楽になる手っ取り早い方法を知りたい?

楽になる手っ取り早い方法はあるのか?

前回のコラムと

ストレス反応をカラダの反応で確認する。その使い方と生き方の好みについて。

 

こちらのブログ

 

上の2つを合わせてまとめたような事を今日は書いていきたいと思っています。

 

出来事から「自分を知る」

私たちは一人ひとり身体も違えば価値観も違い、人生には人生観が大切だと思う方も居れば、別に人生観などには興味のない方もいる。

好きな人、周りにいる人と価値観が一緒だと思いたい時もあれば、それは自分を無条件に受けいれて欲しいという願いが姿を変えたものである場合もあり、自分の欲求に夢中で相手のこと(好みや価値観)をまるで知らないということも忘れていたりします。そんな時は、相手が話していることなど、聞いているつもりで聞いていないことが多いようだけど、面白いことに(好きだからこそ)「しっかり聞いており、全て覚えている。相手の事をわかっている。」と思うみたい。

きっと誰しも大なり小なり同じなのだろう。

 

価値観が一緒が良い(価値観が一緒だと考えている)というよりも、相手が自分に合わせて欲しいだけという事だってあるだろう。無条件に自分の欲求を満たして欲しいと潜在的に求めている人は多いのではないだろうか? というか、そういった欲求が無い人はどの位存在するのだろうか?

 

無条件に自分の欲求を満たしてもらう事が愛だと感じるということもあるだろう。赤ちゃんたちはそうやって発達していくが、「愛」という概念もない状態のその時代と、ある程度成長した後のそれが全く一緒という時は「発達」という面から考えてみても良いと思う。

 

 

子ども時代はそれが当たり前で、成長するにつけ、友達が自分に合わせてくれなくて傷ついたり、主役が自分に回ってこなくて注目されなかったりしたり、色んな立場を経験して、他人と自分を学んだり、社会の中の自分を体験したりする。

自分の欲求が無条件に受け入れられないという、当たり前と言えば当たり前のことを学ぶが、これが当たり前じゃなくて、非常にキツク感じる方も居る。何歳になっても、自分が無条件に承認されないと捉えてストレスが募るばかりだという方もいる。

しかし、あなたに嫌な事や許せないことがあるように、相手にもそれらがあるのだという想像力をうっかりと忘れてしまうこともあるし、元々そんな想像力を持つ気が無い方もいるようだ。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

人生観と関わっているような気もするが、もっと基本的な脳のタイプや成熟や発達ということに由来するんだろうと考えています。

 

自分の視点だけなのか、それに加えて、相手や他者の視点などを想像するチカラが有るのか?ということにも関わっているだろう。

自分だけの視点のみの場合は、メタ認知という感覚を感じる事は非常に困難だろうと思う。メタ認知などなくても全然人生は過ぎていくし、メタ認知がご本人の幸せを保証するわけでもない。なくちゃいけないものでも無いことは書いておきたいけれども。

ついつい自分を忘れちゃう。ついつい飲み込まれちゃう。それはメタ認知と関係が?

 

こういった事を学ぶチャンスとしては、人間関係で失敗と感じるような「引っ掛かり」も大切だろうし、嫌な目にあったというような「引っ掛かり」も大切だと思う。

というか、そういった苦い体験をその後に活かしていこうとする「自分の人生の今より先」を頭の片隅に置いておくという意識が結構大切だと考えています。しかし、感情の影響が強い方は、「その先」が考えにくいようだということも学んだ。

感情にグルグル巻きになると、時間が止まって、自分が受けたショックにしか視点が行かない。というか、他を考えることができないみたい。感情に脳が占領されてしまうようだ。だから、他者の視点に意識を向けてみようと思う日が来るには少し先になるか、その日は来ないかということのようだ。

 

と、ここまで書いてきたときに丁度内容とシンクロするシーンがあったのでご紹介したい。

映画「タクシードライバー」

本コラムを書いている最中に小窓で流していた

映画「タクシードライバー」で、ロバートデニーロが演じている男性が、好きな女性を

「これはアベックが観に来る映画だよ」

と誘ったのは、なんとポルノ映画だった。女性は一旦映画館に入り席に着くものの、スクリーンを少しの時間見ただけで気分を害し映画館を出る。

女性「こんな映画大嫌いよ」

デニーロ(が演じている男性)「君が嫌いだと思わなかったので・・・もし分かっていれば・・・」

といったやりとりのシーンがあるのですが、

これを(まさかこんなピントのずれたこと俺は(私は)しない)と鼻で笑う事無かれ。大なり小なり他人の視点・価値観を忘れるというのはこんなことです。映画はデフォルメされていますが、世の中はこんなことで溢れている。

