孤独を感じ、苦しい。その時どうする?

孤独を感じ、苦しい。

番組「あなたに見えない、私のこと」

前回、Don’t miss it. と書いてしばらく経ちました。

メンタルヘルスケアについて

コラムを書く時間があるうちにどんどん書いていきたいと少々焦りつつ、しかし、中途半端な感じがするうちは書けない。

ですから、一番集中して番組「あなたに見えない、私のこと」を観ていたのは初回だったのですが、しかしもう少し奥行きを確めたくて何度も見返しました。しかし、見ながら寝てしまったり、違う事に意識が向いたりして、初回視聴時以上の奥行き感がなかなか感じられず、Apple TVの契約期間を更新してまで(よし、番組を観て、感じた事がまとまったと思えてからにしよう)とコラムを書くタイミングを先に延ばしました。いや、寝ちゃったりしていたので、先に延びてしまったのですが。

加えて、コラムを書くのを先に伸ばしているうちに、今度はAmazonオーディブルで「嫌われる勇気」を聞き始めてしまった。

これが、(アレ?! 私がコラムに書いていることが登場しまくりだな!)と思えて耳を奪われてしまった。(ほとんど同じじゃん!)と。

今回のコラムの本題は「あなたに見えない、私のこと」なので、書籍「嫌われる勇気」については後回しにしますが、こんな時に、流行った有名は書籍の言葉を使いました。

強くなるってどんなことだろう?

いやぁ、コツコツと考えていくと、色々なものと「言いたい事」や「わかったような気持になること」が似てくるもんですね。

 

では本題にはいりましょう。

 

番組の内容を整理した

何度か番組を見直しました。そしてブレインマップにまとめたのですが、最終的にマップが大変賑やかになりました。

 

このコラムを書く前にAmazonオーディブル「嫌われる勇気」を聞きながら、また別のブレインマップを書きました。集中して聞いていないと書けない。すると あら大変! 集中して新しい知識を頭に入れたつもりになったら、今日の本題の内容が頭から押しのけられている(◎_◎)

だからブレインマップは良いんです。マップを見返せば、これを書いた時の視点を瞬時に思い出せます。時間を行き来出来ます。(笑)

 

孤独に気がついた

コロナの影響で、今まで気が紛れていた方も、見ないようにしていた方も、社会的な影響で自分の寂しさや孤独に向き合う事になってしまった。というような論調が番組の一部にはあったかと思う。

孤独を感じたくないから忙しくしていた方や、多くの人の中に入り込んでいた方もいつもの逃げ道(気を紛らわす方法)を取り上げられてしまったようなことになってしまってはいないだろうか? 寂しさや孤独から目をそらしていたのに、意に反してそれと直面させられたと感じるような事があるだろうか。

私個人は、元々人は孤独を感じる(という一面がある)と思っていますが、そうは思っていない方も、言葉は知っていても感覚が分からなかった方、それを感じたら大変だと避けていた方も、自分が状況をコントロールできないままに一斉にそれを現実とした渦中の人となってしまい、拒否反応としていろいろな事が起きた。情報の錯綜ぶりも世界共通なのか、日本だけなのかはわからないが、経験したことが無い現象に対する反応は様々です。感情も大きく大きく揺さぶられた方も多いし、それによって揺さぶる側に回った方もいた。

 

自分は選んでいない、選んだつもりもないのに、こんな騒ぎの渦中に不本意ながら投げ込まれたような戸惑い、怒り、不安、恐れ、心もとなさ、寂しさ、無力感etcに襲われた方も多いし、これらが水面上に現れていないだけで(自覚の有無は無関係に)、 元々抱えていた方も多かったのだろう。ストレス耐性の違いや、環境によって反応は異なります。

 

