生き急いでしまう
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はじめに
今日のテーマは「生き急ぎ」ですが、これについて書く前に1つ私の方向性について確認させていただきます。
私は私なりに色々と見て、聞いて、体験して、考えて、検証し、(一体私はどうしたいだろうか?)と考えて、決めて、自分なりの価値観やMy統計、自社データをまた検証し、また、見て、聞いて、体験して。というようなことを繰り返してきましたし、これらも同じだろうと思います。
それに伴ってというか何というか、コラムにも割と信仰や〇〇教や、〇〇道や、教えや思想ということが多く登場しています。コラムを読んでくださっている方は既にご理解頂けていると思いますが、私個人は決してそれらをお薦めしていません。
お薦めするほど、私がそれらを理解していないし、そういった考え方に基づいて行動を決定していないからです。そう言ったものに絶対的に従っていたいという気持ちもない。
いろいろと試行錯誤しながら生活を続けてきて、結果それらの教えや伝えたいことと似てきたようだ。と言える部分がある様ですが、「気がついたらそうなっていた」という事が時々あるようですね。という程度です。
それは、脳科学的なことや、神経学的なことや、人智学的な視点、物理や科学、量子学的な内容を、個人的な実体験を通していつの間にか理解していたことと同列です。
悟りとはなんだろう?ということを世の中に問いたい気持ちは0(ゼロ)です。
どちらかといえば、日々の生活や自分の人生に興味を持っていたいというタイプです。
そこには、コラムにも書いた
- 「慈しむ気持ちとは?」や、
- 「苦手な(例 人間関係やコミュニケーションなど)ことにどうか変わっていくか? 関わらないのか?」や
- 「自分にとっての大切なことはなんだろう?」
ということなどがストレスケアを利用すると
- 雑念が消えやすいという変化があったり、
- その結果クリアになった思考や視点を回復したり、新たに装備して、
- 「わたし」「おれ」「じぶん」の方向性や方針を考えていくのはどうでしょうか?
ということを発信しているつもりです。
このような個人的な方針が、今日のタイトルと関連しているような気がするのは、
「自分の人生をしっかり生きずに、悟りなどを求めることも時にはいき急ぎになるのかも知れない」ということでした。
しかし、この「自分の人生をしっかり生きる」ということこそがおそらく難しいのだと思う。
自分の人生をしっかり生きたいがために悟りを求めている方もいらっしゃると思えるからです。それは信仰的な理由があるのかもしれないですし、帰依されている方は目的がそうなるんでしょうか?(正確な意味合いがわからなくて申し訳ありません)
話を戻しますが、ひょっとしたら「自分の人生をしっかり生きる」という事自体が
あまりに当たり前で、単純すぎるために、私たちが見えなくなってしまうことの一番なのかも知れない。最初に見えなくなってしまって、気がつくのは一番最後?
複雑なことはハクがついて見えて、単純な事は軽く扱われたりすることは多いです。
しかし、こう言った「自分の人生をしっかり生きる」ということに日頃気がついていられたら、それはとても素晴らしいことだと思えていて、一番最後にしか気が付かないのはとっても勿体ないなぁと思えるようになった。
生きているうちしか出来ないことは多い。生きている時にしか感じられないことも多い。
生き急いでそれらが見えなくなってしまう、気がつけなくなってしまうのって勿体無いと思うのは私だけではないと思う。
生き急ぐあまり、大切な事が先送りになっているというパラドックスのようなことが起こっていないだろうか?
