あなたが、生気や正のエネルギーの影響を周りに与えてはどうだろうか?

小乗仏教???

 

釈迦先生 ご登壇か?

先日、このコラムを書きました。

邪気や負のエネルギーを受けてしまう事にフォーカスせずとも

 

いろんな体験や風景を見ながら、長年思っていたことでもあるのですが、他人様や環境の影響を受ける側が悪い訳じゃない。ナニカの優劣と言うことでもないと考えていますが、自分に適した対応方法は知っていた方が楽だろうとは思っています。

もし、こういった「体質」というようなものを変えていくには長い時間がかかる場合があるし、これこそ精神論ではなくて、ある種の肉体改造のような訓練というか、練習が必要だろうと思う。

ですから、バランス調整を行うということに、+α(プラス アルファ)が必要になってくることがあるのだろうと考えています。

 

認知行動療法で言えば、「認知」と「行動」という2つで1セットになっているという意味です。

 

認知の修正。または、認知の変更。価値観のアップデート。ということや、慣れないことに不安や恐怖があるということなら、不安な恐怖が消失するほど熟練するというようなことでしょう。

 

しかし、これを言葉では理解できても、実践に落とし込めるかはまた別の話なんでしょうね。

多くの場合、言葉が理解出来たら、「もう実践できている気持ち(つもり)」になるという癖が私たちにはあるような気がします。

  • カウンセラーがストレスケアできているとは限らないし、
  • 心理学を勉強したからと言って自分の人生に反映できるとも限らない。
  • セッションをする側だからと言って、自分のストレスの原因が理解できているとも限らない。
  • ヒーラーやセラピストが癒されているとは限らない
  • 施術者が体調良好とも限らない

というようなことがわかりやすい説明になるでしょうか?

(全然説明になっていない??? ですか?)

 

他人様のことはよく見ているつもりになれても、自分のことは見えないもんだ。なんて言葉もありますね。

 

簡単に書くと、「知る」ことは入り口であって、その先もあるよ。その先の方が結構長かったりするね。という事なんですが。

 

おっと、また横道にそれましたが、本題に戻ります。

 

私は冒頭でシェアしたコラムを書いた後に、似たようなことが書かれていた文章に出会いました。この順序の良い出会い(文章との出会い)のおかげで、私個人の理解が一層深まるような気がして有り難いです。

 

今回、有り難くも向こう側から登場したのは、「小乗仏教と大乗仏教ということの違い」でした。

良い悪いではなくて、それは「変化」だったのだろう

タイ、ビルマ、インドは、小乗仏教の国で、もともと釈迦は小乗仏教的な考えをしたと思われますが、釈迦が死んで500~600年経つと、大乗仏教といううねりが起き、それが中国に伝わり、のちに日本に伝わって、日本は大乗仏教国になりました。

という文章がFacebookのウォールに登場しました。これは「人の心に灯をともす」というFacebookファンページさんの投稿で、ここではその一部を抜粋してご紹介させて頂きました。

 

以前の私のコラムに

豊かさを感じる。豊かさを感じられる。 こんな感性は自分で育てられる特殊能力の1つかもね。

 

常々、世間でよく言われている仏教とか、「教え」の内容って、最初は違っていたんじゃないか? 元々はもっともっとシンプルなもので、それを水戸黄門の印籠のような「これを理解しているんだぜ、スゲーだろう」とか、「守らんとイカン!とどんどん複雑になっていく細かいルール」みたいなものは伝承されてきたときに全然違う人が加えたんじゃないか?と個人的に思っていたんですよね。宗教じゃないよ教えだよと言いつつ宗教的に伝えているとか、最初は純粋に関わっていたとしても「救うんだ」「導くんだ」という思想になってくるということも、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」的にはどうなん? とか。

 

と書いたのと、同じような事が書かれていた。

 

 

どうやらこちらに書いた

理想とのギャップに悲しむ という勘違い

 

どなたかを救おうとか、導こうという気持ちが私には無いのは、そんな事が他人の私にできるのか?という素朴な疑問があるからです。

という考え方は、「人の心に灯をともす」というFacebookファンページさんの投稿的には、小乗仏教的であり、釈迦先生と似た考え方と言えるのかもしれません。

 

また、こちらに書いた

邪気や負のエネルギーを受けてしまう事にフォーカスせずとも

あなたが、生気や正のエネルギーの影響を周りに与えてはどうだろうか?