一人じゃないのに、「たった一人だ」という考えに囚われてしまう。そんな時がヒトにはありますね。

※「一人」の定義もいろいろあるんですよ。社会生活をおくっていたら完全に一人にはなれないという解釈もありました。

私も勿論経験がありました。

お陰様で、今現在まではコロナ関連にメンタルヘルスや健康状態が左右されていませんが、この先も孤独や寂しさに囚われる時期がくるのかもしれないです。

一緒です。

ただ、それらの感じ方が変わることがあります。価値観や人生観が変わると、そういった外的環境に内的状態が影響を受けて乱高下するようなことが減るという事も確かにあります。

そういったことをこれまでもコラムに書いてきたつもりですが、今日も角度、切り口を変えて書いていきたいと思います。

そして、コロナ騒動などが関係なく、それ以前からメンタル不全が起きていた方には一層苦しいと感じる状態になったケースも多いようだ。(寂しい、寂しい)という呟きと感情が空気感染しているのかもしれない。

みんなが、「私を見て欲しい」「私は愛されたい」「安心できる繋がりが欲しい」と今まで以上に欲するようになったとも言えるだろうか? 今まで以上に欲する事になったというか、自分がそれを望んでいることに気がついたとも言えるような気がします。表面化と言いますね。

 

これらから、自分の居場所が無い。というような想いを持った方はどの位いらっしゃるだろうか?

そんな時は、居場所を無理に探さなくても、そのうち自分の居場所がわかるだろうとゆったりと構えるということを意識してみてはどうだろうか? 簡単ではないと思いますが、今の自分に将来はわからないとあきらめて、探すことを忘れてしまう・放棄するという方法もある。

探すことを忘れて、目の前、今、できることに取り組んでみてはどうだろう。

内面が変わると、今と同じ場所にいるままで(外的環境は同じままに)「私の居場所はココだ」と思えるような内的変化が起きることもあります。探す必要などなかった。最初から有ったのに見えていなかった。というような感覚を味わう事もあります。

 

窓の外を見て、出来るのなら散歩をしてみては?

 

弱さを認める。弱いことは恥ずかしいという価値観を見直す。

これまで、心が苦しくなるのは

  • 弱い人間だとか、
  • 修行が足りないのだとか、
  • 鍛錬不足だとか、
  • 考え方が暗いんだとか
  • 私はもっとつらい目にあってきたから、そんな状態になるのは甘いからだとか

シンドクなっている方を競争社会的な慣習から「弱者」と思いがちだった方も、社会全体の変化を眺めた時に「自分も同じだ」と気がつく機会にもなったと思います。

 

自分がそれまで心が苦しくならなかったのは、環境に恵まれていただけであって、自分は強いと感じていたものは違っていた。と言うようなケースもあるのではないだろうか?

 

人は同じなんですよね。

強い、弱いを、良し悪しと勝手に変換して評価しているだけに過ぎない。

誰にでもある。弱さは誰にでもあり、弱さが顕著になる時もある。
 

それを感じた方は多かったのか? 少なかったのか?

 

その時、一体どうしたら良いのか?と思いませんでしたか? どうしたら良いのか教えて欲しい!と。

どうしたら良いのか?は人それぞれですが、わからないままで手をこまねいて居るよりも、ストレスケアをとりあえず始めてみることは選択としてお薦めしたいです。(番組内ではセラピーという名称が使われていましたが、私の書くストレスケアにはセラピーも含まれています)

トラウマ

この「孤独」の原因について、番組内では度々「トラウマ」が関係しているという表現が使われている。「トラウマなんて無い」論もあるようだから、「トラウマ」という表現に抵抗がある方は、

「寂しい」と思うその理由がある。

または、

ご本人が、「自分が孤独を感じるには原因がある」と考えている。

と脳内で書き換えて読み進んで下さい。

 

  • 孤独を感じて苦しいので、対処しようよ。
  • その対処をメンタルヘルスケアと呼ぼう。
  • その対処としてセラピーを受けるという選択は良いものだよ。
  • そして、回復を目的としてメンタルヘルスケアをして、日頃の(公衆衛生的観念として)ケアも大切だよ。

