「気」についての体験と経験値の拡大と収縮 

広がりに広がった書き物(体験記)がどんどんまとまってきている

お知らせしていた通り、こちらの前の記事の続きを書きます。

書けるところまでいってみましょう!

「気」についてまとめる前に

 

独特の感覚は「気」の取り扱い方法の1つだった?!

最初は記事の中のこちら

A>> 書籍の中で登場されていた合気道の1つの流派の代表の方のお話の中に既に記事に書いた私の「今までは人の安全のためにだけ使うというMYルールを適用していた」と書いた感覚が理解できる記述があったり

について書きます。

サイト「こすも」の記事『独特のアンテナ』の独特とはどんな感じ?ということを先に書きます。

 

そもそも読みたい本リストが結構な量で、順番に読みながら、リストに無い本もどんどん読んでいますと、どんな時期にどんな本を読むのかを予定などしていられません。

安定したペース?で順番に読んでいきます。

 

これが最近一層、読むタイミングが絶妙になりまして、そもそも数えきれない量の書籍から、自分の今のタイミングにピッタリと合う本の存在を知るという偶然。これ自体が幸運ではないかと思っています。

 

サイト「こすも」の記事に書いた『独特のアンテナ』の説明をする時にいつも書くイラズトがありまして、それはこちら。

いつも書く説明イラストとご紹介しましたが、今までにこのお話をした方は合計10名にも満たないと思います。ダイビングの仕事をしていたのも大げさに書くと二昔前だし、話すタイミングもそれほど無いしってことです。

イラストの説明

スキューバダイビングの仕事はレジャーですが、安全管理がとても大切です。そのため、デスクワーク、営業回りをする感覚とは随分違うんですよ。

私は遊びでダイビングを楽しんでいる時から、自分がゲストのくせに、他のゲストの安全が少々気になるクセがありました。

気になるけど、ゲストとして他のゲストにアレコレ口を出すのはイマイチよろしくない。そうですよね、プライドがありますから、あんた誰?という人に口出しされるのは楽しくない方もいます。

ですから、ダイビングインストラクター、海の中のガイドとして自分のチームの安全管理を仕事として行うという状態はそういう意味では非常に楽だった。

仕事は肉体労働だし、日焼けも疲れるし、年中身体の芯から冷え切っているし、肉体労働付の接客業だし、レジャーだし、気は使うし、自然はいつも違うし、と大変は大変だったのですが、自分の能力を使うという意味ではあっていました。(この仕事をした期間は短かったですが)

 

そして、先ほども書いた

自分のチームの安全管理を仕事として行うという状態

の際に自分でふと気がつきました。

 

私は、ゲストの状態を実際に目で見ていなくても(後ろを向いていても、間に遮蔽物があっても)把握できているようなこの感覚は何だろう? と。

見えている?と自分でも不思議だった。それも心の目だか、脳内の目で。

 

自分は一体どのようにしてこういった感覚を利用しているんだろう?と思い出しつつイメージしてみると

イラストではわかりやすく色を変えて赤く書きましたが、私的には蜘蛛の糸のように透明で細いです。ネバネバしていない。ツルリとしてる。

見えない透明の紐状のものでゲストと私が繋がっていて、それによってゲストの状態を確認しているな。と気がつきました。

その透明な糸をまるで電気信号のごとく情報が通ってきて、心の目だか、脳内の目で見ている。

 

電波受信して映像が映っているテレビみたいな現象ですね。

いや、別にWi-Fiが飛んでいるパソコンでも良いし、スマホでも良いけど。

脳内ipadが良いかもね。

リピーターさんもいらっしゃいましたが、旅行社と提携していたために初めての方も繁忙期には沢山いらっしゃいましたから、朝お迎えする際にスタッフ毎にチーム分けがされます。

私が担当するチームになるゲストを朝ショップでお迎えした時に、ご挨拶やコミュニケーションをする際に透明の紐がゲストお1人ずつの体に、チョン、チョンとついて行く感じです。

