自分の人生が歩きづらいことに理由があるとしたら

若さというより、幼さを手放さない。その理由。

成熟を阻む環境?

私はよく「大人脳」という言葉を使いますが、「人間として成熟していくことを好むか好まないか?」という意味でもこの表現を使用しています。

 

「自由への手紙」 オードリー・タン(語り)

 

このような、成長、進化、成熟ということについては、こちらの書籍にも、とても分かりやすく書かれていました。

 

その1つは、オードリー・タン氏が台湾の子どもとドイツの子どもの違いからその理由を考えたというくだりにありました。

 

理由を調べてみると、それは「ピグマリオン効果」と呼ばれるものでした。大人が子どもに対して、大人のように振る舞うことを期待していると、子どもは期待に添うべく育ちます。

反対に、大人が子どもを赤ちゃん扱いすると、相手もその期待を満たす行動をとるようになります。

 

日本の社会は、子どもが大人のように振る舞うことを促進しているようにはとても見えない。

ひょっとしたら、女性が成熟した大人の女性になることも好んでいないようにも見える。

それは今日の日本の(広い範囲での価値観を形成してきた歴代の)大人の責任でもあるでしょうが、そんな社会に育っても、大人になることや、成熟することを好む個体(子ども達)はいる。

価値観を変えていく個体はいる。

 

そりゃあ、私が感じているような社会が割と的を得ているのなら、そこに適応していこうと思えば、可愛がられるためにも、大人にならないですよ。

多くの良い子思想の元とも言える。

 

私の場合は、本当の子どもはともかく、ある程度の年齢の知人や友人が(成熟とは反対の意味で)子どもっぽいことを余り好まないとも言えますが、こんな私に「可愛がって欲しい」「甘えたい」と思う方は多かったのかもしれない。

その欲求を持っていた方々には残念かもしれませんが、私はその期待に添ったような行動をいつまでもしないし、「甘えたい」「(良い子にしていて)可愛がられたい」方は望むように私が子ども扱いしないからどのみち離れて行きます。子どもで居たいというそれ(欲求)を私は「それを好み、実践するのは自由だ」とは思えても、取り立てて「可愛い」と思わないからです。多分それは、相手を下にも見ていないし、上にも見ていないからかもしれません。

 

私にその欲求を満たして欲しい。が、思う通りに動いてくれないと思えば先ほども書いたように自然に離れていくことになるのですが、

  • その方が良い。お互いのために。と考えていますし
  • 好みが違うだけだな。と思っています。

別にケンカもしないし、必要があればコミュニケーションも楽しみます。

 

以前も書いていますが、「寄らば大樹の陰」じゃないよ。という意味なだけです。私も勿論サポートを受ける時もあります。お互い様であって、双方向が付き合いやすい。子ども時代とは異なり、知人、友人とベタベタすることもない。

豊かさを感じる。豊かさを感じられる。 こんな感性は自分で育てられる特殊能力の1つかもね。

 

結局その方が付き合いが長続きします。

 

 

それが、彼女、彼と良好な人間関係の距離感だと思います。

日本社会ではひょっとしたら私はマイノリティかもしれませんが、海外に行けばマジョリティなんですかね? どうですかねぇ? 実際問題どうなのかは不明ですが、私が見える範囲の海外国籍の親御さんたちは、早くから自立という方向で教育されているような方向性の方が多いですけど。

 

ですから、海外旅行に行っても余り困りません。(まぁ旅行は短期だし。その程度なら日本人が一人もいないとか、入れそうなうグループがなくても別に大丈夫です。)

 

成熟を阻む思考?

先述した通りの幼さ尊重のピグマリオン効果がもし本当にあるとしたら、その影響として、かなりの高齢になっても、逆に、若いうちから

  • 若さが羨ましい
  • 若さに嫉妬する

ということがあるようですが、それは、その方がそれまでの人生で刷り込まれたものを見直すことが無い場合に「幼くないと可愛がられない」「可愛がられるために幼くいる」「若く無いと愛情を受けられない」「未熟でいる方が得だ」「成熟したら可愛がる側に回らないといけない」等ということが恐怖だという事もあるし、不満だという事もあるでしょう。

 

自分が思う存分貰わなかった・貰えなかった(と信じている)愛情を、「若い」「幼い」というだけで(自分以外が)享受しているように見えるでしょうし。

しかし、若さに嫉妬しているということを丸出しにするのも格好悪いので、やはり自分の気持ちを誤魔化したりもするでしょうし、もし本心をすり替えていたとしても正当化する理由を探すでしょうが、内心では(ズルい。私もその愛情・関心が欲しいのに)というようなことで刺激されます。

 

結局のところそういった若さだけの比較が苦しみを生んでいるのなら、自分のためにその嫉妬を手放した方が楽になりますね。ですから、「成熟する」「大人になる」ということは建設的な脱出方法かと思いますが、書くのは簡単、行うは難しなのかも知れません。

 

成熟して「自由」になるのも無意識的に怖いのかも知れないですね。

 