これも書いておきたいのは、私個人は信仰や宗教や教えや思想ということについて、知らないことが多すぎるので特定のものを勧めないが、私が身内に聞いたような「それらの集大成として今の日本の安全・平和がある」というようなことを武田邦彦氏が伊勢神宮を参拝されたお話を話題にされた際に「日本人の幸福」というような内容で同じことをおっしゃっていました。(Podcast)
有難いことです。
歴史の恩恵を預かっています。
感謝するばかりです。
そして、今日のコラムの本題は、こちらの記事の続きのような役割も担っています。
https://takedamiki.wpx.jp/20210120/
こちらは以前書いた外部ブログの記事です。
書籍「不幸になりたがる人たち」
こちらの書籍を読めば読むほど、
「今を生きる」などというのは、書くのも言うのも簡単だけど、なかなか難しいということが理解しやすいように感じた。
目に見えるストレス源に、見えないナニカ(運、守ってくれるモノなど)まで入り組んで脳内のストレスや感情は休む暇もない。
著者と似ている部分
複利曲線という話を以前書いたことがありました。
著者の春日先生は、運勢曲線と書かれていた。
表現は違えども、フラクタル図形論的には、主旨は似ている。
(以前、春日先生は相似形とは表現されても、フラクタルという言葉は使われていないと何度かコラムやブログに書いていますが、この書籍を読んだら、思いっきり「フラクタル」と書かれていました。私が読んだ今までの書籍には無かった表現だと思っていましたが、それは単に読む順番の話でした)
また、ある時にこんな会話があった。
山の上に有り難い神社があったとしましょうか。
その山頂の神社へ行く際に、
- 乗り物に乗って楽に上がれるロープウェイ
- しんどい思いをする山道を歩いて登る
という選択肢が会った時に、私の友達が 2.を選びたくなると話した時に、その会話を聞いていたBarのマスターが「リスクヘッジにね。」とおっしゃった。友人は「リスクヘッジ?なんの?」と聞いたので、差し出がましい私は「マスターがおっしゃっているのは多分 運よ」とついつい言ってしまった。
そう、リスクヘッジという観念が特に無くても、無意識にそういう思考に基づいた行動をしているものなんですよね。
そういうことを、この書籍にも分かりやすく書かれていた。
精神のアキレス腱
春日先生が精神科医として気がついたことを
人間にとって精神のアキレス腱は所詮「こだわり・プライド・被害者意識」の3つに過ぎないというまことにシンプルな事実である。
という、単純明快な文章にしておられた。しかし、これがなければ人は何も成し遂げれない。ということも書かれていた。
そして、
被害者意識もアルコール依存症のような依存症だと考えるのが正解で、それを手放すよりも堪能することを選択する人は世の中にいくらでもいる
ということでした。
となると、「酔っ払うことが好きな脳の傾向」ということは、その嗜好が依存であったとしても、それを知識として知っていたとしても、「私は」「俺は」それを堪能したいということが最優先の選択であろうということをちゃんと理解することが良いと思いました。
それがジャンルで分けた時に「不幸になりたがる」思考や行動ということであったとしても、それは他人が勝手にジャンルに分けただけで、ご本人にとっては最優先の一択であり、他を選びたいという気持ちがない。という事でありましょう。
それはご本人が「快」をそこに感じるからですものね。
アルコール依存症も否認の疾患と言われていますが、依存と言うのは「快」であり、その「快」を手放しにくいのが人間のデフォルトであり、手放せるのは「努力」「自制心」「意識」が必要だという事なのでしょうね。アルコールを飲むと気分が悪くなる「薬」を服用するという薬物療法もあります。
また、脳のタイプによっては、欲求に抵抗できないということもあるのでしょうね。
強引な単純化と具現化
私は以前、
ならば逆算して自分を無くせばいいじゃん。
と自分だけで試行錯誤しているのならまだしも、他人にもそれを正しい法則のように勧めるのは順番が違ってヤバいでしょ?という私見を書きました。
春日先生の文章には、私がヤバいと感じたその背景が書かれていた。
「これさえあれば」といった心性は、「これさえなければ」という心性と表裏をなす。どちらもこの混沌とし油断のならない世界を生き抜いていくための突飛な戦略である。すなわち、強引な単純化と具現化という意味で。そして、それは新興宗教が唱えるロジックにも近い。
と物凄くわかりやすく書いておられた。
私はただ単なるヤバイと感じる「嗅覚」とか「感覚」です。理由は脳内にあるのですが、こんなに分かりやすく言語化できない。そういったこともあり、すばらしい文章に出会ったので是非ご紹介したくなった。
私などは馬鹿なので、「ヤバイ洗脳」という言葉以外に感じたことを書こうとするとおそろしい長文になるのに、春日先生はこんなに短い。凄いなぁ。
物事の「質」とは?
