仏教の変遷(変化)と私の内的変遷の共通項

これまでは

「気」についてまとめる前に

最初は上の記事でした。

この中のA~E>> までを深堀していっています。

 

A>> は既に前回書きました。

「気」についての体験と経験値の拡大と収縮 

 

今日はまたまた仏教が登場

今日はこの中の

B>> 私はそれを「悟り」とも「覚醒」とも呼んでいませんが、僧侶の方の仏教の説明のなかに「それって私の脳内の変遷ですよね」というような解説があって非常に分かりやすく、勝手に全体像がようやくしっくりきたり

から書いていきます。

 

この連続シリーズになっているコラムの参考書籍は対談です。

小説ばかりを読んでいた頃は、対談を読むというのは好みではありませんでしたが、そんな好みも書籍の内容によっては全く反応しないものですね。

かえってその対談に引き込まれることを知りました。

 

そして、今日の話題は、若かりし頃の私が「さとり」がひらけたら楽になるんじゃないか?と一縷の望みを持っていた時から現在に至るまでを(既にこのコラムに書いていますが)わかりやすく解説されていました。

 

あぁ、私がたどった変遷はこのような変化と似ているな。という相似形を発見したことでやけに腑に落ちました。(笑)

 

何百年もかかっての変遷を、自分の短い人生の時間という単位で体験か?

やっぱり私は日本人だなと思うんです。

またまた仏教について書くことになりました。

 

教えについてではありません。

その変遷についてです。

この本を読んで良かったのは、初めて大きな枠の一部を把握できたということと、あら?それは私の体験とよく似ているわ。と思えたこと。

先ずはここから書いて行きます。

仏教に変遷・派生があったことは私も知っていますが、その内容は理解していなかった。正直言えば、調べようという気持ちも湧きおこらなかった。

教えなども、本を読んだって、私の知識はつまみ食い程度だったと自覚もあった。

 

そして、若かりし頃の私が悟りを求めたからと言って歴史を紐解いても、求めているものとはピントがズレているだろうと思っていたし、元々歴史が苦手。

ノータッチでした。

 

ところが、こんな私にも、これならどうだ。と言わんばかりのシンプル解説が登場。

  • 煩悩を根本からなくすのを目指すのが上座部仏教
  • (煩悩を)やめられなくてもいいじゃないか、というのは大乗仏教

私のような素人がイメージしやすい解説でした。

(やめられなくてもいいじゃないか、という理由は書籍に書いてありますから読んでみてください。)

 

その解説も、なるほど。と思えました。

 

そして、私が体験した、何も無くなっちゃた時に感じた

  • 何もしなくていい。
  • ただ生きていればいい。

ということが、大乗仏教の解説に登場していました。

なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

 

体験・体感が先で、それを過去似たような体験により教えに転換させた人がいるということはやっぱりあるもんだな。

それを体系立てて教えにまとめるようなことは、哲学エッセンスが無くては難しいよな。などとも思った。

そして自分がたどってきた変遷が、仏教の変化と似ていると気がついた。

 

そして、自分にとって大切な気づきとして、

  1. どちら(上座部仏教と大乗仏教)が正解ということはない。
  2. ひょっとしたら、大乗仏教は簡単な派生ではなくて、1つの進化だっただろう。
  3. 派生にしても、進化にしても、元型をとどめていなくても、元型が求めていた状態を得られることはある
  4. 自分の体験と思考を一から積み木のように重ねて積みあがったら、大いなる教えや流れと距離をとっていても結果相似形を成すことがある

3.や4.が「型を破る」ということに属するのかまではわかりません。

具体的な心の変化

最初は悟りに救いを求めた

私のスタートは、諸事に反応をする自分が辛かった。これを何とかしたいと思っていた。

感情を感じないようにしたら反応は収まるだろうか?とコントロールに解決法を求めた。(所詮無理だったんだけど)

だから、煩悩を無くしたかったわけです。

煩悩という言葉も知っていたし。

悟りと言うイメージに救いを求めるとき

 

なんと、救いを求めるのをやめた!?

