「自分」があるとできること。無いと難しい?

「自分」があるとできる。無いと難しい?

書籍「嫌われる勇気」を聴き、思ったところをコラムに書いています。今回は3話目です。

断り書き

アドラー心理学と書いていますが、アドラー心理学そのもののみを読んだわけでは無くて、「嫌われる勇気」というアドラー心理学をお薦めしたい著者がお書きになった本を聴いたに過ぎないのでこれは前提としてご理解ください。

また、書籍の内容について著者の言わんとしていることと理解が異なることがあるだろうと思いますが、あくまでも私の感想を書いています。また、まるで私が「嫌われる勇気」的な生き方を身につけたような勘違いをさせてしまう書き方をしていたら謝ります。それは違います。自分で試行錯誤しながら行ってきた事が書籍に書かれているように感じた部分があったのは確かなのと、書かれていた事を体感したと思えるような体験があったのでそれを書いています。

共通部分が多いように感じました。

ニーバの祈り

こういった体験のなかに、書籍でも紹介されていたニーバの祈りがとても身近に感じた事がありました。

事実と解釈

 

課題の分離

多分ですね、私がコラムやコラムに書いてきた「シンプル」というのは、書籍の中でも

人生をシンプルする

と紹介されていた「課題の分離」のようです。コラムでは「腑分けのようなことをする」と書きました。

脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその3

 

これは是非お勧めしたい。

ですから今回の大見出しも「「自分」があるとできる。無いと難しい?」と決めました。

課題の分離ができていないと、なにが起こりがちかを今回は書いていこうかなと。

 

怒りでコントロールされる(する)

これは、涙(泣いて)でコントロールされる(する)でも良い。

相手が怒ると(または泣くと)、途端に弱腰になって言いなりになってしまう方もいる。相手のその反応を、自分が非難された/責任があると感じるケースもありそうだ。 

つまびらかにしてみると?

痛々しいが、つまびらかにすると、双方どちらも「自分の欲求を100%無条件に叶えて欲しい。 丸ごとの私を無条件に愛して欲しい。それ以外は傷つく、不安になる。」という傾向があると推測ができる。

同じ性質というか、価値観同士なのかもしれないが、双方人間関係はタテで形成しているでしょうし、当初のパワーバランスは違う事が多いが、年月が経つと怒ったり、泣いたりしている方が上になるケースが多いような気がする。支配されちゃう、支配しちゃう。気がつけないうちに下になった方は上に位置した人の機嫌を取ってしまっているだろう。

 

多分、双方とも、「相手が自分の思い通りに動いてくれない」ということがストレスになっていそうだ。

そして、コントロール関係の上になった方は、こういったやり方を中々手放せない(それがパターンだから)が、他者をコントロールできるからと言って心の空虚感は埋まらない。すると余計にコントロール欲求が強まる。欲求が肥大する。これはこれでなかなか苦しいだろう。

コントロールされる側は、もしそのパターンを手放したいのなら、課題の分離をする際に、自分がなぜそういった感情的な人間に弱いのか(過剰反応するのか)も地下2階以下を検分してみても良いと思う。私の経験から言うと、自分も全く同じ性質があり「嫌われる勇気」的な課題な時が多い。多分、他人とタテ関係しか結べないとかなんとか、そんなことが浮上してきて、なにかしら自分が抱えている恐怖や不安を知ることになるような気がする。

嫌われることが怖いのだと思うが、例えば「嫌われてもOK」というバランス調整よりも(よりもと書くと語弊があるが、今は許して)嫌われることが怖いという事を腑分けしていく方が「今の自分」を認知しやすいし、認知する事によって自己受容が進む。ひょっとしたら、このような自己認知を受け止めることの方がOFFをONにするというバランス調整よりも(そういった意味の回復を求めている場合に)的を得るというケースもあるだろうと思う。

そして、本当はそういった関係性がイヤだと思っているのに、理由付けや他の原因などを持ち出して誤魔化して表面上は上手く装っていたりするということは、自分に不正直ということになる。

 

自分に正直って言うのは簡単だが、いざ正直になろうとすることが難しい方にはとっても難しい。

おかしいと思ったら、おかしいと異を唱えることができるのが正直であって、「自由」だというようなことも書かれていたように思いますが、(「嫌だ」ということを感じる事すら封印しているケースも考えられる)好かれること至上主義ですと、異を唱えることは嫌われるリスクにしかならない。

そうなると、自分に正直になる際の最初の段階としては「誰にも嫌われたくない私(俺)」の認知だったりする。言葉だけでバランス調整も何度もしたらいいだろうが、認知してバランス調整を行う事をお薦めした。

 

