さとりへの道。 苦しいコース、楽なコース あれこれ。

前置き

私のコラムは、いちいち前置きが長いことが特徴です。自覚あります。

本題に入ると、前置きのような呟きを挟む場所が無いから最初に書いておきたいみたい。

 

今日のコラムのなかの「さとり」という言葉は、本の中の表現の引用です。

本の内容はさておき、私のこれから書く「さとり」という内容には深い意味も、宗教性もありません。

私の体験そのまま?書いてあるというようなことでしたから、本の中の表現を引用するという単純なことです。

ウソの悟りと本当の悟りがあるのかどうかすら知りませんが、そういう真偽についてではなく、本の表現の引用であるということを今日のルールとご理解ください。

そして、これも大切なのですが、私はこの本をもう随分前に買って読み、保持していましたが、中身をすっかり忘れており、放置したまま再読はしていなかった。1年使わなかったものは断捨離どころか、引っ越しにもついてきながら眠ったままでした。ひょっとしたら20年近く持っていましたから、本の大量処分から漏れて、かつ、長い沈黙を破って再読してビックリ。

本の大量処分をして、この本が目に留まり、再読したのが丁度いい時でした。

 

この本によると、

時間のない「いま」に在ると、しばしば何も骨折りをしないのに、予想もつかない具合に状況が好転することがあります。人生はなぜか協力的になり、あなたの味方になります。
ー書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」 P278より引用

らしいが、確かにそんなシーンは本当に増えた。シンクロと布置が青い鳥のパンくずのように先を案内してくれるようだもの。

 

がしかし、どうやら読み返して分かったことは、この著者は書籍の中にあるメソッドを伝える側のようなのですが、私はこのメソッドを知りませんし、利用していませんし、勉強していませんので、知らないものはお薦めしていません。理由も、そのメソッドが良いかどうかを知らないからだけです。

書籍をご紹介しているのは、私が自分の人生を通して体験したものが結果的にとても似ているというだけなのです。結果というのも、最新の今日現在(2019/02/27)というだけのことです。

このメソッドを勉強しているよ。と発言した方はこれまでの私の人生で2名存じ上げていますが、本の中の「さとり」という状態を体験されているのかどうかも存じ上げません。逆説的で申し訳ないのですが、この本によると「それは勉強するものではない。知識で理解するものではない」ということでした。

私は追及するのをやめて、なんだかんだと人生を生きてきたらこの本の中に書いてある状態の体感があったために今はそれが理解できているようです。

重ねて言うのなら、体験したらそれで終わりじゃないし、ゴールでもない。

体験した後にエゴが炸裂して、もうその状態じゃなくなるという事だってとても可能性が高いと思っています。

自分が特別なモノになったと思った時に、多分それを失っている。

好事魔多し。という言葉が合っているかわからないけど、体験したら永遠の保証があるわけじゃなくて、この瞬間にその状態にいるのか?どうか?だけだと思うから。

 

自分が特別なモノになったと思ったが為に、多分大切なそれを失った。という場合に、私にはその方が「酔っぱらっている」「恍惚状態にある」「うっとりしている」というように見える時があります。

それは悟りとか関係なく、自分が特別なモノになったと思った時に、多分「それ」を失っていると思える全般の事です。

「それ」とは、純粋さかもしれない。

 

この全体から伝わってくる「酔っぱらっている」「恍惚状態にある」「うっとりしている」という事に至った体験がどんなものかを実は一々お聞きしませんが、姿を拝見していると(あぁ なんかあったんだ)となんとも不思議なんだけど伝わってくる。(ような気がする)

会話を交わすと(あぁ やっぱり)と思う事があります。(ような気がする)

 

ご本人は一層盛り上がっていくその気持ちなども多分理解できているとおもうんだけど、先ほどの「好事魔多し」という例えのエッジが効いてきますが、本当に魔に入り込まれているような気がするときがある。

多分これは私の感覚的な捉え方であって、心理用語ではエゴの状態じゃないかと思っています。

 

なんというか、体質的(脳的)に解離しやすいとか、解離を求めている場合は、こういった事が起きやすいから気をつけた方がいいんだろうなと思っていますし、さとりを求めたいときに、それは自己との解離の先に在ると信じ込んでいるんじゃないだろうか?

