人智学という考え方ー2 大前提
はじめに・大前提
この「人智学という考え方」について一連のコラムを書き始めましたが、私がこれまで書いてきた全体像が、別の表現・名詞を使って書かれている(と感じる部分が多い)書籍をご紹介して、それに基づいて過去のコラムを振り返りつつ進めていく所存です。
これがちょっと長くなるかもしれませんので、なるべく端折って、読みやすく書いて行きたいと考えています。しかし、ニュアンスをお届けできるならしたいという想いが沸き起こり、ついつい細かく書いちゃうであろうことを今のうちに但し書きとして残しておきます。是非書籍を手に取って読んでみてください。
そして、ここも大切なので、今のうちに書いておきます。
この書籍の著者は、アルバート・スズマン氏です。そして私が読んでいるのは訳書です。ですから、ルドルフ・シュタイナー氏がお話されているのを直接聞いているわけではありません。そこは認識しておきたいと思っています。
よく、色んな教えの中に「〇〇」がおっしゃった。という伝聞(書籍化されていたとしても、それは著者のフィルターを通っている。秘伝の文書があったとして、それはご本人が書いたのか?ご本人以外の方の理解によって書かれているのか?)事がまるで真実、真理、正解のように疑いもなく鵜呑みにされていきます。
おそらく、人間の能力として、「〇〇」がおっしゃった。という〇〇というご本人のニュアンスを人様に分かりやすいように伝えられるという能力があり、そういったある種の突出した能力が後世への繋ぎ手として入り込んでいないと、真実、真理、正解というのは伝わっていきにくいよね?と思っている節が私には有ります。
ですから、何千年の知恵であっても、ご本人のニュアンスが人様に分かりやすいように伝えられるという能力(人材)に恵まれたのか? 欲やバイアスによって元々のエッセンスが消失してしまっているならまだしも、全く違うものになっているケースもあるだろうと思っています。
それは私が「歴史」というものを学び始めた小学生の時から(これってホント?)と感じていたことと同じ理屈だろう。
物語として受け継がれる分には脚色も装飾も誤解も「味」となるけれど、真実、真理、正解となると、「すべては幻」論がむくむくと幅を利かせきていないか?というような事です。
と言うような事もこれまで散々書いてまいりました。一応このシリーズのコラムの中で「ルドルフ・シュタイナー氏」と記載しますが、それはあくまでも、「ルドルフ・シュタイナー氏の考え方を伝えているアルバート・スズマン氏の講演を書籍化したものの和訳によると」という意味合いだと脳内変換してお読みください。
フラクタル理論(本の中にはフラクタル理論とは書いてありませんが)
書籍の中に登場する順番に沿って書き進めていきたいと思います。
書籍の中には、フラクタル理論という名称は登場しませんが、
単純な日常的な事柄のすべてには非常に意味深い背景があります。という記載に続き、
そして日常的な事柄とその意味深い背景を隔てないという事が人智学の人智学たる所以なのです。
とありました。
これはおそらく、日常に起こるすべてのことに意味があるという考え方の元に、
信号が赤ってことは、今日は行くなってことだろう。とか、
曇りだから家に居ろってことかしら。という考え方の元を現わしているのでは無いだろうと私個人的には思っています。
虫の知らせってある。それはあるだろうという経験もしましたが、虫の知らせってこういう事?
それは、考えられない、考えたくない、決められない、決めたくないから、気が向かないことを赤信号のせいにしたり、天気のせいにして「自分以外に責任を負って欲しい」ということの領域では無いだろうか?
やらないことにも、ヒトから責められない理由が欲しい。とか。
やりたくない。
行かない。
気が向かない。
というストレートな言葉が使いにくい、または自責ということにアレルギー反応があるというケースは無いだろうか?
ぼやかして生きていきたいと思っていたり、解離したり、トランス(自失)して生きていきたいという奥底の願望はないだろうか?
