自分を知るためのチャレンジ。自分のリソースを活かす。

因果律を卒業するという価値観の変容

人生を物語として捉えない

「嫌われる勇気」の内容と、私の感想の大きな違いを最初にご報告します。

前回、この図をイメージとして差し込みました。

が、アドラー心理学は、人生を「線」として捉えない/物語として捉えない。ということでしたので、こういった曲線は 書籍と異なる理解です。同じ意味で、中島みゆきさんの有名な歌「糸」は、アドラー心理学的視点だと、歌詞は「採用しません」と言われそうですね。

 

このように、私の書く感想が、「嫌われる勇気」の内容に沿っているとは限りませんので、どうぞ書籍とこのコラムは別だ。という認識だけはお持ちくださいます様宜しくお願いいたします。

私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアは、ナラティブアプローチも行っています。特にお話を聴く際に、ご本人が人生を物語と捉えているのならそのままお聞きしています。

そして、「今より先」について対話する際には、課題の分離などを取り入れています。

 

自分が曖昧になるほどの物語中毒はあまりお勧めしないけど。

 

プロセスと結果

以前のコラムに「結果が全て?」と書きました。

ストレス反応をカラダの反応で確認する。その使い方と生き方の好みについて。

 

自分の人生観を「これでいいのだ」とバカボンのパパみたく思っている時は、それで良いんだと思う。

とも書いた。

 

正解はわからないが、教えや法則の方が正しいとか、権威者の言う事が正しいというような事からも一度離れてみると良いと思う。

自分に正直になったときに、心の中から何が聴こえるでしょうか? 

なにも聴こえないでしょうか?

なにも聴こえないのが悪いと思う必要な無いんですよね。答えがあるとは限らないですから。

 

逃げなのか? 競争から降りたのか?

人生について

ただ或るだけで、意味なんてない。理由なんていらない。というのは多分面白くないし、それだけでは辛いんでしょう。

と気がついた(ように感じた)時があった。

これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つ

 

上のコラムに理由と意味が欲しいんだという無意識の欲求について書いた。

 

また別に、私のクセとして、諦めが早い分野が多いということも書いた。

高校ですでに

あんたには執念が足りない。諦めが早すぎる

と言われたエピソードと、その時感じた事もブログに書きました。

 

私はずっと、私の人生は逃げ人生なのだろうか?と少々凹んでいた。それは、劣等感だろう。

社会に出て数年経った後から自分の衣食住は自分で支えていたが、それでも「私の人生はあきらめてばかりで(諦めも、明らめも含めて)何も成し遂げられないのではないだろうか?」と思うものの、しかし他人に(親や家族にも)すがりつく事も出来ないし、なにがなんでもコントロールしたいというほどの強い欲求も持てないし、出来ることはやりたいと思うものの他人を押しのけてまでという勝ちたい意識もないし、戦う必要がないのならやりたくないし、泣きわめいたり、泣き叫んだりしてまで主張したいことがないし、双方了解のない状態でしつこくするのも自分がされたら嫌だからとできないし、と無い無いづくしであって、

  • これは感情の鈍麻か?
  • 人間として欠格人間か?

と思ったりすることもあったが、後に、

やりたくないことを、やりたくないと自覚できるだけだ。自分なりの基準があるだけだ。

と理解する事にした。

 

相手を選んで行動を変えるのもイヤだなぁと思ったりするし。(そう思っていたも、やはりいつでも全く一緒ということはない。)

 

そして、逃げなのかなぁ? という自問自答に対して、「パワーゲームに参加したくないだけだ」と答えを出していたけれど、どっかで(逃げと、パワーゲームに参加したくない。のこの2つの違いはどう判定するんだろう?)とは思っていたんですよね。この書籍の中では「降りる」「身を引く」と表現されていた。

 