というような部分も番組内にはあった。

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エピソード1「声に出して語ろう」

番組の詳しい内容についてはいつも通り書かない。ニュアンスが違ってきてしまうし、あなたがその目で番組を視聴するのが一番良いと思うからです。

ですから、私が既にコラムとして書いている内容との共通点をご紹介していきたい。番組も視て、私のコラムも読んで頂くと、視点が増えて理解しやすくなると思います。

このエピソード1に登場した、「世代の悪循環」ということについては、計画的にカウンセリング・セラピー・ケアをしていく方が良いと考えています。 「こりゃーーー長くかかるぞーー(汗)」と思うかもしれないが、案ずるより産むがやすしという言葉があるように、本気で向き合えば想像よりも早く、硬く硬く握りしめていた「世代の悪循環」を手放す気になるかもしれない。対処法として、習慣や価値観を変えていくことの大切さに ハッ と気がつけたりする。あくまで可能性があるという話だ。軽く見るつもりはさらさらないし、回復のスピード命で荒々しいケアを勧めるわけでもないが、取り組むときは地に足のついたセッションをお薦めしたい。

過去と認識される、世代間連鎖、カルマ、前世、遺伝子、輪廻のケア

 

感情を揺さぶるような言葉を聞いたり読んだりして、感情がふるふると震えたら すなわち回復というわけではない。感情がふるふると震えたというその時の状態ではありますが、すなわち回復と言うこととは異なる。感情がふるふると震えたことを一種の(一時の)達成感と感じることがあるので、(あぁ良くなった。終わった。)と感じるのだろうとは理解しています。(あくまで私見ですが、同じことを提唱されている心理学者もいらっしゃったと思う。)

感情を揺さぶるような言葉を(加えて)情感たっぷりに聞いたり読んだりして、その時は涙が出てきたり泣いたりして一種の達成感や浄化感(?)は有っても、それは今まで同様の感情の反応が起きているだけであって、それが負ではないからOKと言うわけでもないようだ。泣いて気持ち良かったということは「体験」「感覚」ではあっても、回復とは少々異なることも多い。演劇などで大切とされる「感情」とカウンセリング・セラピー・ケアの肝は一致しないようだ。ですから感情に陶酔しているだけだとしたら、演劇類を観た時の反応に近いとは思うが、(番組内で表現されている)トラウマのケアには該当しないことも多いだろうし、感情に陶酔する習慣が一層増長されている場合もある。

陶酔して酔っぱらっているだけとしたら、後から出てくる、麻薬やアルコールに逃げるという意味にも少し似てこないだろうか?

 

振り返ってみると、度々泣いて気持ち良かった(良くなった気がする)が、人生は特に何も変わっていないことだってある。こういった感情の刺激は言葉が悪いけれども目くらましのような働きをすることがあることを知っていても良いと思う。

ただ、ご本人が、(あぁ 人生過ごしやすく、生き易くなったな)と感じているのならその方法(カウンセリング? セラピー? ケア?)が合っているんだろうから、私が書いたようなことは大きく的が外れていますね。申し訳ありません。そして、回復して良かったですね!と素直に喜びます。

公表する事がゴール

番組の中では

公表する事がゴール

と語られていた。

 

とするならば、すでにゴールに達しているのに、終わらせようとしないというケースも多いのかもしれない。または、「公表したからって何も変わらない。」と試しもしないケースも多いだろう。公表というのは、全世界に向けて発表という事では無くて、「誰かに話す」「認める」という意味だろう。

 

また、先ほども書いたように、感情だけの反応だろうがどうだろうか、どんなセラピーでもご自身にフィットしていたらそれで良いのだか、公表して、声に出して語って、すでにゴールに達しているストレスに対して、

「回復って言うのは、もっと劇的に変化が起きることだから私はまだまだね」と其処に居続け、一向に終わらせようとしないという可能性も検討してみても良い。回復という状態が、遥か彼方から降ってくるのだと信じてただひたすらに待ち、受け身姿勢だという考え方も出来るだろうか? ナニカが降ってくるまでは動こうとしないという事はありませんか?