 

こういったことが溢れることが前提だと思っていると、

ショックや不満だけにいつまでもとらわれず、前述したような「その先」を念頭に置いておけるような距離感が保てるような気がします。

他者の尊重とも言えるのかもしれません。

また、誰かがあなたの好みや価値観を知らずにいても(そりゃそうだろうな)という前提に立っていれば、過剰に傷ついたり、怒ったりする必要もなくなる。「イヤだ」とか「どうしたい」ということを伝えたら良いですし、伝えても理解されないことなど生きていれば幾らでもあることも知っておくと良い。お互い様だ。

 

上手くいかなかった人間関係は、他者の視点を知る(それも100人居たら100通りですよ)機会に恵まれるというラッキーにも繋がる。ただ、他者に興味が無ければ、自分の傷にばかり意識が向くから、時間が経って振り返っても、(あれは自分に気がつくラッキーチャンスだった)とは思えないかもしれないね。

 

 

ですから、長い目で見た時に、「窮しない」ことばかりが幸せとは限らないんじゃないかと思うんですよね。個人的に。

 

ですから、自分探しの旅と言っても、遠方や外国を探し回るばかりが策ではなくて、目の前の、今の環境の、自分の周囲の方とのかかわりあいから「自分を知る」という超お手軽、最短方法があるんですよね。

 

 

 

欲を無くせば幸せか?

私は修行を生業とした何かに属した修行僧ではないので、欲を無くすことが幸せでは無いだろうと思っている。そういう意味で、自分を無くすことも私にとっては幸せではないような気がする。

しかし、欲を無くすことが目的の人生だってあるだろうし、自分が無くなったら(無くしてどうなりたいのだろうか? いつの日かどなたかにしっかりお話を伺ってみたいものだが、無くしたいのではなくて得たいものが得られないという葛藤ではないかと想像してもみるが)、それが求めていた結果だと思う方もいらっしゃるのかもしれない。

人生の選択は様々だ。

 

こんな私も、遥か昔は求めていた。

 

悟りと言うイメージに救いを求めるとき

 

ブログにも書いたが、どういった手順、対処、プロセスを経たら良いのかわからない時に、私たちはいきなりな「結果」だけを慌てて求める生き物なんだろうと思うようになった。

 

  • 胸やお腹になんだかポッカリと穴が空いている。→ じゃあ何かで埋めちゃえば良いんだ。という具合だったり、
  • 寂しい! 将来が不安だ! → 誰でも良いから結婚しちゃえ。

などと共通要素がある。

 

手っ取り早く。手っ取り早さ。

がキーワードだろう。

  • 成功哲学の講座に行ったら成功する。

と考えることもありますよね。

 

割と多いような気がするのは、

  • 悟りを求めるあまり、妙なことになっていく。
  • 自分の空虚さを埋めるために、余計にこじれていくようなナニカを体内に取り込んでいく。
  • 寂しさや不安を解消するために結婚して、結婚後数年経つと何かと苦しくなる。余計に空しくなる。

こんなことも多いような気がします。

 

あくまでも個人的な体験談にしかならないので、法則などとは全く異なりますが

胸や腹や自分の傍らにとても有り難い「存在(という表現もしっくりきていませんが)」感じられるのは、自分の中の空虚さが消えたと感じた後です。

 

ですから、崇高なナニカを求める気持ちもわかりますが、それは結果の方であって、プロセスとして「自分の心体のストレスケア」が先です。空虚感や虚無感は一生消えないと信じておられる方の気持ちもわかります。私もそう思っていましたから。ですが、自分が満ちたら虚無感も空虚感も消えることってありました。

慌てるあまり当初想定していたイメージとはまるで順序が違っていました。

 

 

こうなると、触れ込みだけは有り難そうだがその実得体のしれないナニカを取り込んだら「満たされる」と勘違いするような事もないし、そういった事とは全然感じ方が違い、自己製造のイメージだけの安心感ではない「本当に安心するってこんなことなんだ!」というような感覚も味わいます。身体感覚を伴う絶対的と言いたくなる様な安心感ってあるんですよね。

 

 