こういったことも正解は多分、各自の心の中にあるんだと思います。逃げると不思議と一層高い壁として(課題に取り組むまで繰り返し)目の前に現れる時があるようなので、その時、その時、しっかりと自分の本音を認知する以外に無いのかもしれない。これを利用するのなら、同じようなことが繰り返されたら(歴史が繰り返されたら)、自分の課題に気がつくチャンスにできますね。

 

個人的に理解できたことは、逃げたら自分の中で(今、逃げたね)とある程度自覚していることが多いし、後から「やろうと思えば出来たのに」といつまでも頭に浮かぶことがある。 しかし、ここは逃げる!と自分で決めた時は全然後悔しない。 ここは逃げる!それが良い!とちゃんと決めたときも、降りる!と決めた時も後悔はしないみたい。

これら体験から、やりたいと思った事は、その時やれることはやる。と決めていて、それが大したことじゃなくても(やれることはこれしかない)と思ってやる。すると、やったけど無理だった。と終わらせていける。実らなくても、後悔はしない。こういったことも「自分に正直」に含まれるのかもしれないし、肯定的なあきらめと言えるのだろうか?

課題の分離とは言えるだろう。

 

肯定的なあきらめだとしたら、書籍によると、真理を見定めたことになるようだが。

また、聴いていて笑ったのは、競争から降りることを「人生に疲れた年寄りの論法」と書かれていたところです。まさに私自身、若かりし頃の方が老成感を感じていたということも以前にシェア済みです。

 

 

馬を水辺につれいく

著者(語り部?)の実父との確執について記述があった。馬を水辺に連れて行っても無理には水を飲ませられないという件だ。

私も昔は家族に対して良かれと思って(わからせよう)(話し合おう)と行動に移したことがあったが、ものの見事に無意味であった。

そして、そういった働きかけを何度もしなかった。(あ! こりゃ無理だ)と例のごとく(やれることはやったから。と諦めた。(明らめた)) 今思えば、(やれることはやった)というのは諦めるための理由付けにしているんですね。 その次は「しょうがない」です。

どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に

 

母はずっと、「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言わないヒトだった。昔、本人に なぜ「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言わないのか? と質問したことがあるが、答えは無く、そのかわりに「うるさい!」と言われたような気がする。

おそらく外では「ごめんなさい」とは言わないまでも、「ありがとう」とは言っていたとは思うが、家族には言わないというか、自分が被害者だからありがとうという必要など無いと、当時は自分以外の他の人(家族も含め)を気にするつもりなどない主義だったのかもしれない。

 

が、「嫌われる勇気」の著者の実父と同じように、ある時から「ありがとう」とやたら言われるようになった。

驚いた。 (どうした!? 何があった!?)と思ったが、口にはしなかった。

わお! 変わったんだ! と私は心の中で目がパチクリした。

 

母が「ありがとう」と言いだした理由は分からない。訊ねていない。因果律も採用しようと思えば使えるが、「嫌われる勇気」的にはそういった因果律は要らないそうだ。

生きていると、理想から外れている(ように感じる部分がある)、許せない、認めたくない、受容したくないってことは当たり前にありますが(私にはありました)、「これでいいのだ」ですよ。一旦、「これでいいのだ」って唱えて一呼吸おいてみることもおススメしたい。

 

確かに今となっては原因や理由はどうでもいい。

そう、(あぁ 平和だねぇ)と感謝の気持ちを持てると、原因も理由もなくて良い。あっても良い。どっちでもいい。

 

そして、私は馬を水辺に連れて行ったという比喩のような感覚もありません。水を飲ます前に、「水辺に連れて行くことなんて出来ないっす。無理っす。」と自分以外の他人(家族も含め)に対する自分の限界を繰り返し体験し、理解に至った。

結果、自分のストレスケア以外は何もしていませんが、身の回りがどんどん平和になりました。

 

