「変わる」について

変わるとは?

過去に何度も似たような記事を書いていますが、また書きます。

「変わる」も人それぞれ

悩んだり、苦しんだり、困ると、(あぁ この状況が変わって欲しい!)と切に願うことがあると思います。私には有りました。

幾ら願っても状況や環境が変わらないと、(どうして?)とその原因や理由を知りたくなりませんか?私はなりました。

そして本(今はネットでしょうが)の中に答えがあるのではないか? ヒントがあるのではないか?と情報を集めます。学べるものは学びたいと思います。不満だと思う環境や状況を打破する方法は無いかと私も本を沢山読んで、その時の私なりに色々と考えました。

そうすると、

全ては自分次第

という、非常に的を得ているように感じるけれども、しかし、そう言われるとヒトによっては逃げ場か無くてかえってキツく感じるような文言が登場する。

 

自分次第?!

  1. なーーーーんだ自分次第か! それなら簡単じゃん。と思う方も居るだろうし
  2. ??? どういうこと? と混乱する方も居るだろうし
  3. 私が悪いってこと??!!! 私に責任があるってこと??? と理不尽に感じる方もいるだろうし
  4. まだ努力が足りないんだ(泣)という方もいるようだ

 

反応は様々なようですし

A.(情報によると)変わった方か良いようなので、「変わりたい」と思っているのか

B.なにがなんでも「変わりたい」のか

C.自分の想定している範囲内で「変わりたい」のか

D.自分の今までの常識や知識が全てひっくり返っても、「変わる」ことを優先したいのか

などなど、「変わる」という事に対する熱量も違いますよね。姿勢とも言いますか。

 

私個人の例で言えば、A.がその当時の唯一の選択肢だったのでそれを選択し、それがどうやらB.のつもりだったけれども、実際のところはC.の状態であって、人生の様々な出来事によって、結果「自分の今までの常識や知識が全てひっくり返った」という感じだったように思いますのでD.を(逃げ場を失ったためそうするしかなかった)選択したんじゃないかと今は感じています。

ただ「今より楽になりたい」「苦しみから何とかして抜け出たい」みたいに感じていたのに、自分に手加減したり、逃げ道を選んだりしていました。こういった意味の手加減も逃げ道も、楽になったり、苦しみを軽減するには(時には?)逆効果になることもあるようですが、やはり自分の思考の枠や価値観に囚われているうちはそこには気がつけないし、ということはD.にはなりにくいみたい。

自分への手加減や逃げ道を禁止する事が良いのかどうかもそう簡単に答えられないし、4.の努力(自考自作の修行の可能性も高い時がある)が遠回りを促進しているときもありますよ。

そんなことも、以前のコラムに上のような図を利用して文章にしています。

違いを考察してみた。影響を受けやすいヒトと受けにくいヒトの違いはなんだろう?

 

 

シンプルな循環を阻害(?)するもの?

なんでしょうね、スピリチュアルとかの知識を頭に入れていなかったのが良かったような気がします。

なんでも「意味」を見つけたり、紐づけたりして、問題をずらしたり、ある時は逃げちゃうような癖がついていなかったのは良かったかも知れません。そういうワンクッションを置かず、非常にシンプルというか、単純に自分のストレス源や反応点を見つめていたのは良かったと思う。

 

いや、別にスピリチュアルがお好きな方は、その世界というか、考えかたというかがしっくりくるんだと思うし、おそらく、それらがしっくり来た後は、私のようなある意味の現実主義の感性のようなものは好まないかもしれない。それらしい(スピリチュアル風な)原因や意味のようなものが無いと、それこそ「逃げ場がない」ように感じる事もあると思う。

フワッとさせておきたい場合は、こういった「目の前の事象をそのまま見る」というようなことは、「優しさが無い」と思うだろうし、「キツイ」という事にもなるんでしょうね。その辺りは私もお察しできると思う。私も目の前の事象が「残酷だなぁ」「不条理だなぁ」と感じることが多かったから。