自分の肉体を脱したところに純粋なナニカがあるという想定をしていると、そのような現象が起きた時に、全然違うものとコンタクトしても違和感を感じることなくあっさり受け入れてしまうというような現象だろうか?とも推測することもある。創造しちゃうっていうことだってありえる。

「酔っぱらいたい」「恍惚感に浸りたい」「うっとりしたい」というこれらを求めている方が多いのは(多分)知っているが、それも気持ちが良いから、別に否定はしないけれど、脳(頭・意識)で感じることと、身体で感じる事は少々違うみたいです。

その際に、「さとり」の真偽という事が次なる話題になるが、そのあたりは宗教家の方に尋ねて欲しい。

 

ただ、kazuyoさんが、「もっと何か大きな感覚がするのかと思ったら、とっても静かだった」と感想を教えてくれた時に、「酔っぱらっている」「恍惚状態にある」「うっとりしている」とは全く別のシャープな意識を感じたのは非常に嬉しかった。初めて私の感覚を同じように感じて貰えたようで単純に嬉しかった。

 

 

また、これも大切なルールなのですが、この本で使われている無意識状態というニュアンスは、私がいつも書く無意識という意味とは違っているようでしたので、それも含めて、この本のメソッドを私が手放しでお薦めしないという事でもあります。

言葉の使い方に違いがあるというこれまた単純な理由であって、メソッド自体について述べているわけではないのでご理解ください。

 

私なりの意見はもう書いたので、直接ニュアンスを聞きたい方がいらしたら、講座の時や、個人セッションの時をご利用くださいませませ。

本題に入る前に、これまでの経緯

前置きを補足するために、経緯をご紹介します。

「さとり」なの? この体感を解説してみました。深層リンパドレナージュ 家族コース開催。

このような出来事がありました。

 

そして、その他に、下の3つを今回はピックアップしました。

 サイト「こすも」:前回の続き。金沢マジカル体験記https://cosmos358.amebaownd.com/posts/5656887

 

 サイト「こすも」:透明化には「専門用語?」があったhttps://cosmos358.amebaownd.com/posts/5683973

 

仏教の変遷(変化)と私の内的変遷の共通項

 

そしてなんと、前回書いた時は1/3程度しか読んでいませんでしたが、その先完読したところ、

ここまで書いた体験も、この先書く体験も全部この本に載っていました。

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる

(タイトルにAmazonへのリンクが貼ってあります。詳細はその先でご確認お願い致します。)

ここまででご紹介したこと以外の「本の内容と同じ体験」を書いていきますね。

感覚 透明化

くっきり、あら!透明だわ!と思ったのは金沢が初めてでしたが、その後は深層リンパドレナージュの家族コース中、kazuyoさんの施術を受けている時もそうだった。

 

道元がそれを「心身脱落」=「さとり」と言ったらしいという伝聞である。

そして、この本の中にも透明について似たことが書いてあった。脳で創る透明ではなくて、身体で感じる透明。

 

他の、虚無感の時に感じる体の中を風が通り抜けるという感覚とは全く違う、心地よく(風という感じではないナニカ)身体が通るという感じがするときも、ひょっとしたら透明化の一種かしら?などとこれを書いていて思った。しかし答えはわからない。

そう、やっぱりわからないことは満載なのである。

 

先ほどもリンクを貼りましたが、こちらに書いています。

サイト「こすも」:前回の続き。金沢マジカル体験記(https://cosmos358.amebaownd.com/posts/5656887)

サイト「こすも」:透明化には「専門用語?」があった(https://cosmos358.amebaownd.com/posts/5683973)

体験

仏教の変遷(変化)と私の内的変遷の共通項

この記事の中で、体験・感じ方のバリエーションがある事を身をもって知ったと書いており、それを「さとり」という人はいたが、それは実際の体験者ではなく、情報によると。という域を出ていないと書いた。

 

そして、私が今から20年以上前の体験についても、書籍に出てきたから驚いた。私が最初にこの書籍を読んだ時には完全にスルーしていたことが今回わかった。だって、情報ではそれについて意見を聞かせてくれる方は居たけれど、私自身は(あの体験はなんだったのかな?)と思っていたもの。