他者信頼

信頼の度合いも様々あるだろうが、書籍「嫌われる勇気」の中の他者信頼は、無条件だそうだ。

一切の条件が無いのが他者信頼で、相手が自分の想定外のことをしようが何をしようが信頼するそうだ。

だから、裏切られた。という言葉は存在しなくなる。

 

でも、期待しなければ、信じなければ、裏切られたとショックを受けることがないのも確かかな?と思う。これは懐疑か、あきらめの立ち位置ですよね。

 

私は最近は、今までの体験を踏まえて、

  • 「しょうがないことはある」
  • 「こんな人だと思わなかったというのは、単なる自分の思い込みが的を外していただけ。相手は今までも、これからも、自分のまま生きているだけだ。自分の理解不足だ。」
  • 「相手を勝手に勘違いした。見たいように見て、聞きたいように聞いていた。」

と思う傾向にあって、冷めていると言えば冷めている。

良いことと言えば、物凄く怒ることも無いし、物凄く傷つくこともない。 イライラもするし、凹むこともあるが、「そっか、しょうがないことはあるよね」と何かしらのイザコザがあっても固執しない傾向にある。 イザコザの内容は忘れないから、ケーススタディとして扱う事はあるし、自分を知るためのリソースにもしている。

だから、他者信頼と言っても、なんというか、浅い水域で信頼する程度だという自覚もあったし、それでも全然快適に過ごしていた。幸せに割り切っていたという感じだった。良いか悪いかは不明だが、加減のようなものを多くの経験から知るようになった。気にしていなかったと言える。

「今」のお互いの関係は上手くいっていても、「将来」はわからない。なんてことが身に沁みついていると言えるような気もするが、上手く書けない。自分が傷つかないための予防線と言えばそうだし、「同じ関係が続くかどうか今はわからないので、将来に執着していない」と言えばそうだし。

 

しかし、こんな私が、全然情報もなく、知り合って日も浅いのに「他人を自分よりも信頼する」という生まれて初めての感覚を得るという奇跡的なご縁があった。疑いの余地なく全面的に信頼している自分に驚いた。丸ごとだもの。

私のようなタイプはある程度「自分」があるので、他者を盲信するということはほぼ無い。家族だって自分より信頼するという関わり方はしていないため、人生にそういった存在は生まれて以来一人もいなかった。(ということに、そう言う存在が現れると初めて気がつくものなんですよね)

 

他者信頼どころか、自分より信じているわけだから、他者感がないわけです。

コントロールなんてしたくない。疑いも持ちたくない。というか、コントロール欲求が頭をよぎっても(何のために? そんな必要ないじゃん。)と思って欲求が消えていくし、自分より信頼していたら、なにか疑いが頭に浮かんだ次の瞬間、(それが本人の幸せなら、是非幸せを選んで欲しい。)と思う。私のちっぽけな頭で考えたことによるコントロールなどより、ご本人が選択する事がベストで、そうやってご本人の幸せを形成して欲しい。私もそうしてきたことを思い出した。

以前も書いたが、これらは、幸せな結婚をしているような気持ちにさせるのだ。多分「いつも一緒」だと感じるからだろう。

苦しい時も、病める時も、楽しい時も、ただ「在る」時も一緒。機嫌が良くても悪くても。格好良くても悪くても。これまでも、これからも。

 

下のコラムの中で、

唯一無二だと感じる安心感をカラダの中に感じる

と書いています。

楽になる手っ取り早い方法を知りたい?

 

こんなことってあるんだね! なんという感覚だろうか! 生きている間にこんな感覚を感じるなんて! と非常に感謝しているのですが、この書籍の中で『「他者信頼」があると幸福だ』とあったが、(ホントだね!)と思いながら聴いていました。

 

以前もご紹介しましたが、 俳優のマシュー・マコノヒー氏 のスローガンは「生き続ける」だそうだ。私もある時から、理由付けや意味づけは要らない、「ただ生きることにした」のと似ているな~と思いました。ということは、人生ワクワクして生きていく姿勢とは違うんですよね。だから大きく何かを期待するというようなこともなく日々を大切に生きています。満足して生きています。淡々と生きているのにやけに幸せだもの。

そんな時に無条件の他者信頼を体験したので、有り難さもひとしおでした。

 

えっ!こんな素晴らしい感覚が人生にまだあるんだ!と。

 

これを読んで下さっているあなたにも、このような僥倖がありますように!