そんな自分が認められない、受け入れられないと同じパターンを繰り返す、友好関係ではなくて、パワーバランスで関係を継続しているどちらも何度も同じようなパターンを繰り返す。

なぜ繰り返すのかというと、「そこには触れたくない」という想いが強いからなんですよね。

そういったことを、自分は認めたくないのだ。ということに気がつくだけでも良いんじゃないかと思いますけど。

 


ということが書籍「嫌われる勇気」には書いてあったと思う。

割と書籍に沿って具体例を書けたような気がするが、(全然違う!)のでしたら申し訳ありません。

 

書籍の中にあった他の表現

書籍の中には、

  • 相手を困らせたい
  • 安直な優越性

なども書かれていたように思うが、これらの行動は成熟性とは遠いのはそうだと思う。私も子供時代、思春期、成人になる手前まではこういった性質がとっても現れることがあり、それを自覚しながら、そんな自分にウンザリもしていた。

でも、自分の変え方がわからないから「自分にウンザリ」も含め(多くの皆さんと同様)苦しかった。

感情と成熟(精神的に大人になる)

 

似たバリエーションとしては

  • 君臨したい、称賛されたい
  • 特別でありたい、特別に扱われたい
  • 特別なグループに属して自分も権威を得たい
  • 与えてくれる人が好き(自分が与えるのは、リターンが見込める時のみ)

などもありますね。

 

面白くないことばかり書いていますが、「嫌われる勇気」的な話をまとめるとこのようにも書けまして、文章を読んでどんよりした方、書籍を読んで痛かった方、書籍を聴いて痛かった方などはストレスケアされておくと良いですね。

その先、価値感を変えることにトライするかどうかはまた別の話だろうと思います。

価値観を変えるって、それなりに練習や心がけみたいなものがあってこそなんだと思います。

 

尽くす≠(ノットイコール)献身≠(ノットイコール)自己犠牲

リターンがないのに何かをするのは自分が損するから絶対にしない! という価値観もあるだろうと思います。

そういった価値感を持つ体験が有ったのかもしれません。が、おそらく自分に尽くしてもらうのは好きだったりするんじゃないかな。そうなると、また話は変わって、相手を自分の機嫌を良くさせるために存在させるという、書籍の中の「赤ちゃん最強説」と似てきます。

ですから、「尽くす」ということも、良いようにとる方も居れば、そうじゃない方もいる。

「尽くす」について私は正解を知らないので、「他者貢献」の体験とそこから得たものについて書いていきたい。

 

他者貢献

なんとまあ、書籍「嫌われる勇気」を読む(聴く)のを驚くほど先延ばしにしている間に、書籍に書いてあるようなことを実生活で体験していました。ですから、今だからこそ一層理解できるような気持になる部分がありました。

ブログに書いた、書店でマッハの斜め読みの時に、「流行っているから読んでおこうか」と買って読んでいても、今とは全然理解が違っただろう。その理解のとても大きな違いを生んだであろう部分がこの他者貢献についてです。

 

有償ボランティアで幸せをもらった

書籍の中の「他者貢献」とは、勤め人として働くことも含まれていましたね。私は勤め人歴もそれなりにあるので勤め人としても、今の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアによるサポートという立場でも書いてある事は理解できるような気がした。

ところが、仕事とは異なる有償ボランティアで得た幸福感は素晴らしい体験だった。有償ですが、それで生活ができるような金銭的対価は有りません。が、金銭には代えられない対価と呼ぶには有り難すぎる「幸福感」「繋がり感」を与えて貰えました。そもそもがヨコの関係として成り立っているところが特に良かったのかもしれないなぁ と書籍を聴き、コラムを書くために内容を考えている最中に気がついた。

 

「ヨコ」が繋がりを感じやすい?

私のヨコには、ちびっ子達、子ども達、保護者、関わるスタッフがいた。

もう1つの福祉の関わりからも、とても有難い体験を頂いた。大人がヨコの関係を当たり前だと感じて、できる事に真摯に取り組んでいる姿も見せて頂いた。

 

これらに関わる前に、リターンなんて考えたことも無かったが、とても素晴らしい体験をして、皆の幸福を願うような気持でいる。

尽くす=(イコール)献身=(イコール)自己犠牲じゃない。全然違う。

尽くす≠(ノットイコール)献身≠(ノットイコール)自己犠牲だった。

 

自己犠牲と感じるようなことはなかった。

自分が損する事を恐れていると、尽くす=(イコール)献身=(イコール)自己犠牲になるのかもしれないし、体験としてこういう価値観を得たのかもしれない。言いたいことは私にも理解できる体験もあるが、やはりそれは「相手による」と思っている。

いや、全ては自分に責任があるのなら、「自分による」ということになり、おそらくそれが「他者との課題の分離」の必要性となるのだろう。

上位概念との関わり方

脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその5

私のシンプルでいる為の心がけのような意識の中に、上位概念との関わり方もあると書きました。

 

ただの個人的な見解ですが(書籍の中で取り上げられていません)、それを「タテの関係」として捉えているケースってあるんじゃないかなって昔から思ってる。これも自分の経験からそう感じているに過ぎませんが。

「従えば良いんだ」というようなタテ感と、「参考にしよう」というヨコ感と書くと伝わりやすいだろうか?