 

それはこのように書かれていました。

肉体的なものにしろ、心理的なものにしろ、死との直面、そのような苦しみが「手放すこと」へと自分を追いつめることになり、エゴの硬いカラを打ち破って、さとりをひらくのです。
ー書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」 P290より引用

書籍ではこれを恩寵と書かれていましたが、本当に大変な状態なので、その最中に「これは恩寵だ」などとはとても思えないし、

これには続きがあって

「下り坂」からさらに「下方」へ落ちてしまう人もいる。ー書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」 より引用

という感覚もわかるし、本当にそうなる人もいると思う。

 

「底がない」なんて会話を交わしたことを下の記事で書いています。

私は運に見放された。運がない。と思う時

 

本当にシンドイ。

そのシンドイ最中に、何とも言えない風景と体感があり、モノの観え方がガラッと変わった数分間があった。当たり前だと思っていた時間や空間という観念・認知バイアスから抜け出たのは、この時(20年以上前)が初めての経験だったと今さっき理解できたし、この20年以上前の体験により、全ては幻だというような意味が分かったつもりになった時だった。

 

それでいて、「無」であるという、小説に書きたいほどの体験だったが、割合あっさりとこの本には書いてありましたけどね。

 

すべてが幻だと知りながら(思いながら)、半死半生のような状態から復活するというのはとにかくシンドかった。どこにも、全く支えがないのと同じように感じたからだ。支えだって思いたいものが幻なんだから。というようなイメージだったと思ってもらえれば良い。

 

だから、私の話を聴いて、「私も体験してみたい」と無邪気におっしゃる方もいるんだけど、一応真顔で「相当シンドイし、(元気になる)保証もないよ」とは伝えます。

なんというか・・・・レジャーじゃないんですよ。非常に痛みを伴います。

 

「恩寵」の境地に到達という事らしいですが、これが恩寵ならば、それを活かせるかどうかは、かなりオッズの悪い確率じゃないかしら。

窮すれば通ず。ってどの割合で通じるのでしょうね。

私の場合は、そのあと健康になって生き易くなったということが「恩寵」だとは思います。

 

そして、本には、

やむを得ず「すでにそうあるもの」を受け入れ、「手放し」の境地に至り、神を見いだしたのです。
ー書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」 より引用

と続くのですが、

私は、「仏教の変遷(変化)と私の内的変遷の共通項 」にも書いたように、自分の限界を知って、諦めたり開き直った自分を「ナイスわたし」と今は思っていますが、その時に神は見いだしておりません。その時とっても感じたのは絶望感でしたから、神も仏もあるものか。というような心境でしたね。ですから本の中の「神を見出す」の意味がどういう意味か今日現在はわかりません。

ニセの仮面を捨てるという意味では本の内容に賛成です。

 

そして、もっとこの本の内容に賛成したのは、

その人たちは、苦しみは自分でこしらえたのだと心のどこかで気づいて、受け入れたにちがいありません。
ー書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」 より引用

この部分です。

私は 心のどこかどころか、思いっきり自分が原因だと気がつきましたので、凹み方もより一層でした。(笑)

ガックリ _| ̄|○ ホント、この絵文字くらいのガックリでしたもの。(笑)

このあと、バタンと倒れてしばらく起き上がれませんでしたし。

 

ちなみに、この非常にシンドイコースは「十字架の道」という名前までついているようです。

キィーーーー! あ~~~~もう、イマイマしいったら。と苦笑いの自分の心理もありつつ、そう言えば、その苦しい最中も、このコースに乗っかる以外道は無かったのね。という諦めがありました。諦め=明らかに見る と言う意味のあきらめね。

もう自分を誤魔化せないし、のらりくらりと逃げて先送りも出来ない。逃げ道を断たれた感じです。

You can do it.とは、君ならできるよ!という訳がされていましたが、そんな可愛らしいもんじゃない。

強制恩寵だもの。(笑) Do it. 問答無用に「やれ」という感じかしら。選択肢は1つ。

 

本の中にそのまんま書いてあるんだから、もぅいやんなっちゃうわね。と思う反面、読んでいて、よしんばそれを覚えていたとしても痛みが減るわけじゃなかったと思うし、期間が短くなるわけじゃなかった。