素晴らしい感覚です!

 

前回、いきなり、有り難い存在と「一緒に」人生を過ごしていて、無条件に愛されている感覚について書きましたが、あちらは人物ではなくて「存在」です。今回書いている他者信頼は実在の人物ですが、下書きに書いて一晩おいたら、

この「存在」と「人物」の無条件ぶりって一緒じゃない!? と気がつきました。

自分以上に信頼感があるのも一緒。

自分の幸せを願うのと同じか、それ以上に相手(存在も人物も)の幸せを願っております。そういう意味で、私個人も幸せでいようと思っている。多分、私が幸せにやっていたら、「存在」も「人物」も嬉しいだろうから。

かまって欲しいからという理由で、わざと心配かけるようなことなど全然したくない。そんな相手を試すようなことなど全然したくない。そんなことをする必要がないのは、「いつも一緒」だから。 そうですね、ヨコで繋がっているというより、やっぱり「一緒」なんですよね。

人類の歴史の中で、多分既にこういった事を言葉に変換している方はいらっしゃるのでしょうが、今の私の目には入ってきておりません。

1つの「統合」の形だとは思う。

ご存知の方は、私が何を書きたいのかご理解頂けると思います。わからない方には解らないと思う。私も経験するまでわからなかったから。

 

最後に

いろいろ書きました。

自分の心の海を泳ぎまくって、牡蠣を拾い倒していた時期もありました。「嫌われる勇気」的には、牡蠣探しは必要ないってことでしたが、私は何故自分が今のように考えるようになったのか?感じるようになったのか?を知るための検証材料にしました。自分の「その先」を変えていくためのリソースにしました。

慣れない動作や考え方も、繰り返し練習しレッスン/鍛錬したこともありました。

 

私に合った方法があなたに合うとは限りませんが、「変える」ことにチャレンジすることはお薦めしたいです。
 

私の手法、考え方は、ユング・フロイト的なアプローチと、アドラー的なアプローチのMIXのようです。

入り口はユング・フロイト的で、「今より先」はアドラー的に取り組むとも言えるのかもしれません。

 

これらのアプローチ感覚は、特に誰かに習ったわけではありませんが、過去 非常に有用でしたし、現在も有用に感じています。

 

書籍にあったように

  • 自己受容
  • 他者貢献
  • 他者信頼

を経験した(ようなつもりになっています)ら、多分、これ以上に幸福感はないだろうと思う感覚を得ました(今はまだ感じていますが、将来は分かりません)。有り難いし、あぁストレスケアに取り組んできて良かったな~と相変わらず思っています。

 

また、人生観は大切だと思っています。

「自分」を意識して、感じるということも大切だと思っています。

しかし、人生観が無くても、自分を失っているような状態でも、生きているだけで価値があるし、生き続けることで十分だとも思っています。

 

分かりやすく「成し遂げる」ことばかりが人生じゃない。

生き続けて、人生を最後まで生ききったら、それも偉大なる「成し遂げ」だと思うようになりました。

いろいろあったけど、生き続けたよ。凄いよ俺(私)といつの日か自分を誇りに思って欲しい。他人との比較じゃなくて、そんなの関係なくて、自分が唯一無二だとわかり、胸をはって誇らしく感じる。爽やかな風を体の中に感じる。

自分の人生コレで良い。

 

自分に正直ということも時々思い出してもらえると嬉しい。

セルフストレスケア。私はこちらをお伝えしています。

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(2021/08/13)

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