人間の体感としてこんなことがあるという事を私は知らなかったし、知らないから求めていなかった。こういった事は求めて取りに行くのでは手に入らないのかもしれない。熟した果実が万有引力によってポトリと落ちてくるような仕組みなのかも知れないが、じゃあ待っていたら良いのかと言えば、私はこんな感覚があるとは知らなかったのでそもそも待っても居なかった訳です。

 

アレコレと余計な情報を取り入れずに、ただ生きていて、ストレスケアをしてきて良かった。

前情報を取り入れ過ぎたら、待ってしまうし、探してしまうもの。多分私はそうだろう。

 

いや、生きている間は悟れない、悟れなくて良い!とスッパリ諦めることができた(特技か?)ことが、人生の後半で非常にレバレッジが効いてきたので、もし前情報があり過ぎても「もう待たない!」「探すのやーめた」と待つのをやめたり、探すのをやめられた可能性もあるかもしれないね。

無欲は勝利?

別に誰にも勝っていないし、勝ち負けゲームもしてもいないし、あえて言えば自分に勝つためにと言えるのかもしれないが

「無欲の勝利」ということは一理あるんだろうと思う。

無欲と言うより、無知の勝利と言う方が近いケースって多いと思う。知らなければ欲もわかない。囚われる対象が無いというジャンルに含まれることってあると思う。

天職とか適職という概念が無ければ、それを得たいと思って探すことも苦しむことも社会から少なくなるのではないだろうか?と遥か昔、この概念に囚われていた当時、思ったものだった。誰がこの考え方を世の中に広めたんだろう?と。(個人的に考えただけですが)

 

アダムとイブがリンゴを食べる前と同じか? 違うか?

 

「無欲」も使いようと言えるだろうか。

そういう意味では、「諦め」も使いよう。

脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその2

 

手っ取り早さも良し悪しなようだ。

手っ取り早さを求めるのも良し悪しなようだ。

 

 

あくまでも個人的な経緯を書いているだけです。

読んで下さっているあなたは、あなたのお好みの人生を引き続き送ってください。

 

唯一無二だと感じる安心感をカラダの中に感じると

冒頭でシェアしたブログに書いたような、唯一無二だと感じる安心感をカラダの中(と傍ら)に感じると、寂しさが薄くなりすぎるのである。(笑)

というか、もし寂しさを感じても、またあの安心感を思い出せるし、非常に有り難いという感謝が湧くので、(胸や腹や頭の中)全体がまた 幸せだなぁ 有り難いなぁ と満たされる。これこそ無条件なんだよね。

 

だから、寂しさを埋めるために、誰でも良いから恋人が欲しいとも思えないし、将来の不安を解消したくて(安心したくて)結婚をしたいと思うようなこともなくなってしまう。

女性としては、なかなか末期なような、ラッキーが高じてこじれているような気がしないでもないが、もうこちらも万有引力で自然にポトリと落ちてくる果物だと思うようになった。「待つ」というより、これはあの馴染みのある「諦め」だろう。

寂しさが、つきあう人を探す・出会いを求める動機にならないという事は、動機も目的もないということになり自ら探すという行動ができない。また、こんなに安心感に満たされると、ただ寂しくて女性を求めているような方と出会っても、話がかみ合わなくて無理だろうという予感をビシビシと感じる。独身であるのに、非常に幸せな結婚をしているような不思議な感覚があるから、こういったことに興味が持てない。だからこそ、未婚の女性としてある意味非常に難しくなってしまったとも言えるような気がしている。

 

決して勘違いはしていないし、現実を認知はしていますが、感覚が不思議な事になっています。

 

めっちゃありがたい人生の僥倖により欲求を減らしてしまうことになるという・・・。

今はこのような感覚ですが、この先今より弱っていくので、また感覚が変わることがあるかもしれません。それもちゃんと受け止めていくつもりですが、この先も「一生護られているというこの感覚」は忘れることはできないと思う。

 

「これでいいのだ」。

今現在は「これでいいのだ」としか思えないから しょうがないかもしれないが「これでいいのだ」。(笑)

余談

ちなみに、映画「タクシードライバー」を過去1度観た事があり、「タクシードライバー」と言えば、ジョディ・フォスターだと記憶しておりましたが、なんと主役はロバート・デニーロ。

最初にこの映画を観た時は(ふーん)という感じだったが、長い月日が経ち、この映画を(これは興味深い)と思えるようになりました。

私も変わりました。

(2021/07/23)

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