それが同じく若かりし日の私は、「さとり」を求めることをやめました。

「私はもう生きている間に悟ることはない。」ということを悟った。

凡人だもの。

自分の限界を認めて、諦めました。

悟りについて考えるのをやめて、仏教などについて考えるのも止めたら、知らぬ間に体験していた

 

そしてこれが兎に角良かった。

決断としては、人生のベスト10に入りそうだ(と思うけど、じっくり考えたらもっと順位が下がることだってあるかもしれません。)

 

私のこの判断を聞いて、「いや生きているうちに悟れないなんてことはない。」というご意見・ご感想などはもう私には関係なかった。

やけくそとは違うのですが、それに関してはもうどうでもいい。とハッキリしていたし、これに関して、机上の空論やディベートには興味が無かったし。

 

興味の方向性と、意識の方向性を完全に変えることにして、そして実践しました。実践というのは、悟ってここから脱出したいというような気持ちを、脱出できないんだからそもそも一からやり直すという覚悟をしたということです。

 

微調整とかそんな器用なこともできないし、

もう全く自分の考え方では行き詰った。という一種の絶望は微調整できるような案件じゃない。(と思えた)

 

限界を知って、開き直った。

ナイスわたし。

 

「生きることそのものが禅」ー無意識の整え方から引用

らしいので、当時の私は仏教思考から禅へ移行したんですかね? (笑)

 

考え方の違う仏教

こんな私の心の中の変化が、上座部仏教から派生した?大乗仏教(または禅?)への変化ととってもよく似てる。

 

大乗仏教は、修行したら救われる。という「〇〇したら」という条件など要らないという事のようです。

私が開き直ったということは、「これでいいのだ」という考え方への転向だったみたい。

 

好みはそれぞれですが、本物の仏教の条件などということは、条件のない仏教からすると、そもそもスタート地点が違うということになるのでしょうし、しかし、本物にこだわることもあるがまま。

本物ということにこだわるとは何だろう?という姿勢すらもあるがまま。ということかもしれません。

 

私が悟りというものを「もう求めるのを、やーめた。」というあの瞬間こそ、私にとっては違う宗派に改宗?(禅?)したくらいの出来事だったとも言えますね。いやはやこんなところに相似形があるとは感慨深いです。

宗教の必要のないヒト

そして今、そういった事は考えておりませんが、これについては

「大半の人にとって人生が思い通りうまくいっている時に宗教は必要ありません。」-無意識の整え方 P81より引用

というセリフを読むと、最初に悟りを求めた若かりし日々の苦しかった記憶を「若いのに大変だったんだねぇ」と今に至る時間の経過を感じます。今となってはあの苦しみを再体験すべく感覚を思い出すことすらできませんので、1.自分の心体を整えるという手法の存在、2.日常でセルフケアをするというスキルを知り、実践して、本当に幸運です。

 

悟りというものを「もう求めるのを、やーめた。」と決めた時には苦しい時期の最中だったはずですが、あれ以来特に何かの教えにそれを求めずとも今に至りますので、逆算したらあの時に今が始まっていたとも言えるんでしょうか? 求めるのをやめた時期に人生思い通りに行っていたか?と言えばそれは随分捉え方が違うけどね。

 

そして、以前私が余りにもヒトが感情に飲み込まれていく様を「どうしてあんなに?」とただ眺めていた。とコラムに書きましたが、

この書籍の中の僧侶さんは、対処方法として「私の怒りじゃないんだから」と思えばすぐ手放せると、ミラーニューロンとも共通した表現をされていました。

 

私の怒りじゃないんだから。のセリフには仏教的な説明がされていますので、単純にミラーニューロンと一緒ではありませんので書籍でご確認くださいね。

 

 

感情に飲み込まれていく様を眺めていたのは子供の頃からです。↓

自分自身と調和している場合と、不調和が起きている場合。ONとOFF。

 

答えもルートも数種類ある?