私がイメージして紐をつけるわけじゃないです。自然にそういう仕組みができていた。

 

で、終日ご一緒して、お帰りをお見送りする際に透明の紐は回収。釣り糸がリールに巻き取られるようにシュルシュルっと人数分の糸を回収していたのかもしれません。というのも、後から(何が起こっているだろう? いただろうか?)と考えた時に自覚した感覚なので、その当時は無意識、無自覚に行っていた。

 

毎日これの繰り返しでした。

 

このような感覚は、人様の安全に関わる時のみ発動される本能のようなものでして、その他は使わない能力です。(多分)

こんな感覚を(少なくとも私が働いた)ショップの同僚が使っているといると感じたことは無いですが、他の会社の方(船長)にはこの感覚を使っている方がいらした。その方は、船に乗っている全員と、船の周囲と、海底にもアンテナが張り巡らされていた。このアンテナの精度の高い船長はとっても腕が良くて、私から見たら神業なんですが、その中でも仰天するほどの船長は数名しか知らない。

 

そして同時に、これを自分のために使う事を絶対禁忌にしている私もいた。それは私の信念として。

 

自分の為というのは、

私利私欲のようなものにも使えるのかもしれないが、それはそもそも考えない。意識を向けない。という意味です。

 

正解は知らないけど、私利私欲で使いたくなるという自体がすでに心の穢れになるとどこかで信じている(いた)。または、知っている(と思っていた)。

ましてや私利私欲で使ったら人間やめますか?位の感覚だったからこそ自分の中だけの絶対禁忌案件だったのだと思う。

 

ある種、エゴの恐ろしさを知っていたとも言えるし、自分の中の信仰心とも言えるのでしょうね。

流される怖さというものを内包する出来事って世の中にあるんだと思っていて、覚せい剤や薬物というものに対して経験はないけど恐れているのと同じです。禁忌ぶりも。薬物に限らず、依存って軽い案件じゃないと思っています。

こういった目に見えない事柄(心理も含む)には、一線を越えないほうが良いことがあるような気がしているわけです。

 

今はどうか?

今は、「どうやら自分は海の仕事をしていた時に独特の感覚を使っていたようだ」という認識はありますが、それを実際に使う事はありません。自然に発動されるような出来事がない。

 

ひょっとして小さいお子さんなどと遊ぶ機会があれば、同じような感覚になるのかも知れませんが、意識して出来るもんじゃないと思うし、意図的にやることではない気がしている。意図的に行うことは禁忌にしておいた方が良さそうだし(と思っている)。

 

「独特の感覚」が別の言葉で表現してありました

合気道一般の話ではありません。と書籍の中にも書かれていますし、私も合気道と他の武道系の違いはよく分かりません。

話を進めやすくするためにだけ、合気道という名称を使います。

 

この書籍の中には

「助ける」「介助する」ように動くと気を通わせることができる。

無意識がつながることで気が通う。

とありました。

 

私が海の仕事をしていた時は今のような知識は無かったので、臍下丹田と聞いても、「あぁ丹田って武道とか太極拳などで聞きますね」という程度だったと思いますが、そもそも丹田という言葉も会話に登場しませんでしたし、私がそれを意識するということもなかった。

 

ただあったのは、安全にダイビングを楽しんで欲しい。楽しい1日を過ごして欲しい。だけだった。

 

性格が合うとか、話が合うとか、一切関係なく「リラックスしている方がリスクが低くなるので、そのためにも、その方になるべく合ったコミュニケーションやサポートをしたい」という状態でしたので、ただ「受け入れる」のみ。

 

無私と言えば無私ですね(笑)

 

そうすると、習ってもいないけど、合気道のような「つながる感」が体感できたのかな?なんて本を読んで思えました。

 

多分自然の中じゃなくて、危険リスクが低いほかの接客業だったら、心の中で毒づくようなことがあったかもしれないし、まんまこうはならなかったはずだから、短い間ですが、非常にいい経験をしました。

あの仕事をずっと続けていたら「気」が減ったのか?