「自由になったらどうしたら良いの?」「自由という状態の正解がわからない」などと、どうしても他人様の灯台を求めてしまう習慣が顔を出してしまうのかも知れません。

 

新しい価値観を先ずは自分から取り入れる

良い子思想のまま大人になり、人生を過ごしていくのは中々大変な時期が訪れることもあるでしょう。

それは、他人様の灯台で一生を生きていくという意味を含んでいることもあるでしょうね。自分以外の全てが他人様だとしたら、あまりに沢山の人が存在しているし、それらに沿って行こうとすると、灯台が乱立している状態になるのかも知れません。目的地はなく、航路を決められないが、灯台だけは乱立しているというのも中々シュールです。

 

良いとか悪いとかじゃなくて。

人智学という考え方ー8 自分の灯台と他人の灯台

 

 

 

また今日はこの辺りで、孔子先輩に登場いただきましょうか。

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」

 

不思議な事に、良い子思想や、他人様の灯台で人生を長く過ごしますと、「四十にして惑う。」ということが全然珍しくない。

というか、五十でも六十でも、七十でも惑います。

自分の灯台を持つ、「立つ」ということがあって初めて次の段階で「惑わず」という領域へ入ることから考えると、60歳でも80歳でも、「立つ」っていなければ、惑うんでしょうね。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

そういった、成熟への自己意識がスポンと抜け落ちてしまうということの理由を考えてみると、「目の前のこと」に反応し続けてしまう事から来ているとも言えるでしょうし、人生と言う長さの時間感覚の課題なのかも知れないが、それは1つの子供脳(未成熟の意)の特徴とも言えますし、そこには、「自分の人生」という柱は無く、「他者との比較のみが永遠に続く人生」というような意味にもなってくるかもしれません。

 

言い換えれば、「目の前のこと」しか見ない。という事も言えて、その背景を考えたり、慮ることが得意ではなく、大きな視点とそれらの自分の人生へ落とし込みが難しく、創造性、想像力ということが、ある意味未成熟な一面があるとも言えるのではないでしょうか?

 

学習スタイルにも反映か?

本を優先し、知識量を誇るということは得意だけれど、自分の目の前の事象との関連性、自己の客観視に意識を向けることがなかなか難しい。

 

こんなことも、「ほめてもらう為に」「他人より劣ることを恐れるあまり」「一目置いてほしいがゆえに」という事であれば、学生時代の「知識の競争意識」の脳に近いような気がするし、おそらくそれは決して「成熟脳」と言うわけでは無いだろう。

 

遠くの、実際に会った事もない方の立派な知識・情報をありがたがるが、目の前の人を軽視するということは、結局のところ「目の前のことを否定している」という可能性はないだろうか? 目の前の表面的なことに優劣をつけたり、ジャッジすることだけに重きをおいていたり。 

 

そこには、自分に「利」がないと軽視し、そこに価値を認めていないのかも知れない。

 

しかし、時々、その軽視している小さな社会(景色の中)に、あなたが成熟していけるジャンピングチャンスが在ったりする。

 

自分の周りには幼児性の高さ・未成熟を配置したい

あくまで仮定の話だが、遠くの人には「成熟」を望み、身近な人には「幼児性」を望むという事は、あなたが優位に立てるからそれを望んでいるのか?

  • 身近な人が成熟したら「本当の自分」を見透かされそうで劣等感が刺激されるのか?
  • 追い越される気持ちになるのが嫌なのか?
  • その理由は、あなたが本当の自分を「大したことが無い」と思っているから?

 

それは結局、あなた自身も、他者のことも、「大したことが無い」と思っていることの写し鏡になってはいないだろうか?

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

自分は未熟で居て、周りには成熟を配置したい

  • 周りの人が私(俺)の世話を焼くのは当たり前。
  • 私は未熟だし、相手は成熟しているのだから、世話を焼かれる正当な理由がある。
  • 私は未熟なまま(幼いまま)でOK。しかし、あなた(相手)は私の世話を焼くために(私が機嫌よく過ごせるために)成熟しなければならない。

というようなことも、ハッキリ言う人もあまり多くはないですが、実はそう思っている方は多いのかもしれない。

 

年齢は関係ない。

成熟度と年齢は、当たり前には比例しないからです。

価値観を更新する。アップデートする。

オードリー・タン氏も言っていた。(こういった内容についておっしゃっていたわけではありませんが)

現実は常にアップデートされる

と。

 

あなたもアップデートをしてはどうだろう?