 

読んだこと、聞いたことが理解できるのは、その後だから。

 

それに、この本をずっと持ってても(ちなみにこの本を買ったのは、超シンドイ時期の最中だったと思う。違うのかな?その前ってことあるかな?)書いてある事と自分の体験を照らし合わせていないという呑気な私再発見という感じでしょうか。

 

触媒

私はそれらしい言葉や名詞先行脳、またはそういった既存認識鵜呑みバイアスが低いのかもしれません。

体感重視とも言えるのか、体験重視とも言えるのか、妄想や創造は控えめタイプか、妄想や創造は自分の中で区別できるタイプなのかもしれないです。

確かにある程度脳は変わったと思う。ある程度変わって現在に至るような気がする。

もちろんすべて、その「つもり」という事でしかありません。

 

兼ねてより体感が合った感覚「触媒感」についてもこの本の中で取り上げられていて、

この本によると「過去を溶かす」触媒という事が書かれていました。

 

私の感覚と確かに似ている。

 

個人セッション・施術後のクライアントのご感想

 

こちらでは

サイト「こすも」:前回の続き。金沢マジカル体験記(https://cosmos358.amebaownd.com/posts/5656887)

 

意味合いは、縁結びとか和合という事なのですが、

クライアントが何と縁を結んだり、何と和合しているのかということが「あぁ そういうことか!!!」と思えるようになってきて、これが私の中の「触媒感」と非常に収まりがよいということも、この記事を書く前に調べた内容とマッチ・リンクしていて大きくスッキリしています。
前回の続き。金沢マジカル体験記 より引用

このように書いていますが、

この本の考え方によると、過去を溶かして「いまに在る」状態とクライエントを繋ぐ触媒という考え方も出来るなと思えました。

 

苦しいを辿り、そして今に至る

こんな感じが、苦しいコースをたどり今に至る私です。

 

ちなみに、このシンドイ、苦しいコースは、その瞬間から随分時間がかかるそうです。

随分時間がかかるというのは、多分、落ち着くまでってことじゃないかと思います。

 

このかかった時間も、今は楽しい思い出です。

 

楽なコース

楽なコースというのは、

先述のバリエーションっていろいろあるもんだな。の後半の2つです。

 

何の気なしの瞬間に、なんにもなくなっちゃった。ときと

上にリンクを貼った、身体が透明になってきて、全部透明になって体が無くなったわ。というLightなもの。(not heavyの意味)

 

多分、この本の著者のメソッドを学ぶ方は、強制恩寵がないタイプでしょうか?

いや、そもそも何名くらいの方が勉強して、何名の達成?率がしりませんし、それを始めた背景は私のような

  • 楽になりたい

のか、私とは異なる

  • 真理を知りたい

のか、他にも選択肢はあるでしょうが、直接そのあたりのお話を聞かないとわかりません。

 

ひょっこりそれが訪れる以外に

勉強が近道なのか、シンドイのが近道なのか私にはやっぱりわかりません。

ただ、人間社会と距離をとりすぎていてもその時は訪れないかもしれないし、情報を集めているだけでも難しいかもしれないですね。

こんな社会はクソだ。人と関わるのが面倒だから、勉強だけで悟りをひらくんだ。という意識から脱した時がそのチャンスだったりするような気がしますけれども正解はわかりません。

人と関わり合いたくない場合に、勉強だけしているって結局「ラク」なんですよね。

その自分の「ラクさ」の先に悟りがあるのかどうかは私にはわかりません。

 

分かりませんが、自分も受容するけれど、自分以外のものを「受容」ということも大切だとするならば、1人でラクな勉強をしているだけで、自分以外のものを「受容」ということがどこまで可能なのかしら?とは思いますが、でもやっぱり正解はわかりません。

 

本によると、自分が何に抵抗しているのか?ということを良く観ることが大切で、それを手放すことだとありますが、自分の抵抗こそ、思考で誤魔化すものTOP3に入りそうですから中々気がつきにくい。無意識でそこから逃げようとするし。逃げる理由を考えて正当化するし。抵抗する際には「アッチが悪いんだ」、「理由があるんだ」と思いたいし。なかなか難物ではありますね。