という考え方は、「人の心に灯をともす」というFacebookファンページさんの抜粋していない文章部分と同じであり、それを小乗仏教的な釈迦風だという解説がされていました。

 

自分を整えよう。が、→ 救おう。になったという変化が本当にあったのならば、それは先ほど過去のコラムの引用した箇所の【伝承されていく際の「変化」だろう】と思うんですね。

 

こういった事を書いてきた経緯があったものですから、こちらのFacebookの投稿を拝見した時は(おぉ!?)と注目してしまいました。これを自説の裏付けなどとは思いません。結局のところ今となっては正解はわかりませんので(ほら!やっぱり!)などとは思わないのですが、確率論としては「どんどん変化して、元の形を留めていない」ということは高いのではないだろうか。

 

これらの変化がもたらしたものを考えてみた

これらの変化というのは、「人の心に灯をともす」というFacebookファンページさんの投稿に書かれている小乗仏教から大乗仏教への変化をさします。

言い換えると、自分を整えていたら周りにも良い影響があるんじゃないか? という考え方と、他人様や社会を「救うんだ」という考え方についてです。

 

他人様や社会を救えないと生きている価値がない。という価値観

働かざるもの食うべからず。的に、他人様や社会を救えないものは存在するに値しない。と刷り込まれてしまうケースもあるだろう。

  • 役に立っていないといけない。
  • 役に立っていないと価値がない。

等という事になるだろう。

 

こうなると、「生きているだけで価値がある」という事からは遠ざかる。

 

役に立つために

すると、役に立つために策を練ることもあるでしょう。

その1つが「相手をコントロールする」「相手にコントロールされる」「依存する・される」という形で現れる場合もありそうだ。相手を「(自分の考える)良かれ」に基づいてコントロール、支配する(または、コントロールされる、支配される、依存する・される)と自分の価値が保証されるような気がする。しかし、いくらそれをしても、自分のしっかりとした自信には繋がらないようですが。

 

他人様や社会を救っているので正義であると盲信する事の危険性

また、他人様や社会を救っている私は価値がある。選ばれた人間である。と盲信するケースも出てくる。

それは最初は純粋な気持ちでスタートしても、徐々に変化し、ついにはカルト教団と言われるようになる場合があるのと似ている。

「救っている」「私たちは正しい」という考え方です。

 

「救う」「救っている」ということを過信すると、たちまち魔境に吸い込まれていく時の、あの王道ルートはこう言う事にも関わっているんだなぁと書いていて再確認した。

多次元と素粒子とミラーニューロン その他もろもろ みな一緒

名より実を取る。損して得取れ。

 

 

 

自分が救われたい。という本音を把握していない

救いを求める時。救われたいと切に願う時。

自分が救われたいから、家族や他人を巻き込む人もいる。

と書いたことがあるが、巻き込みたいというより

自分が救われたいという気持ちを、目の前の他人様に投影している

というケースもあるだろう。

 

それがある種のヒーロー(強いヒロイン)願望として表出するケースもあるんだろうと考えています。

 

ある意味、「救う」ということの陰陽(正負)両面を認知してみることも大切だろうと思えますね。その願望と自分との関係性を考えてみるということも大切です。自分の願望と言うことに気がつかず、当然であり、正義だと認知していたりすることもあるでしょう。

 

厄介にならないための「転ばぬ先の杖」なのか?

良いとか悪いことではなくて、厄介にならないための「転ばぬ先の杖」なのか?

 

え?なんの話?

 

それは「犀の角のようにただ独り歩め。」 の意味するところです。

 

この「犀の角のようにただ独り歩め」について、 本当の本当の意味は分からないし、ブッダの思想も、釈迦の思想も、本当の本当の意味はわからない。

伝聞があるのみです。

 

ただ、個人的には、今見聞きすることは随分装飾がついたり、変化した結果であろうと感じています。

救おうとしなくても、救われる場合がある。だから、救おうとしない。自分を整えていたら良い。犀の角のようにただ独り歩めばよい。

ということも、一面にはあるんだろうと思えています。

ただの机上の問答みたいな言葉でしか書けなくて申し訳ないのですが。

 

だから、私個人的には、ライトワーカー(という言葉があるようですが)などという名称などそもそも要らないと考えていますし、ライトワーカーという言葉が生まれた時点で「正しいことをしている」というバイアスやら思い込みが発生している可能性もありますね。

 

そして、はるか昔に ポッ と生まれたシンプルな思考に、随分装飾がついたり、変化した結果により、今現在の私たちは価値観を形成し、バイアスを身につけている。

それは現在の1つのデフォルトであり、良いとか悪いとかじゃない。が、だからと言って鵜呑みにしなくちゃいけない訳じゃない。

 

変わったのだろうか? 