 

また、なんだかよく聞くような気がする「上と繋がる」というセリフ。

その裏には、

  • 下とは繋がりたくない。
  • 下とは縁を切りたい。
  • 下の人たちと違って、私は上と繋がっているんだ。

というような上下関係が透けて観えはしないだろうか?

ステージというような認識も上下という感覚を元にしたものが多いようです。(良い悪いではない)

これを、このシリーズの1話目

  • (書き方は難しいですがある種の)「教え」好き
  • (書き方は難しいですがある種の)法則好き

と書きました。

こういったこともタテに含まれるとしたら、もう無意識過ぎて気がつけない。そもそもの前提が違うし、価値観という言葉にも引っかからないことだって多い。そういう意味では、図の地下2階より下でしょうね。

自分は宗教団体に属していて信仰がある。や、自分の価値は〇〇という信仰にある。とはっきり意識をお持ちの方の方が、それを自分の上位に置いているとした(そうだよ、私はタテ関係を選択している)と理解しやすいかもしれませんし、「嫌われる勇気」的なヨコの関係の人生を選ばない。と自分で決められるかもしれません。

または、その信仰の内容によっては、「すべてヨコ」ということが教えだという事もあります。しかし、だからといってご本人がタテの関係のなかで生きないというわけでもないんだけど。

書くと難しいですね。

宗教、信仰をお持ちの方の気分を害さないと良いな。人生観は様々なので、いつも書くように、宗教も信仰も否定しないです。それが自分の「安全の場」になっている方も存じ上げています。世界的には多いですよね。

あくまでも今は「嫌われる勇気」的な人生とは?を個人的に考えているに過ぎませんのでどうぞご理解ください。

 

上位概念と「ヨコ」で関わる

私の中にも自分なりの神様というか、見えないナニカに対する感性はあるのですが、今現在はその有り難い存在と「一緒に」という感覚なんです。もちろん有り難いと思っているし、感謝してもしきれない。だからこそ、あるがままを受けいれて貰っている、それはお互いに。という感じなんです。

書いて表現するのは難しい。

決してそれら有り難い存在を軽んじていないし、尊敬の念、感謝の念は書ききれませんが、多分、それらの存在は、崇め奉られることなど私に望んでいない感じがあるんですね。「一緒に」という感じなんです。これら有り難い多くの存在は私が生まれて以来、見守ってくれていたと感じた後、ずっとあらゆる面で無償の愛で貢献してくれていたんだと感じるようになったんですよ。

それは、これら有り難い多くの存在もそうですが、私の人生に登場したありとあらゆる方々も同じだなって気がついたような気持になったことがあったんですね。

下のコラムに書いています。

脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその4

 

そして、それらと「一緒に」生きてきたんだなって。

 

書籍「嫌われる勇気」を読んだ感想に、いきなりこんな内容をぶっ込んで申し訳ないのですが、書籍を聴いている最中も、マインドマップを書く時も頭に浮かびました。

 

しかし、(これを書くのはどうかな・・・・)と書かない方向性で居たんですが、ひょっとしてどなたかの何かのヒントになるかもしれないのでシェアしました。

 

前回の、コラムの「運」の話と同じで、急カーブで申し訳ありません。

あなたが求めている人生とは?

 

自分の人生が歩きづらいことに理由があるとしたら

 

私が今現在、とんでもなく有り難いことに感じている「貢献を受けてきた」という感覚を、やはり周囲の方にもおすそ分けしたい。コラムを読んで下さっているあなたにお裾分けしたい。

 

「報われない」と悲しんでいた昔の私には存在しなった感性です。

生きているうちに自分がこんな考え方をするようになるとは驚きです。

次回へ

今回がシリーズ最後の予定でしたが、読んで頂いているあなたも既にお察しの通り、書籍についての感想を書き終わっていません。

 

次回へ続きます。

 

今は北海道に住んでいるお友達のKちゃんが以前、「全然(文章が)長くて良い」「長い方が良い」と感想を聞かせてくれました。有り難いです。Kちゃんいつもありがとう。

お言葉に甘えて、結末は次回へ繰り越します。

 

(2021/08/12)

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