しかし、この心理的抵抗、肉体的抵抗も人間ならではの反応なので良くも悪くもなく、それとどう付き合うか?というだけの事かも知れないですね。

 

ほんのつい最近気がついたこと

割と子供の頃から、「楽になりたい」と思っていたら、気がついたら今はそうなっています。

長い時期「さとり」という実態のわからないものが一縷の望みだった。

その後、「さとり」を求めるのをやめた。

 

「私は楽になります。」とバランス調整をしたことは一度もありません。

「私は悟りをひらきます」とバランス調整をしたことも一度もありません。

 

また、私自身は一般的な瞑想をほとんどやりません。

こりゃセルフケアに良いなと思って体感からセルフキネシオロジー講座にも取り入れた方法の1つがマインドフルネスという名前が既にあった事はありましたが、

座禅を組んで瞑想。というイメージの瞑想はほとんどというか、今はやりません。

少し興味を持って、それをやったことは数年前にありました。あぁこれは耽溺する人もそりゃ出るかもね。と思ったくらいで私の生活には根ざさなかった。

 

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主流、メインは、自分の心や、感じ方、認知バイアスを時には強制的に苦しい「十字架の道コース」の最中に、多くは自発的に探究した結果です。

スピリチュアル的ではなく、心理と精神を真剣に見つめていったというかなり地道で根気が必要だった方法でしたが、極めて合理的だったと思う。

それなりに長い時間がかかりましたが、過ぎてしまえば1分も何十年も同じです。今が楽だから。

 

ひょっとしたら、願ったら叶ったんでしょうか?

 

今はそうかもしれないです。

しかし、継続して、いつも「いまに在る」のが良い状態のようですので、それも自分次第ですね。

体験は体験であって、ゴールではない。

人間は瞬く間にエゴが肥大する生き物なんだと思うし。

 

誰も保証はしれくれないってことです。

自己管理でお願いしますってことなんですよね。

成功ってなんだ?

多分、今回ご紹介している本を買う もっと前に買った本があります。(多分そうだと思いますが、覚えていません)

こちらの本も以前からちょくちょくご紹介していますが、やっぱり内容を覚えていない。(-_-)

リンクを貼った時に(画像とタイトルにAmazonのリンクが貼ってあります)チラッとAmazonで内容を確認したら、なんとまぁビジネス書? コーチングの本でした。私は今でも個人セッションの中でコーチングのスキルを利用しますが、自分が過去読んだこの本がコーチング関連の本だと初めて気がつきました。

今はすっかり読むのを敬遠している、成功法則本と書いてあるじゃありませんか! それも表紙に! 驚きました。

前回の本の大処分の中にこの本は無かったので、家のどこかに入り込んでいるはずですから、出て来たら読んでみます。(2019年後半に「望めば、叶う」を再読しましたが、もう全然ピンとこなかった。私が変わったようです)

望めば、叶う

この本をご紹介して、文章を書いて、はたと気づきました。

書籍「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になるによりますと、私の体験したこれらは「成功」だそうだ。

お金がめっちゃある。というのは数値化できますね。

健康というのも、ある意味数値化できる。

他の成功も目に見えるものです。

 

これは目に見えない。

目に見えないから、私の感覚を嘘じゃないか?と疑う人もいたくらいだ。(笑)

しかし、内面は全然違う。

 

私はよく「ブレないね」と褒めて頂くが、大ブレからの復活という結構なシンドイ体験をしていると、誰でもそうなると思う。

衝撃の吸収許容量が増えたんだろうか?

 

この本「望めば、叶う」を手に取ればちゃんと?クッキリと、今はすっかり読むのを敬遠している(興味を失っている)「成功法則本」と書いてあるじゃありませんか! それも表紙に!

「望めば、叶う」の表紙にあり、(no Thanks。もう良いよ法則系は)と思っている私が、成功法則にのっとって「成功」したという解釈もできるのでしょうか?

 

有り難いことですね。

成功が有難いという感覚よりも、今が楽だから有り難いです。

 

もうだたそれだけですね。

 

※2019年後半に「望めば、叶う」を再読しましたが、もう全然ピンとこなかった。私が変わったようです。

 

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(2019/02/27)

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