 

もうすでに救われていた。という認知の仕方もある。

 ↓

 
 
 
ここまで書いてきて、ふと思ったのは、今自分の環境を否定的にしか捉えられないのだとしたら(もちろん、そんな気持ちになることもお察ししたい時がある)、物事の両面を考えて、今の環境で得ている利点を考えても良いとは思う。

それが「己を知る」という事だって利点だと書き加えておきたいが。

 

正しくない!とジャッジするのは簡単だが、正しく無いとジャッジしている自分や、そう考える背景や価値観なども併せて考えを巡らせても良いんじゃないかと思う。

 

ついで。というのもなんだけど

陰謀論が好きな方は好きだが、私がアレコレ書いてきたよりも余程分かりやすい言葉を聞いた。ウチの家族に。

それは

陰謀論と、ビジネス活動をごちゃ混ぜにしている。ひっくるめたまま否定している

であった。

 

余りに端的な表現に感動したが、一方わたしは己の頭脳が悲しくなりそうだった。(笑)

私からすんなりこんな説明文は出てこない。

 

以前、コラムの参考としてご紹介した時以来拝見していないが、ある動画の中で岡田斗司夫氏がなにかの陰謀論について「存在しない」とおっしゃっていた。勝手な推測だが、それは、「陰謀論ではなくて、多くの場合はビジネス活動だから陰謀でもなんでもなくて、一般的に取り立てて知らされないある業界のビジネス活動」というようなケースについて述べられていたのかもしれない。

 

陰謀を暴くのが正義。という考え方は私もわかるつもりだけど、例えば大きな財閥・商社の世界規模な活動など私たちが知ることは余りない(世界規模じゃなくたって、中小企業、個人事業主だって知らない訳ですが)。

世界規模の商業活動として、割と(はぁ???!!!)というような計画とか進んでいたりするようですしね。

自分が知らないだけで、それを「陰謀」とひっくるめてしまっているケースがあるのかもしれないなぁ とちょっと余裕を持って考えてみても損はないんじゃないかと思いますし、私たちは実は知らないことの方が余程多いんだろうと思いますので、それで言うなら「知らない。一部の人が得をしている=陰謀」というカテゴリーを設定したならば、このカテゴリーに入る事象の方が世の中のほとんどを占めているとも言えますね。

 

知らせなきゃ。救わなきゃ。

そして、これも良いも悪いもなく「救わなきゃ」という良かれという気持ちで拡散される方がいらっしゃる。

良かれとお考えの時点で、生気や正のエネルギーの影響を周りに与えていると信じておられる方も多いだろう。大乗仏教的思考と言えるのかもしれない。

現在のところ、私自身はそれらの真偽は分かりませんし、それらのニュースを見て気分が凹むこともありませんが、生気や正のエネルギーの影響を受けることもありません。

しかし、ある日、これら拡散された陰謀論を見ていたことで我が身が救われるような事があれば、それも事例としてご報告したいと思います。

 

まとめ

自分を整えておくということは、ある意味小乗仏教的思考なのかもしれません。

別に、小乗仏教という名称を知らなくても、その内容を知らなくても、同じような考え方になったのですが、これが私のやり方なのだろうと自覚しています。

 

人生から学び、人生を生きながら考える。現実に落とし込む。

 

これは私が「人間道」と書いていることなのですが、(あぁなんとなく出来上がってきていているのかも)と感じています。終わりはないでしょうが、今のところはまずまずだと思っても良いかな~って。

 

  • 私はIQが高い訳じゃない。
  • 学歴が素晴らしい訳でもない。
  • 名声があるわけでもない。
  • 権威などない。
  • 競争社会の勝ち組でもない。というか、他人との競争がモチベーションにならない。

 

 

それでも日々朗らかに過ごせている。過ごしている。

有り難いです。

 

 

オードリー・タン氏も書籍の中で似たような事を書かれていました。その文章を読んだ時に、(わかるな~)と思えたことが嬉しかったですね。それはオードリー・タン氏が有名だからじゃなくて、同じ人間として、似たような事を感じたのかな?ということが嬉しかったですね。

自分の人生が歩きづらいことに理由があるとしたら

 

そして、これはFacebookの投稿に書いたことなのですが、

私がオードリー・タン氏の書籍を読んで分かったことは、大人になって自立したかったのは、「自由」を欲していたんだという事でした。

 

前回のコラムに書いたような「幼さ」が全然羨ましくなかった理由は、私が成熟と自由がワンセットだと考えていたのだろうということを再認識しました。私は「幼さ」よりも「自由」を選びたかったんだろうな。

その航路に舵をきっていて良かったです。

 

(2021/03/18)

 

 

コラム一覧へ戻る

 

 

 

投稿日順にコラムを読みたい方はこちらからどうぞ。
いつもコラムをご利用いただきまして、ありがとうございます。

https://takedamiki.wpx.jp/top/news/