自分を整えていると自分を客観視できるのか?
自分を整えておく。について
前回のコラムの続きになります。
メタ認知という言葉が良いですか? 客観視という言葉が良いですか?
上のコラムにもいろいろ書いていますが、今日のコラムはここ最近書いてきた内容を取り入れて書いていきます。
というのも、こちらのコラムの内容を書いたあと、ふと (あ! メタ認知というのと似ているのかもな)と思いついたことがありました。
この中の
強い磁力でパルスを与えると、幽体離脱と言われるようなモノの観え方もするそうだ。(実際に幽体離脱をするという意味ではない)
の部分です。
私自身も経験があるのですが、悩んでるときって視野が狭くなっていませんか? 色々考えているつもりでも、結局自分の反応した出来事や人物、言葉、感情に囚われてしまっていて色々考えているつもりでも、結局それしか考えていないことがあります。同じループをこれでもかこれでもかと繰り返しています。時間は全然進んでいない。
誰にでも起こり得ることですが、囚われ方が強い方や弱い方という違いはあるようです。ループしている時間の長短とも言い換えられますが、何十年も囚われているケースもある。好きと言う感情も、囚われすぎると最早好きでもなんでもなくなっていて、感情も消失しているのに、記憶の中だけでループしており、既に形の変わっている関係が全然目に入ってこない場合もあります。 遥か昔、芸能人同士のカップルさん達が非常に話題になり、その後2人は別れたというようなニュースがありました。その別れた後、女性の側が非常に正直な心模様を語っておられた。それは「世間が騒ぐから、もう意地になっちゃって、好きという気持ちが薄らいでも意地を張り続けていました。」という語りでした。 この場合は、相手の方を好きだったが、世間や世間にどう評価されるかに囚われが移った一例になるかと思います。ヒトからどう思われるか?に囚われたり、損得に囚われたりすることって誰にでもありますでしょ?
知らず知らず、気がつかないうちに自分の興味をもっていたものが変化していることってありますよ。当初の目的を忘れて目の前のものへの反応にすっかり替わってしまっている。先ほども書いたように、相手を見ているのではなくて、世間や社会に対する意地・反応が取って代わっているというような事ですが。 そして、自分の心地良さよりも「意地」が最優先になっていることに気がついてもおいそれとは行動は変えられないという方も多いのではないでしょうか?
変化する事がOKならばなんの問題も無いのでしょうが、自分が焦点を当てたい「核」がズレていること(ズレた事)がまた更なる悩みを生み、複雑化し、新しい囚われ・執着を生むこともあります。こんな自分に気がつきやすくなる時に「自分を客観視した瞬間」「メタ認知している最中」などがあると考えています。「気がつく」ってこんなことだったりしますね。 囚われて近視眼的になっていた思考が(あ! なーんだ!)とパッと晴れ渡ったように感じる瞬間で、一種執着の糸が切れたときですね。
好きも嫌いも、同じように反応が起きて、客観視、メタ認知、気づきが起きるまでは時間の長短の差はあれど執着・囚われから解放されないことって多いですね。
「思い込み」という言葉を今更ですが、言い得て妙だなと思いました。
好きも嫌いも構造は似ていますね。
好きも嫌いも過ぎるとなにやら特徴的な反応が起きてくるようです。
ですから、思い込みの小さな小さなループの輪が壊れて、大きな循環に形を変えるというような変換をイメージしてみても良いような気もします。
その際に、おそらく「バランスが整う」(OFFがONになるというだけではなくて)ような生体磁気・磁場の変化があり、健康を促進するような電圧になっていくのではないだろうか?
これを、ニワトリと卵の先説的に表現すると、
適した電圧がかかると、視野・認知にも変化が起きる。それが客観視、気づき、メタ認知というような意味になることもある。
という言い換えもできるな~なんてことを思いつきました。
あ!そうか!と気づく回路を創る
感情に左右されやすいと、客観視、気づき、メタ認知というようなことが苦手な割合が多いようだ。
心中が穏やかな時はこれらも出来やすいが、ひとたび感情的になってしまったり、何かに囚われてしまうともう忘れてしまう。忘れてしまったのなら思い出せば良いだけなのですが、ここが「感情と記憶の連動回路の連結」が強いため(時には強すぎるため)になかなか思い出すに至らない。感情に飲み込まれてしまうようだ。
反応が硬いというか、反応の柔軟性が低いというか、もう少し感情と記憶の連結具合にアソビが出来たら良いんじゃないかな?と思ったりします。
では、一生そのままか?と考えてみると、私個人は「変われる」と考えています。
ただし、やっぱりそれは、新しい脳の繋がりを生み、習慣になるまで行動を続ける必要があるだろう。
私は生まれたての頃はかぶりのシャツ1枚自分で着られなかったが、今では見ていなくてもボタンが沢山あるシャツを着られる。こういった、出来なかったことができるようになるには数回バランス調整したから習慣になるわけじゃなくて、何度も何度もできるようになるまでやる。数えきれないほどトライする。という繰り返しが大切なんだろうと考えています。
子どもの頃に、ボタンがうまくかけられなくて心が折れた時もあったかもしれないが、凹んでも泣いても、親の手をかりても、結局できるまでやり続けた結果が今なんだから。そして、ボタンに苦戦した幼い頃の自分をほんの少し思い出せるが、それが今ではなんのストレスにもなっていない。(その後の数えきれない「自分でできる」という成功体験の威力の方が強いわけですよね)
そういう意味で、客観視、気づき、メタ認知というようなことが得意にならなくても、今よりは自分の執着や囚われ、思い込みに あ! と気がつく回数が増えるようになると思うし、達人にならなくても今より回数が増えたらそれが複利効果を生んで習慣になりやすい。
そういう繰り返しが必要と言う意味では、誰しも凡人であろう。
そのために、もし、生体磁気・生体電圧が整っていた方が習慣になりやすいという逆算思考を採用しても良いのならば
調理器具や生活必需品についてはそれこそ過剰反応を起こしたら元も子もないので各自のご判断にお任せしますが、必要以上にスマホを見たり触ったりするのを控えても良さそうだとご提案したいです。 暇だからわざわざ用事をつくってスマホを見ることも多くないですか? 暇つぶしのつもりが、案外弊害があるかもしれません。
たいして見る必要もなかった情報で感情が不安定になっては健康的から遠ざかりますもんね。
目も疲れますし、視覚情報への耐性が育つ暇もなさそうですし。
情報をインプットしているつもりが、ただブルンブルンと振り回されているというような可能性はありますか? 心当たりがあるのなら試しにその行動を変えてみてください。そして経過観察してみてください。
まとめ
今日の記事は、自分を整えていると自分を客観視できるのか? について考えてみたのですが、私の答えとしては、自分を整えて、新しい習慣を身につける努力・練習・訓練をしていると自分を客観視できる土台(脳)ができそうだ。というものでした。
心体カウンセリング・セラピー・ケアの際には、どうやって練習していくか?ということも対話しています。
今回は「客観視、気づき、メタ認知がどうも苦手なので自分のスキルとして身につけたい方へ」という内容でした。
日々の生活も、適度な運動も含め、睡眠の質も、栄養、ストレスケアなども含め、健康的にお過ごしくださいませね。
(2021/06/14)
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