日本人的感性の「はっきりものを言わず、フワッとさせて曖昧なままにしておく」という美点も私自身は好みますが、自分の心理とそういった処世術という双方の大きな違いを理解している方が良い様な気がする。ぼやかして生きていくことを好むことが悪いとは思わない。そういったこともそれによって起こる様々な事も結果は自分持ちだし、良いことも悪いことも起こるだろうし。
私が感じたのは、こういった事がフラクタル理論になっているんだろうな。という事でした。
自分の本来の感性が感じにくい。とか、「自己責任」というものを他でも放棄しがちであるとか。または、やり方、対応の仕方がよくわからないとか。理由がないといけないと思っているとか。理由がないと動けないとか。
そして、その本来の感性ということが書籍の中では「生命感覚」と表現されていると理解しています。
ぼやかして生きていきたいと思っていたり、解離したり、トランス(自失)して生きていきたいという奥底の願望を満たすものは、真綿でくるんだ柔らかい優しい表現らしい。
ルドルフ・シュタイナー氏はどうやら「ぼんやりさせない派」なようです。
結構な以前、私もブログかFacebookに「船井幸雄氏」が命の火が消えてゆく期間におっしゃったと伝えられたセリフをシェアしたことがある。
船井幸雄氏と言えば、一時はオカルトやカルト、スピリチュアル、占い類を研究しまくって、ある意味世の中を大きく牽引した方です。
その方が「私はもうすぐ死ぬが、だからこそよくわかる(世の中のことや将来が観えるという意味だったようです)。スピリチュアルに現を抜かしていてはいけない。そんな場合じゃない。しっかり生きるんだ」と【船井幸雄氏お墨付きの〇〇】という牽引の仕方をした方が、真逆な事を「私にはわかる」とおっしゃったという伝聞があった。
私は船井幸雄氏よりも若い年齢でそれを知ったと思えば、同じような事を感じるようになる「ルート」というのは、色々あるんだな~と思うわけです。
あなたも「人間道」という泥臭いルートを選んでみませんか?(笑)
ルドルフ・シュタイナー氏は
私達の時代にはなぜ感覚を麻痺させる手段があふれているのでしょうか?
という 「なぜ?」を問いかけています。
おそらく、船井幸雄氏も一時期はそういった麻痺させる類を神秘と感じ、研究し、牽引する事に魅了されたのでしょう。
しかし、その後、「違ってたな」とお感じになる時間が訪れたということなのでしょうか。
また、先ほど書いた
ぼやかして生きていくことを好むことが悪いとは思わない。そういったこともそれによって起こる様々な事も結果は自分持ちだし、良いことも悪いことも起こるだろうし。
という私の文章に対しては、シュタイナー氏は
もしも人間が運命の痛みをあらゆる手段で避けようとするなら、その痛みはまったく別の道、闇の道を通ってやってきます。
ということで、それが感覚麻痺へと追い込まれるという事でした。
これがおそらく、トラップや餌という現れ方をするのかもしれない。
私はお恥ずかしい体験談に事欠きませんが、大事故にならなかっただけで、トラップや餌に見事にはまったことだってありますよ。
必ず考えました。「なぜこうなったんだろう?」と。
そして、ストレスケアを知った後は、せっせと行いましたね。ストレスケアを知る前は、「愚かな私」「欲に目がくらんだ私」という姿を目をしっかり開いて見ておりました。
気が滅入ってきましたか?
心理の話とか読むと、気が滅入ってくる時がありますか?
それは、出来ていない自分を罰しながら読んでいる可能性があるからですか?
私はあなたが誰かもわからないのに、罰するような高等テクニックはありません。
基本、「じゃあどうしたら良いんだろう?」という視点を持っていたい。
ストレスケアをして下さい。
気が滅入ってきたその感覚から早速ケアしてください。
今からでも変えていけるものは多いです。
まだまだ先は長い
毎回コラムを書くたびに余り長文なのもどうかと思うので、今日はここで区切りをつけます。
まだ入り口ですわ。(遠い目)
(2020/12/14)
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