また、以前、とても有名で、すばらしいと評価されている本に、100万回? 1万回? 連続で「ありがとう」と言わないと、その「ありがとう」は効果がない。というようなことが書いてあるのを読んだときに、(なんと残酷な)と感じたことがあるのですよね。
- こうやって勝手にどこかの誰かが(この場合は発生元が著者だとわかっていますが)ルールをどんどん複雑化していって、尤もらしく見えるようなことをするのも引っかかったし
- それにブルンブルンと振り回される方達を見るもの(なんだかなぁ)と思ったし
- この「結構多い連続して唱え続けなきゃいけない回数」に私なりに「不健康さ」を感じた。
- そもそもその方に慈しむ心のようなものがあったら、「回数」なんて関係ないことを知っているだろうし、連続して感謝を唱えないと叶えたい願い?がチャラになってまた振り出しに戻るなんてルールみたいなことを本気で法則だと信じるだろうか?
と私の得意な屁理屈が湧いて出てきた。笑
書いてある内容と、実際の方法がとてもアンバランスに感じて(ナニコレ?)と脳裏に浮かんだ。
著者の伝えたいことが「沢山感謝しましょう。」ならわかる。そういう主旨の内容っぽいことが書いてあったような気がするから。
ルールを完遂しないとチャラになる(元の木阿弥、リセットされる)なんて残酷なオマケって必要?という疑問が、私が書籍からグンと距離を置いた理由だ。
私も「こだわり」脳が発動してしまって、「回数?」「回数ってなんなの?」と反応してしまいましたよ。(笑) 積み重ねのカウントじゃなくて、チャラになるって? リセットされて0(ゼロ)になる? ナニソレ?とまで。
以前こちらの書籍を題材にコラムを書きましたが、まさにスルーできなかったです。
これも分かりやすく書かれていました
が、これも春日先生が当時の私の気持ちを既に文章化されていました。
それは、
強迫的に手を洗わずにいられない方が、その手洗いが次第に儀式化し、100回手をこすり合わせななければ駄目で、もしも手を洗っている途中に誰かに話しかけられたらもう一度最初からやり直しと行った具合に、スタイルは形骸化しやがて異形のものへと変貌していく。
という事例を挙げておられて
- 「これさえあれば」、
- これで普通の生活に戻れる、
- 願いが叶う
- 楽になる
と、
自分が直面している問題をこれらの行為にすり替え、肩代わりさせる。そしてご本人には救いがもたらされる。(もちろん、真の救いではなく「まやかし」に過ぎないところが問題なのだが。)
キッチュな新興宗教も、神経症の症状も、根底が似ている。
ということでした。
私が感じた不健康的な感じは、おそらくこういった強迫観念を促進するような要素や、そのエッセンスが含まれているからだったような気もする。「大切なのが回数???」と感じたのは確かだから。
やはり人間の心は弱いものなのでしょうね。強さもあるし、弱さもある。
手取り早く幸せになる法則があるのなら利用したいのが人間だと思います。私も過去(なんかショートカットできるいい方法ないかな?)(もっとある意味合理的な方法は無いのかな?)と思いましたもの。
ビジネス的なそういったショートカットはあると思いますが、それと人生の全体を同等と考えて良いのかどうかは私にはわかりませんが、人生のショートカットを求め過ぎると、返って厄介なことになっちゃっているようなケースも散見する。
段階を経ないと強くならないことってあるのかもしれない。
そのためには、知識、情報、勉強ではなくて、「自己学問」、人智学的なことが最も重要になるような事が。
そして、春日先生は、こう言った「人間だもの」的なことや、人間は弱いよね。というような脆弱性に安堵を覚えると書かれていました。
そうなんですよね。
私は過去、
「気をつけて!」「気がついて!」と言いたくなり、
↓
その後、「受容」ということが私自身には足りなかったという考え方になり、
