう、自分にそれが無くても(自覚できなくても)、想像力を利用して理解できるように思考を重ねることも、経験値・My統計・自社データから推測することも、実際に対話や会話によって理解しようとすることもある程度慣れているつもりだったけれど、

そこには興味がないんだよな~という「欲求事例」についてはやはりそれを解説するのが上手なヒトの話を聞くと良いという事も再確認した。

 

すると、今回(なるほど!)と思った事も、次からは自社データとして私の血と肉になる。忘れなければ、ですが。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

「人生双六」の捉え方次第で物事は変わる

 

真理のようなものが「わかった」とか、自分は「抜けた」と感じた時点で、もう半眼じゃないんだろう。

ということで、魔境に入ったところで

その1回が人生の全てだと思えば「失敗」だろう。人生双六が短いコースだと思えばそうなる。

が、しかし、本来の人間道の人生双六は「上がり」も「抜けた」もないんだろう。早くに財産を創り、実生活でセミリタイアやリタイアすることが必ずしも人生双六の上りとも限らない。

(が、ご本人が「上がった」「抜けた」とすべてをSTOPしたらそれはある意味での上がりであり、終わりだと言えばそうなのかもしれない。)

 

1つの表現でしかないが、魔境から帰ってきても、帰ってこなくても人生双六はまだまだ続く。だから、失敗でもなんでもなくて、「一回休み」とか「2コマ戻る」とかでしかないし、ご本人がかなり遡って、人生の舵取りのコース取りを変えたい(change)なら「ふりだしに戻る」が結局その後(例 人生の後半に)人生双六の進みが早い時だってあるだろう。

 

いやいや、「休み」も「コマ戻り」すらも無いかもな。と今気がついた。何が有ろうと命の灯が消えるまでは人生双六は進み続けるし、捉え方によっては、もう何度も何度も人生双六を繰り返しているし、ひょっとしたら一度も途切れずずっと続いているのかもしれない。(輪廻転生ごと1つの双六と捉える事だってできるものね)

 

人生で、何が「宝物」になるのかは、後々になってから気がつく事も多い。

私はよく、一から始める。やり直す。という体験をしたので、ふりだしに戻ることが悪いこととも、無駄とも思わない。それなりに面倒や苦労もあるだろうけれど、心体の一面は鍛えられたような気がする。そもそもそれが目的だったし。

 

人生に完璧を求める事がそもそもナンセンスだと思えば、人生双六のサイコロがうっかり机の下に転がって見失しなおうが、一回休もうが、ふりだしに戻ろうが、楽しめた方が自分がラク。

 

苦しいとか面倒だとか生きていれば感じますが、ストレスケアを人生の手持ちの駒の1つにしていたら、いろんな体験への恐怖心も減る。

そしたら、一気に(双六で)上がろうとして「欲」が炸裂することも、他人様の人生双六をコントロールしたくなったりすることも減りそうだ。

お屠蘇を飲んで酔っ払ってゲームに参加していた自分にも気がつく。

 

「欲」が炸裂することは何一つ悪いことじゃない。生きていればそんなことだってデフォルト仕様だと思っていますが、大切なのは「あれ!? 間違えてた!」と思った時に修正する勇気だろう。

確かに、間違えたり、失敗するのは恥ずかしく感じることがありますよね。格好悪いと感じたり、間違えを認めると自分のプライドが傷つくと感じる。しかし、先述の会話なら「知らなかったこと」を恥じる必要はなくて、「知ったことに感謝できる」。勇気があれば学びに変えられる。逆に、勇気が出るまでは「ストレス」の域を出ないような気がする。

そんなストレスが、パターンを繰り返して、脳内のスリップをおこさせることもあるだろう。

次元のバグの現れ方? あなたの時間間隔と空間感覚は、あなたの知らないところで機能している。

 

 

学びもストレスも紙一重。簡単な事だけど私たちの感情や不安、恐怖が学ぶことを拒むことがあるということを私は体験から学んだことがあった。

 

2021年はもう少し楽になりたいと思う方は、是非ストレスケアを生活に取り入れてください。

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2021年、皆様のご多幸をお祈り申し上げます(^^)

(2021/01/09)

 

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