「気」が減るという説もありますし、「気」は無限だという説もある。

 

私がここまで書いてきたような事を話した時に(あの時はイラストを描いてないかも)

「ずっと続けていたら『気』が無くなっていたかもしれないね」と意見を聞かせてくれた友人がいました。

その時は私自身もわからないから(そういうものなのかな?)という意味で「そうなのかな?」「無くなったらどうなるの?」と会話が続いたような記憶があります。

 

しかし、この彼女の発言は度々私にヒットを飛ばすのですが、これにかんしても、私の脳内が「研究課題」に勝手に選んじゃいましたわ。

 

私はこう言う時に全然ネット検索しない。

なんでもかんでもネットを利用しない。という習慣があります。

 

でも、頭の片隅に『「気」が減るという説もありますし、「気」は無限だという説もある。さて、これをどう理解する?』という事が家電の待機電力のように脳内信号が微かに光り続けていた。

 

「答えってあるのかな?」と。

 

この「気」についての疑問まで、説明されていた

体験はあるけれど、答えのないまま、特に答えを求めることなく過ごしているとどんどん拡散していきます。

経験値が増えるともいう。

バリエーションが増えるし。

 

腑に落とそうともしない、「あるがまま体験を積み重ねる主義」と言えばそうなんだけど、こういう主義を現わすのに適した言葉を思い出せない。

 

そうしたらば、生きているうちに貴重なお説を拝読しました。

 

それは、教えが違うという解説でした。

  • 中国的な考えは、気がバッテリーのように蓄えられて、使えば消耗する。
  • 合気道的には気は通っているもので。互いに交流しているもの。

捉え方の違いがあるんですね。

 

ですから、バッテリー的なものと捉えていたら「気が無くなる」し

通っているもので、循環しているものだと捉えれば無限となるでしょう。

 

しかし、無限だと言いつつ(無限だと教えつつ)も現象的には枯渇している、枯渇していくこともありそうです。

無意識では循環していないと言えるのかな。

 

バッテリー式だと思いながら、循環していてまるで無限を連想させるような事例もある。

 

知識と身体(気の使い方)が一致しているとは限らないのは、気の事例に限りませんが。

 

ですから、

私がある種合気道のような気の使い方(スキル)でゲストをお迎えしていたとして、その先が

  • バッテリー方式ならその先枯渇したのかも知れないし
  • 循環ということが出来ていたら気が無くなることは無かったのかもしれません。

 

現在は感覚が違うし、透明の紐が登場するようなこともない(と思う)。

 

体験を積んで拡大したら、一旦の答えのようなシンプルな説明に出会えるという収縮が起きています。

人生楽しいものです。

 

最後に禁忌の継続について考えていること

前述した絶対禁忌というような感覚ですが、

私の状態も変わったりしているので、絶対禁忌ということも緩めても良いのかな?とサイト「こすも」を書いた時に初めて頭をよぎりました。

 

そもそも、意図的に私がそれを思うように使えるのかどうか?すらも不明です。

やればできるかも知れない。とも思える。

 

自分の中の答えが出ていないので、心が定まるまでは現状維持です。

答えなど出なければ、そのまま人生を終えるだろうけれど、別にそれでもかまわない。

 

そう言えば、その場にいなくてもなんだか見えるような気がするときがある。

推理や推測が自動的に映像化されているのかな?とも思えるけど、これについてもいつか答えが目の前に現れるときが来るかもしれない。

 

今日はA>>だけでコラムを終わってしまいました。

B>>以降はまた続きを書きます。

 

参考図書

画像とタイトルにAmazonへのリンクが貼ってあります。

購入などの検討をされる際の詳細はそちらでもご確認いただけます。

人生が変わる! 無意識の整え方 – 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 – (ワニプラス)

 

(2019/02/09)

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