↓
今では「みんなが自分の人生を生きているんだ」
ということになりました。
春日先生のような安堵という感覚ではありませんが、尊重していきたいな。と思うようになりました。
ですから、コラムに私が感じたことは書きますが、正解とか不正解とかは、神様に任せることなんだろうな。ということになっています。
友達と思えば「言う」「伝える」
先ほど書いたような、「ナニソレ?」などは、友達だと思っていたら伝えちゃいます。実際この「〇〇万回唱える説」を教えてくださった方にも正直な感想を伝えました。否定したいわけじゃなくて、友達なら「これオカシクナイ?」と私は言うな。という判断基準でしたけれど。
私が合っているとか、どうとかではなくて、「それホント?」と私が思った事をフラットに伝えるという意味です。結果私が考え方を訂正することだってあります。
先日も会話をしていて、彼女は別に私の発言を否定したわけでななかったけれども、彼女が私の言葉を聴いてフラットに思った事を言葉にしてくれたおかげで、(おっといけない)と気づけたことがありました。
友達とどっちが優秀でしょうか?という競争をしているわけじゃありませんので、「思った事、感じた事を言ってくれる、伝えて貰える」ということは有り難いことです。私も素直に聞けます。
ありがとう。や、感謝します。と連続で何回も唱えなくても、有り難いと気づけていることはありますよ。
友人の言葉を借りるのならば、「決められた回数唱えることが目的なのか? そうではなくて、大切なのはそれが何のためなのか?ということですよね。」ということでしょうか。
確かに、信仰や「教え」「教義」の中には、やり方や回数が大切な事があるのかもしれません。
私はそういった事も含めて、それらの考え方の真意や内容を存じ上げませんので、結果これらについてはなにもおススメしていません。
また、私が友達と思っても、相手がどう思うのかはわかりません。
私の発言などによって、「なんだよ こいつ」と思う事も当然あるでしょうし、「いちゃもん」と思われることもあるでしょう。
確かにお節介だったと反省することもありますし、嫌われるくらいなら何も言わない方が良いでしょうが、ケースバイケースということで私も正解を知っているわけじゃないです。
家庭環境のせい
今現在、かなりheavyな家庭環境で生育せざるをえない方、また、その環境で育った方について、家庭環境の影響から脱する方もいるし、一生その影響から脱することが出来ない方もいらっしゃいます。
何かのせいにし続けるということは、先述の「これさえあれば」「これさえなければ」という考え方になってくるわけですが、脱することができる可能性はあるということは書いておきたいです。
しかし、それをご当人が「望む」「決める」という事からしかスタート出来ないですね。
最後に
書籍の中には他にも、「ベテランとビギナーの差」などについて記述もあり、端的な表現でわかりやすかったので、ご興味がありましたらどうぞ読んでみてください。
自虐指向と破滅願望ということに興味のある方もぜひ。
私が好きでやっている「自主研究」についての解答やヒントがこの本にはまだまだあるような気がするので、この先も何度も読み返す予定です。
私はストレスケアを行う事で、「こだわり脳」が感じるストレスが軽くなっていけば良いなぁと思っています。
どうぞアイテム類を使わず、結果お財布にも優しいセルフケアもどうぞ身につけてみてください。
チャクラや五行という理論を採用していますが、思想的なものを講座でお伝えすることはありません。
メッセージ性もありません。
ルールは、「セルフケアをしよう」「ストレスを緩和しよう」という事だけで、どちらかと言えばサッパリしています。その分、ご自分で続けていくという自主性が大切になるのですが、どうぞご利用くださいね。
このような能力が育つとしたら、育ててみませんか?
(2021/02/12)