確かに自分のチカラでは何ともならないことが人生にはあり、結果的に「待つ」ことはある。 

しかし、対処法を試してみることもできる。

好み、選択は様々です。

 

人生を変えたくない。これを終わらせたら(それが苦しみであったとしても)明日からの自分の生きる価値が無くなってしまう。と無意識的にも感じているケースもあるだろう。「可哀想な自分が好き。」という感性もあるのだ。 (自分はちょっと(または、随分)可哀想なくらいが丁度いい)と思っているケースもある。

 

また、

物事を直視することができるのは「勇気」によるもので、大人への変化だ

と俳優のマシュー・マコノヒー氏が他の番組で語っていたが、あなたはどう思われますか? 名実ともに大人になりたいですか? 苦しく感じる体験を活かして変化していくこともできます。 それができる可能性があるとしたらチェレンジしますか? 

 

感情と成熟(精神的に大人になる)

 

 

もし、

現実と向き合うのをやめた

という選択をしていて、泣いてスッキリしたような気がしたらそれで良い。と思っているのだとしたら、今のそのシンドクなった状態の見た目の形が一時変わっただけであって(バリエーションの1つという意味で)、基本姿勢・価値観は変わっていないとも思える。

 

泣くことが大切なことも勿論あるし、泣く事しかできない時期も人生にはあると思うので、誤解を与えかねない筆力しかないのが非常に歯がゆいのですが、「泣いている」という姿は同じでも、その意味合いは多岐に渡るというようなことが書きたいのです。

ちびっ子だと、そんなことやりたくない! と悲しいから泣くのではなくて、拒否する理由としてワザと泣くことがあります。それはその時のちびっ子ができる精一杯の表現方法だと思っていますが、大人はちびっ子よりも「言葉」を知っているし、伝えるという努力もしようと思えばある程度できる。それらを試さず泣いてその場をやり過ごしたり、自分の主張を通したいために泣くというようなことからもう一歩進んで「声に出して語ってみる」。その先に、「現実に向き合ってみよう」という自らの働きかけがあると良い結果に繋がることが多いようです。

 

孤独、シンドイ、苦しい状態に折角適合し、慣れてきたので、その努力を水の泡にしたくないのかもしれない。回復すると苦しみに慣れるための努力がフイになると考えることは無いだろうか? 苦しみに陶酔していたいという無自覚な欲求は? 変わらないための理由付けでは?(理由付けは理由付けでも、強迫神経症というような要素がある可能性という知識も大切だと思います)

 

人間の精神や心理、脳内というのは、持ち主の使い方次第だと言えるのだろうか?

 

エピソード2「助けを求めて」

私が、この番組「あなたに見えない、私のこと」を勧めた理由は、ご本人がどう感じているのか?を聞けるというところです。少々心理学などをかじると、話を聞きながらラベリングしてしまうが、それを抜きで一度視聴してみて欲しい。すると共感しやすいように思う。

共感した時に、やれ法則だとか、教えだとかが第一優先で選択肢に上がるか?と思うわけです。

そう言う事を書きたかった。

 

先ずは、

  • 話を聞く
  • 対話する
  • 共感する

にならないかな? と思うし、それが相手の方にもbetterだと思える。それが寄り添うというではないだろうか?

 

やれ法則だとか、教えだとかは、有り難い知識だとは思うが、(知っているからこそ)それに乗っ取って話を聞いて、それに乗っ取って出た分析結果を(自分が)言いたいという欲求行動であって、悩んでいる方へ共感しているわけじゃないのでは?と。(宗教家の方や、そういった教えや法則に乗っ取った相談業をされている方はそれが「やり方」ですから私が何を思う必要もないのですが、少なくとも私はそういった方法ではなくてご本人の価値観を伺うという方向性なだけです。)