私は自分の人生のためになるのなら是非し続けたいと思っています。

私の場合は、それは知識を詰め込んだり、情報をかき集めるということを指しているわけではありませんし、また、目の前のことや身近なことを見ていると、おのずとアップデートしたい方向が見えてくるような気持になったり、興味が持てるような時がある。

 

それが、私もずっと取り組んできていて、オードリー・タン氏もおっしゃっている

人生を通して学ぶ

ということだろうと今は理解しています。

 

そのために大切な事

心体のバランス

そして、テクノロジーの利便性ということに精通しているオードリー・タン氏も、最新のテクノロジー(道具)を使う際にも

肝心なのは、自信の心身バランスが維持できるかどうか。

私たちにとって、心のバランスを保つことは重要な課題です。

とお考えのようです。

私はこの分野に関しては、ずーーーーっとこれを言い続けています。

 

心体カウンセリング・セラピー・ケアの施術をうけても頭がスッキリ、軽くなります

バイアスを知覚する

また、メディアコンピテンスが必要というくだりでは、

すべてのデータには、バイアスが掛かっており、「データの消費者」になってしまったら、本質がわからなくなります。

と書かれていましたが、もうメディアコンピテンスだけじゃなくて、かなりかなり広範囲の様々な出来事に同じことが言えますよね。

 

知覚したものに「酔っぱらいやすい」ということは、バイアスという存在自体が「スコトーマ」であるという事で、そうなるともう疑えなくなってしまう。

本質が見えないという事は、このような現象も引き起こします。

「正しさ」について

誰かが決めた「正しさ」に合わせていたのは過去の話です。

 

というセリフにも肯ける点が多く、勉強の仕方としても「学生時代の学び方」と「成熟した脳の学び方」ということは違うんだろうと思うんですよ。

もちろん勉強するということは、そのまま覚えることも大切で、それを無くしては成り立たないことも多いですが、「人生を通して学ぶ」ということが、多くの学問で後半に活きてくるような気がします。

 

定義にこだわり過ぎる

私も身に覚えがあるのですが、定義にこだわる時があります。

しかし、こちらで以前もご紹介した

脳内の幸せホルモン 出てます?

 

買い手の責任

人の手に渡ったものがどのように使用されるか、それは売り手が関与することではあらないのだ。
ー小説「騎士団長殺し」より引用

 

という文章も、ある意味定義のこだわりに対する金言だと感じていますが、オードリー・タン氏も端的に表現されています。

「家族」に限らず、あらゆる語に明確な定義というものは存在しない。

 

と語られたようです。

「その言葉は私のつかっている意味とは違う」というこだわりを感じた時点で、そんなのは意味が違って当たり前だという事ですね。

逆に言えば、自分が正しいという主張をしたいという気持ちを、そういう言葉ですり替えている可能性もあるだろうし、多様性ということの認知が浅いとも言えるケースがあるのかもしれないし、他者の思考を「想像する」ことよりも、「自分の正義」を重視しているという可能性も考えられるのではないだろうか?

 

私もこういう方面でこだわり脳が動く時があります。前より減りましたが、やはり今でも反応します。

 

ちなみに、オードリー・タン氏のこの言葉はヴィトゲンシュタインという言語哲学の概念として解説されていました。

 

思いやりの気持ち、慈しむ気持ちが生まれる条件?

自分がいる環境に守られていること。

安全だと感じる場所をもつこと。

これらが、思いやりを生むようです。

 

自分が安全だと思えていないと、ヒトは他者を受け入れようとしなくなる。

ということを読むと、こちらの「蜘蛛の糸」を思い出すとわかりやすいです。

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

 

時と場合によっては、競争意識というものは、安全だと思えていない証とも言い換えられるのかもしれないですね。

 

ヒエラルキー形成も、マウンティングも、「安全だと思えていない」方が行うのかもしれませんが、おそらく「私は安全だと思えていない」「だから不安だ」「不安を解消するために上下(勝ち負け・優劣)をハッキリ決めたい」という自覚はないんじゃないだろうか?

そして、ただ、なんとなく感情の赴くままに行動している。

 

競争が悪いわけではないが、不安から発生する勝ち負け競争と成熟脳とは異なる反応ではないでしょうか?

ElisaRivaによるPixabayからの画像

これらを踏まえて、人生を生き易くするためのポイントは?

今日のコラムを一旦まとめてみると、自分の人生が歩きづらいことに理由があるとしたら、自分で自分の安全安心の場を形成する方法を知らないだけかも知れません。

 

学歴も年収も、名声も、年齢もこういった事は関係ないようです。

競争に勝つのが上手だからと言って、自分の安全安心の場を形成していることとは別の問題でしょう。

 

「人生から学ぶ」ということと、それを実践に活かすということが、あなたの安全安心の場を形成するという意味でもあるのかもしれません。

 

 

終わりはない

おそらく成熟脳というのは、完成形など無いんだろうと思うんですよ。

それこそ、「行けるところまで」「生命のあるうちの最終地点があなたのMAXの成熟脳」となるのでしょうか?

このようにしか生きられない。

 

生きている間に終わりなどない。

成熟するということをやめなければ、終わりもない。

 

などなど、この本には他にも多くの勉強になる言葉が詰まっていました。

あなたの将来についてヒントがあるかもしれません。

 

「自由への手紙」 オードリー・タン(語り)

 

是非読んでみてください。

 

(2021/03/15)

 

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