好きなように生きる。それしかできない。

イントロダクションからいきなり結論まで飛んでしまうようで申し訳ないのですが、

前述したように「変わる」ということも、

  • 自分の想定内の範囲でならOKなのか
  • 想定外まで変わってもOKなのか
  • 変わるくらいなら、今を継続したいのか

意識的でも、無意識的でも自分が決めているんだと思うので、全てをひっくるめて、自分が好きなように生きているんだなぁ。と思います。

 

それを尊重することしか私にできる事は無いと思うし、それが私のベストだと考えています。

ですから、私が心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアでサポートしているのは、ご本人が決めている変化の範囲内だろう。

私もそれで良いと思っているし、無理に変えたいとも思わない。(いや、無理に変えたいとか、変われば良いのに、と以前は考えることもあったが、今はそれに囚われなくなって「ご本人の人生スタイル」を尊重するようになりました。と度々書いています。)

 

目の前の事象に、夢も希望も救いも何もないと感じて感情が動くのは、そこに夢、希望、救いが欲しいという欲求が満たされないことに対する反応であって、「ただ観る」「在るがままを観る。認知する。」ということであれば感情は動かないのかもしれませんが、今の私は、感情が動くという事は今のところ人間に備わっている機能なのでそれがポジティブだから良いとか、ネガティブだから悪いというジャッジも後付けかなぁと思ったりするし、生きているからこそ感情が動いて、生きている感じを味わえるのだなぁと思うようになった。

昔は自分の感情が動くエネルギーというか反応がとても煩わしかったですし、これが無くなれば楽になるかと思って自考自作の精神修行(だと勘違いしていたこと)も大切にしていましたが、今は「生きているうちしか感情を感じる事は出来ないんじゃない?」と思っているので、怒りん坊人生を送っておられる方も、涙多き自己憐憫人生を送っておられる方も、修行的意味を遂行したい自己犠牲人生を送っておられる方も尊重したいと思っています。そこにはそのご本人なりの意味があるのだと思いますし、それを止めたくない意志も価値観も世の中には多種多様です。尊重はしていますが、個人的には怒りん坊人生を選択しておられる方に対して、私がそれを救いたいというような心持になるなどによって故意に親密にはなることは無いと思いますし(以前は違っていました)、個々の人生が多種多様だと割とサッパリ考えるようになりました。

 

ここでまた映画の話を投入

真実を知りたい系の皆様に高評価?なような映画「マトリックス」。

私も時々この映画を話題にしていますが、そんなに熱狂したり、深く共感することは私には無かった。おそらく私が興味のあることの真ん中に抵触しないという簡単な理由だと思います。

 

ですが、また最近、映画「マトリックス」をながら見していて、今書いているこのコラムとの共通点に気がつきました。

それは、映画「マトリックス」(第一作)に出てくる、裏切り者・裏切り行為をしたという役割の男性についてです。この男性は「真実を知りたい」という志のようなものがあって、映画の中で言われている「目覚め」た状態を選択したのですが、その目覚めた状態の現実にうんざりして、「真実など気がつかない夢の状態に戻して欲しい」と人間に夢を見させている(表現は間違っているかも知れません。ニュアンスだけ汲み取ってください)側に頼みます。真実を知った、気づいたという記憶も消して欲しいと頼みます。夢を見させている側というか、システムというか。

 

真実や真理を求める心理として、「叡智」とか「結果が幸せ」とかその他もろもろの「良いもの」「善いもの」「卓越した心境」「卓越した存在として認められる」がそこにあるという思い込みや期待が大きいと思うんですよね。だから求めるんだと思うんですよ。

だって、長年求めていたものに「救いがなかった」「意味はなかった」なんていうのは余りに残酷だし耐えられない。それに、それが結果的に自分に「快」をもたらすのではないか?という期待や見返りが一種の原動力になっていることもあると思えます。

 

ということは、結果が期待通りじゃなかったら「認めない」「認めにくい」などという状態にもなるのが普通だろうと思ったりもします。

 