そういった教えを組み込んだカウンセリング・セラピー・ケアも既に有るし、宗教もあるし、いろいろあるんだけど、私は目の前の相談者さんの「今」に焦点を当てたい。

だから、そういう意味ではこれら教えや法則、宗教の中身を私は知らなくても良いし、そういった教えを組み込んだカウンセリング・セラピーなどを「凄い!」と称賛しないことを「センスがない」とバッサリ切り捨てる考え方も見た事があるが、そういう意味では私はセンスがなくて良い。かえって無くて良かったかもしれない。

そして、「センスがない」という言葉に、競争心?劣等感?をもってムキになって分かろうとするようなタイプじゃなくて良かった。こういった言葉は時にマインドコントロールというか、ヒトを扇情する、意のままに操ろうとする意図をもって使われることがあるし、自分に100%帰属しないことに怒りを感じている承認欲求肥大の方が発するケースがあるとことを知っていて良かったと思っています。

私のセンスなどは無関係で、選択はご本人にお任せしたい。

価値観もセンスも人それぞれだ。

 

そして、この やれ法則だとか、教えだとかは有り難い知識だとは思うものの、これらが裏目に出たような働き方をするときもあると思っています。それは、自分が置き去りになって、法則と教え、知識の収集という本来の趣旨からズレていることが非常に分かりにくくなる時がある。

その自分の置き去りぶりが、番組のエピソード2の麻薬とアルコールによる「自己治療(この言葉と感性は勉強になった。治療の感覚なのか!?と思えた)」とZAK(父、ロビン・ウィリアムスも同様のようだった)が認識していた行為と匂いが似ているような気がした。

もちろん、自分が良くなるために。という意識が共通項にあるようだ。という前提だが、自分には向き合っていないということは置き去りになっていく。しかし、それが非常に自覚しにくい。

パラドックス? ちぐはぐ? シュレディンガーの猫?

 

シュレディンガーの猫?

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

返事は2秒でYES

どなたか影響力の強い方が、成功哲学的な意味で「返事は2秒(以内?)でYES」というようなことを推奨されていた。もう何年も前に耳にした。当時実践されている方も居た。

それは個々の選択だが、成功哲学的なもので、精神や心理的には危なっかしいものがある。いや、全てはご本人の取り組み方、取り入れ方次第なんだけども、

YESの連続で燃え尽きた

と自覚のあるヘンリー王子が告白していたのを視聴した時に、この「教え」を思い出しましたよ。(「与え続けて燃え尽きる」というケースだってある。)

 

あの頃、この教えを広めた方に傾倒して実践していた皆さんは今どうなっているんだろう?

その方の思う「成功」はされたのだろうか? そして幸せを感じていらっしゃるだろうか?

 

良い教えやライフハック的な法則もあるだろうが、それらがあたかも良いからと言ってご本人の幸せと直結するとも限らない。あくまでもケースバイケースで、選択はご本人がされると良いと思う。

 

当時のカリスマさんが現在どうされているのか知らないし、一体誰だったのかも覚えていないが。

 

なるほど、これは勉強になった 「認めたら治らなくなる」という価値観

私が自分の見たくない部分も認めたくない部分も「やるっきゃない」「見るしかない」「認めるしかない」「受容するしかない」とストレスケアの課題にしてきたのは、「今より楽になりたい」という一心からであったが、番組の中で「認めたら治らなくなる」という捉え方を観た時には(なるほど。そりゃあ回避するよね)と素直に感じた。「自分のストレスを認めたら(感じたら)長期化する」という恐れや信念・価値観があるんだということが非常に勉強になった。

 

また、他方、肝に銘じておきたいと思ったのは

正しい治療や正しい診断というのはない

という言葉だった。

 

私は、以前にも視覚情報とその情報に対するストレスの脆弱性というようなことを書いたし、嗅覚と言うことについても別のコラムで触れた

視覚と嗅覚で捉えると脳は2つを繋げ記憶をつくる

ということや

この視覚と嗅覚によって記憶をつくる時の傾向や好みは変わらない

という言葉を視聴すると、常々「治る」と「回復」というのは意味合いが違う(時がある)なぁと思っていた時の自分を思い出した。

 