なんにもない。という体験にはバリエーションがあることを自分の身体を通して知りました。

また、自分の人生の全体像が見えるような独特の体験もありました。

私のそれぞれの体験を「それは悟りだね」「それは覚醒だね」とおっしゃって下さる方がいますが、なにせそうおっしゃる方は未体験のため、感覚を共有してお喋りする方にお会いしたことがない。

 

精一杯同じ体験をした方と近づいても、知人の「私の師匠と同じことを言っている」どまりです。

ワンクッションの距離感にいらっしゃるかも知れない。

 

ですから、私は「それは悟りだね」「それは覚醒だね」というジャッジ(評価)をあくまで「その方の情報によると」という注釈をつけて受け止めています。それに、日常生活は変わりません。昨日があって、今日があって、今は生きている、明日はわからない。この連続ですものね。

若かりし頃の自分の人生の全体像が見えるような独特の体験も(ちなみに、これが知人の師匠ととても似た内容だそうです)、「それは悟りだね」「それは覚醒だね」とジャッジされたことがあるので、あらまぁこれは何かしら?という細かいものは抜いて、目立つものだけで3パターンのバリエーションがありました。

 

印象強い体験ですぐに出てくるのは3パターン。3パターン目はこちら。

最新の体験はこちらに書きました。

サイト「こすも」の記事タイトル:透明化には「専門用語?」があった

https://cosmos358.amebaownd.com/posts/5683973

これは唯一、体験をした方の言葉として同じ「透明」という言葉が使ってあったので、この方(道元)ご本人がそれを悟りと呼ぶのなら、今後は「これを悟りと表現した方がいました」とは言っても良いでしょうかね。

 

私はこんなことは、細かくてうるさくて、こだわります。

 

自分を気をつけていたいし、ついつい人さまにも言いたくなったこと

教えや法則や執着による妄想、他人の話を聞いて脳内創作したものを体験と認識する、本当のそれではない情報から間違った解釈をすることがあります。度々厄介な事になると書くのはこんなことなのですが、私の遠回しな表現ではなくて、それを見事に分かりやすく言葉にして下さっていました。

 

私なりに一生懸命書いているつもりなのですが、まだ芯を突いていないような感じがします?どうです?

エンパスと憑依と見えるもの、感じるもの

 

この書籍の中では、

  • 間違った解釈
  • 自分は神かも知れないなんて自我を肥大化
  • ビジョンを我流で扱うと危険度が増す

と示唆されていました。深く同感します。

 

そして、私はこれについても、人それぞれだと思うようになりました。

生きたいように生きたい。それを実践しているのだ。と反応しなくなりました。

 

最後に

E>> に飛びますが、ここでは

E>> 次元という捉え方も含まれていた。マルチバースの話は出ていませんが、認識の仕方という意味で使われていました。

について書きます。

 

私も次元について書いてきましたが

私は散々次元についてコラムを書きました。

人生の感じ方のクセ。 あなたの意識がある次元(空間・時間)とは?

次元についての複数のコラムを書かずにはいられなかったのですが、こちらの本にも登場しました。

 

この本に登場する方々の対談は超わかりやすくて、水平方向はトランスレーション、垂直方向はトランスフォーメーションという解説にはしびれました。

 

教えやメッセージという物語的な意味を求めること自体をやめようとするケースは本当に本当に少数だけど、そこから覚めていく人がたまにいるよ。ということも、私が余りの傾倒ぶりに警鐘を鳴らしたくなってしまって発信していた「意味づけし過ぎない」「メッセージは無くても大丈夫」「それらに依存しない方法もある」これらも響かない訳だ。だって求めたい人が99.9%(と表示されていました)なんだもの。

 

法則や教えやルール、メッセージを煽った方が即効性があるんですね。

それを発信するご本人も信じているだろうし。

 

ですから、他人様が求めているものをもっともっと認識した方が良いんだね!と私も気がつきました。

だからと言って、法則や教えやルール、メッセージという言葉や手法を使って煽れないし、やりたくない。

 

しかし、どの位の割合(99.9%! (◎_◎))が該当するのか気がついて良かった、よかった。

参考図書

タイトルにAmazonへのリンクが貼ってあります。

購入などの検討をされる際の詳細はそちらでもご確認いただけます。

人生が変わる! 無意識の整え方 – 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 – (ワニプラス)

 

B>>が終わりました。まだまだ先がありますな。

 

(2019/02/10)

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