「在るがまま」と言葉で言うのは簡単ですが、多分、在るがままじゃイヤなんですよね。真理や真実を探求されている多くの方も、真理や真実が「在るがまま」では受け入れがたいと感じる事は無意識に「こんなのは嘘だ」「これこそがまやかしだ」と排除しているような面もあるのかもしれません。

ケースによっては、真実や真理が知りたいと思い込んでいるだけで、「救われたい」と願っているんじゃないか?と感じます。(以前もブログかコラムに書いていると思いますが)

もしこの考えが大きく外れていないのならば、その方面のことを知りたいという欲求に名前を借りて、その根底は自分の外側に救いを求めているんだろうと思うんですが、私個人的には「救い」って自分の中で生まれて、そして自分の心や精神に作用するような気がしています。

 

自分が救われると感じる材料を外側に求めるのではなくて、ささやかな事象でも(自分が)救われると感じる内側の感性に関心を持つこともお薦めしたいし、そういった感性を育むようなことができたら良いなぁと思っています。

しかし、これらも書くのは簡単、理解するというか、体感する時期の来訪は人それぞれなのでしょうか。

あなたが求めている人生とは?

 

共通項

それは今日書いてきた「変化」についての許容量とも似ていると思っています。

やはり、自分の想定内で居られることに「安心」を感じるという人間の本能のようなものでしょうか? 幸不幸とは関係なく、継続を好むというホメオスタシス。

ですから、「変化」についてご本人以外の他人が強要してもお互いにキツくなる時があるだろうし、お互いがそれに囚われることが幸せには繋がらないことも多いでしょうが、しかし、それに囚われてしまうのが人間の性というか。

これらも含めて、いろんなことに「気がつく」ということも、「変化」ということもご本人のその時のベストなんだと思う。するのも、しないのも、どちらもベストなんだろうと思ったりするんですね。

 

 

ですから、なにかしら「変わりたい」と思っている方がこの世の中に一人もいなかったり、心体のサポートを必要としている方が一人もいないとしたら私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアは出番が無くなりますが、それならそれで良いんです。と、今は思っています。

 

皆が生きたいように生きている。

楽になりたい方ばかりじゃない。

楽になりたいと思って選んでいる道が違っているかも知れないし、合っているのかもしれない。

苦しみが自分を育てるという考え方を好む方もいらっしゃる。そして、一理あると思う経験が私にもあります。

 

良い悪い、損得ではなくて、好きな事を選ぶということすら実は難しかったりするみたいだし。

雑念をそぎ落としていくつもりで、あらぬ世界へ逃避するケースだってある。

 

皆が皆、「自分の世界」を生きていますね。

こういった単純な事に気がつくと随分ストレスから解放されるような気がします。

そんなことはとても簡単なような感じがするだろうと思うんですが、「体感として理解する」となると不思議なほどハードルが高くなるのだろう。

知識と感覚

映画「マトリックス」を見て、仕組みが分かったような気がするのと、この映画の中の戦闘訓練モードの最中の「君が吸っているのは酸素か?」というセリフを聞いて、主人公は何をどこまで瞬時に理解したのか? どういった仕組みと感覚を理解したのか? というような事と似ているのかもしれません。

と、わかったようなことを書いて今回は終わりますが、私個人は自分が何をどこまで理解しているのかわかりません。そういった理解についての深い浅いなどと、能力の優劣ということはナニも関係ないという理解はしているつもりです。

 

ですから、情報弱者という言葉もあるし、それはある方面では一理あるんだろうと思いますが、こういった事に関しては情報が多い余りに迷宮で彷徨うことがあるようだと個人的には思っていますので、情報の集め過ぎが却ってストレスからの解放を阻む、健康を阻害するケースもあるなぁという事を感じたりします。

それだけの情報を得よう、集めよう、知ろうとする熱量を「エゴの量」と捉えるジャンルがあり、その「エゴの量」と比例する彷徨い道があるかもしれませんが、彷徨い道に良いも悪いもないので、それすらも「在るがまま」なのかもしれないですね。

在るがままの人それぞれの価値観、世界観、人生観。

 

(2021/11/21)

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