また、

脳の下部は時間を認識しない

と説明されており(私の以前のコラムでは脳内は時間がなく、多次元が同時進行中であると書いた)、そこは(脳の下部は)

地雷をかかえている

そうだ。

 

私の考えている「回復」には、

  1. 自分の性質との付き合い方を覚えていく。
  2. 自分の反応をある程度管理する対処法を身につける。

を含んでおり、ただセラピー・ケアを受けているだけでは「その時 あっ! と思った(感じた)」だけで終わっていく。「気がついた!」と思うが、その気づきを活かしていくところまで行かないことがある。気がついたが、その後元通りということもある。

 

心や精神を鍛えていくレッスン、訓練、練習も必要だと度々書いてきたが、番組内では「鍛錬」と訳されており、鍛錬しないと元に戻っていくと言われていた。

 

それはエピソード1の「その時はスッキリした」で終わる場合と、その先を考えていくことや、行動していくという場合の経年の大きな変化の差を指すと思う。

弱さを認め、苦痛を感じる。それらを直視する大切さ。

ということが、視聴している方に伝わりやすい番組でしたので、どうぞ視聴されてみてください。

Appleテレビの月額料金とのコストパフォーマンスを考えると、とっても得です。成功哲学本を買うより、ライフハック本を買うより、先にこの番組を契約期間内にしっかり時間をとって視聴することを私はお薦めします。

 

どこまで行くのか?やるのか?は本人次第だ。

 

行ける所まで行こうとしている方にお会いしました

 

心の問題は人間関係

Amazonオーディブルで「嫌われる勇気」を聞き始めてしまった。と冒頭に書いたが、聞き始めてしまって良かったことがある。

それは、「心の問題は人間関係」と番組内で表わされていたことが、「嫌われる勇気」でも同じように書かれていたからです。(「嫌われる勇気」については今後別のコラムに書きます)

 

誰と繋がっているのかが大事

だそうです。

 

え?!コロナで誰とも繋がっていないと気がついてしまったことが孤独をしみじみと感じるようになったきっかけですけど? と思う方もいるだろう。そもそも繋がるってどういう意味?とお感じになる方も居るかもしれない。

私も、(繋がるとは?それはどういう意味で?)と視聴しながら思いました。

 

答えとしては、

感謝の気持ちを持つ

ということが =(イコール) 繋がっているという事だと解説されていました。

簡単な入り口を勝手に創らせていただくが、あなたが繋がりたいと思っている方に感謝の気持ちを持つ。ということからスタートしたらどうだろう? イメージしやすいのではないだろうか?

 

今のあなたはどうですか? 感謝の気持ちがありますか? 自分の傷や不満しか意識に登りませんか?

私は以前も書いたのですが、一日最低1回、感謝する時間を設けているのですが、どうやら結果的に良かったようだと番組を視て思いました。

(一日のうちに、その設けた時間以外にも感謝の気持ちが湧いてきますけれど、慌ただしい日などはついついダッーーーと流されてしまいます。流されている時は自然に感謝の気持ちが湧くということが少ないみたいなんですよね。)

 

だからなのか? 確かに孤独で苦しいという感覚は今は無いです。 有り難いことですね。(将来は分かりません)

元々、過剰に孤独を感じないタイプなのだという自覚もありますが(というより、孤独を「もう しょうがない」と諦めている感じに近かった)、「繋がっていると感じる」というのは、確かにそうだなぁ と。

 

ゆっくり行きましょう

弱さを認め、苦痛を苦痛としてちゃんと感じ、直視するということが番組でも推奨されていました。

私もカウンセリング・セラピー・ケアなど全然知らない時から、これらをやり始めていました。自分の醜さも(あぁ 厭だ)と思うものの見るしかなかった。

それが実を結んだのか、今は楽です。

 

人それぞれ、向き合う時期があるでしょうから、ゆっくり行きましょう。

サポートを受けましょう。

助けて!と言いましょう。

何を感じているのか言葉で発しましょう。

 

・・・つづく

 

(2021/08/08)

 

 

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