脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその2

常識なのか、それともそうではないのか?

前回の記事の補足と続きを書きます。

脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその1

 

修羅の一例

私が娑婆を修羅のように捉えた話は以前にも書いた。

その時は「蜘蛛の糸」の話として登場している。

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

 

今思えば、小学生の私は、物事の一面は確かに捉えていたように思う。しかし悲しいかな、小学生の私にはそこに「光明」や「希望」を見つけることはできなかった。

 

ふんわり物語も、お姫様物語も、ハッピーエンド物語も読んだし、勧善懲悪も好きだけれども、目の前の「現実」をより一層重視すると(やはりこの世は修羅ということになるよな)と連想していたんだろう。 

 

そういう意味では、解離も逃避も誤魔化しもしていなかったのかもしれない。そして、子供時代の経験と体験では視点を増やすにはまだ至っておらず、(さぁ どうしたら良いのだろうか? 競争に勝ち抜くという執念が欠落しているような、勝ち抜く能力がないようなこの私は一体・・・。 はてさてどうしたものか)という年月を結構長く過ごした。

 

完全に開き直って、気にしないという境地まで至らないし。

こういう時ってなかなか苦しいものですよ。

 

自分は何も残せない。生きた証がない。と悩んでいますか?

 

 

というような過去のコラムやブログとの関連性を補足しておきます。

 

常識反抗期

良い子思想は私にもあって、それもまた自分に苦しみ発生装置みたいな役割となってしまったこともあったんですが(今も善い人でありたいとは思っています。良い子思想じゃなくてね。)、常識を疑え!というか、世の中にはいろんなトリックが隠れているようだぞ!と思うようになりました。

 

常識反抗期が到来。

 

このような視点が、自分が何に囚われているのか?ということを突き詰めていく時に役に立ちました。

ですから、今でも歴史があるとか、立派な人がおっしゃるには。というような、いかにも正当性があるんですよ。というような独特の圧力を含んでそうな事象には反応するし、

素晴らしい思想ですよ。というものの玉石混交ぶりにも反応しちゃってる。

それは陰謀論も同じで、「これが正解ですよ」という妄信とは距離を置きたい。

 

正解かもしれないし、間違っているかもしれないことを信じるのは各自の自由だが、それに同調しないからといって圧力をかけてくるようなやり方や、感情のぶつかりや激しさとは距離を置きたい。それが必要だと思えば別ですが。

 

あなたはそれを信じているんですね。とお互いの違いを確認したら良いだけなんじゃないの?というようなことです。少なくとも、私は正解を知らないことが多いから。

 

世の中は色々なもので構成させていて、嫌いなものを排除したら自分が幸せになるわけじゃないと考えています。嫌いなものや気に入らないものを全て排除しても、自分の内面が満ち足りていなければ、次なる圧力をかける対象を探すし、何かに感情をぶつけたくなるほどストレスは溜まる。

 

条件じゃないんだ。と思うのは、こんな時も思います。

 

 

不満って環境由来じゃなくて、自分発生だというのはどのくらいの割合だろうか?

あなたはどう思いますか?

なんと!熊野信仰

前回のコラムに「ケガレ」ということについての私見を書いたのですが、脳内に宇宙図書館を内蔵されている荒俣宏氏の書籍を読んでいたら、同じことが書いてありました。

本を読んで思ったのは、

私の考え方は熊野信仰的なのかな?とも思えた。

 

それは熊野信仰の方向性として(時宗も登場していたが)

浄不浄を問わず

女も病人も問わず

信不信すらも問われない

と書いてありました。

 

そして、私が常識反抗期の時に、神聖な場所に女が入ると不浄になるという常識やルールを(私が何をどう思おうと、そういう歴史があり、今もそれがルールになっている場所があるのだな)と捉えていたんですが、荒俣宏氏の書籍にはその長年の「そういう歴史なんだ」に「またしても途中で誰かが勝手にルールを増やしたんだな」を含んでの「そういう歴史なんだ」に変わりました。笑

 

女は聖なる山に入れないという制約。あれは律令ができて以来の新しい文化であって、それまでは山には女がたくさん住んでいた。

ということで、女性も強力(ゴウリキ)をしたり、一人暮らしもした。そうだ。

 

多分、今時使われている、男性性と女性性という言葉の意味も、少し遡るだけでひょっとしたら意味が違っているのかもしれない。そもそも「男性性と女性性」という概念も近年生産された思想なのかもしれませんよね。

今時の「男性性と女性性」という概念には、王子様とお姫様的な物語(意味づけ)が過剰に投入されているような気もする。

上位概念

私は、自分が感じていることを正確に言葉に変換できないことも多かった。

読書をすると、すでに言葉になっていることを知るチャンスになったり、動画などでも おおぉ! という発見があったりする。

それだよ! それをどう表現したら良いいのかを今初めて知ったよ! というラッキーチャンスがある。

 

私個人的には私なりの信仰心はあるが、それは凄くシンプルで決まり事はない。

決まり事やルールを決めているのは自分だという自覚のようなものがあり、どこかでグンニャリと曲がってしまった可能性が高い伝聞や経典ではなくて、私が直接神様的な存在から何かを聞かない限りルールにはしないが、神様的なナニカは在るんだろうと思うような仕組みになっている。

自分が守りたいことは守るが、それは自分の意向に依っている。その自分の意向にはもちろん馴染みすぎて境界がわからないような既存の宗教的思想や教えの自分なりの脳内リミックスだという自覚もある。

 

脳内リミックスについて 

  ↓

これまでの自分を疑い、新しく生まれかわる勇気を持つ

 

 

そうなると、私の変化としては、絶対視するものを厳選しているというようなことになっているんだろうか?

どういうふうに書けば良いのか自分でもよくわかっていない。

 

そうですねーーー うーんと、

人生訓と自分なりの信仰心は別物なんです。

もちろん影響し合いますが、ごちゃ混ぜにしていると人生が複雑になるような気がしてきたので、整理したというか、シンプルな形に戻したというか。

いや、これもちゃん表現しきれていない感じなので、将来への宿題にさせてください。

 

 

そして、この項で書きたかったのは、

他人様が作成した神的な上位概念に自分をはめていくのではなくて、ある時期から私は神という上位概念をある意味人生訓などと並列に扱うようになったんじゃないかという自分の変化です。

 

並列に扱う時点で、もう上位概念では無くなっているのかもしれませんが、神様的なナニカは私の中に存在していますし、有難いと感謝をしています。

 

話を1つ前の項に戻しますが、熊野信仰は

神という概念ができるよりも古くからあった山の暮らしを踏襲

されているそうです。

 

こういった文章を読むと、私が神という上位概念を他の思想と並列に扱っても特には問題がないような気がしたんですよね。

 

信仰をされている方は殉教者であることや修行はとても大切な意味を持つと思いますが、人生を大切にしよう。ということの優先順位が高い方は「自分の暮らし」を快適にするためにストレスケアをされたら良いんじゃないかと思います。

 

そういうことも含めて、自分の人生をどんなふうに過ごしたいのか?をお考えになるのも1つではないかと思っています。

 

精神保健福祉士・心体カウンセラー 武田美紀

(2021/07/04)

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