理想とのギャップに悲しむ という勘違い
考えに考えて、考えた
ハッキリと気がついた。
私は割と子供時代から、身体のどこか、心のどこかで、(幸せになりたいヒトが幸せになれない社会(世界?))に悲しみを感じ、当然のように、神も仏もあるのか?ないのか?なんて事にも考えがち及んだりした。
誰かや、ナニカに社会や世界を救って欲しいという願望もあったんだろう。
しかしそれは、「皆が 私の思う幸せ を当然望んでいるはずなのに」という大前提があるんだから。という価値観に基づいていた。
それなのに、なぜ心穏やかに暮らしていると思える方が少ないのだろう? もめたり、嫉妬したりが止まらないのだろう? ということもあきらめつつも、実はあきらめていないものだから、なぜだろう? なぜだろう? と考えて考えて考えた。
そうなると人間の心理ということや、精神の状態、倫理観や正義感や、常識とか思いやりとかも含めた人生哲学や、信仰や宗教という事もその考え事に含まれてきましたよ。その後、脳の傾向や脳の発達という事の関わりも加わったり、(詳しくは無いが)栄養だったり、睡眠だったりと言うことも仲間入りしてきた。
それはあくまでも、「私の感じ方とその理由になるもの」という視点が強かった。
もっと深く、より深く
ところが、もっと深く、もっと深く、もっと深く物事を見ていくと、「皆が 私の思う幸せ をとりたてて望んでいない」と言う事がわかってきた。これは割と目から鱗が落ちた。(まさかそんなカラクリが!)というような感じだ。
幸せの価値観は人それぞれ。
私がそれを見て悲しんできたような事も、当人は不平不満を言いながら幸せだと思っていたり、不平不満を言うその環境を実は望んでいたりする深層心理があると言うことも理解が進んできた。
それは、そのパターンをやめないという行動に現れていたのに、「やめたいのにやめられないんだ」と勝手に勘違いしていた。そして勝手に悲しんでいた。
実際は「そのパターンをやめたくない」または、「続けたい」というまるで逆の嗜好があったのに、「やめたいのにやめられないんだ」と勝手に思い込むことによって実際に見ている現実を私流に変換したり、的外れな察し方をしたりしていただけだった。
足るを知る。という言葉がありますが、足るを知ることを好まなければ、恵まれていても不満を見つけて意識をそこに集中させてしまう。完璧じゃないことに不満があると、幸福を感じる能力は低め設定になるのだろう。ご本人が低めに設定しているわけだから、他人が何を言っても影響しない。
かえって、(私を理解してくれる人はいない)という次なる完璧ではない部分に不満が出る。 私もこんなことを考えた事があるので、かつての自分を棚に上げて、それがダメだとも書けませんけれどね。
その理想との違いを、改善への行動力へ変換させて世の中を良くしていこう!と活動される方がいらっしゃいますが、実際に自分にできることは何だろう?と行動される方と、ただ「理想通りじゃない!」と不満だけを募らせていく方も また違うんじゃないかな。ということでしょうか。
前回のコラムに続けますが
ですから、前回サイコパスについてちょっと書きましたが、悪魔的な利己主義をやめようとしないその理由がわからなかった。
なぜなら、私には目には見えないものに対して畏怖の念があったからです。そう思うと、ブーメランみたいに自分に還ってくることが本当にあるかどうか証明はできないが、(そんなことがあったら嫌だな)というストッパーになったりするものです。こういったものは、信仰心だったり、倫理観などに影響されたものだったり、構築するものだったりしますよね。
しかし、利己主義ということは誰でも内包していて、畏怖の念があると言いながら(え?! それする???)というようなことだってあるわけで、そういうものにはバラツキがありますし、その線引きのセンスも人それぞれです。
それは、「信仰」と一言で言っても、戦う事が信仰では推奨されていることもあるし、無抵抗ですべてを甘んじるということが信仰で推奨されていることもあったりするので、ジョハリの窓のような表に落とし込むと、信じているものの序列やグラデーションが今よりもう少しイメージでとらえやすくなるんだと思います。
ということになると、人生の優先順位によって取捨選択が変わったりするし、サイコパスという特徴がなくても、もし信仰上戦う事が推奨されていたら、必要ならば悪魔的に痛めつける拷問のような事も「神に許されている」「神が望んでいる」と理解して実際に行うこともあるんだろう。それが正義になるわけだから。
ただ、悪魔的な利己主義者は、「大いなるもの」とか「神」とか、「畏怖の念」というような言葉を使った方が良いと判断したらそういった事も語ると思うが、しかしそれは、自分に利があるからであって、別に本当には信じちゃいないんだろうと思わせるナニカがある。ですから、フワッとしている方など比較にならないほど強固な「My灯台」を揺るぎなく持っていそうだ。
行動の一貫性と言った行動規範はなくても、「自分の利」というものは確固たるものが有るように見える。しかし、分かれ目はその先で、IQの高い、低いは、将棋のような意味の「何手先まで想定できるのか?」という違いでしかないような気がする。ですから、彼等、彼女等なりに感情に酔っぱらって、想定していた「利」を理想通りに得られないという「失敗」もあるんだろうと思っています。
こういった事に私は反応していて、畏怖の念などない、恐れを知らぬ傍若無人ぶりを、「倫理観の無さ」「性善説をいとも簡単に蹴とばすもの」として怒っていたんだと思う。私の中のその時の正義感に抵触するわけですからね。「本当はそういうことはしたく無くて、奥底では苦しんでいるのよね?」 と勝手に察していた自分の推量がまったく的外れだったことに怒っていたのかもしれない。思いやりの気持ちの的外れぶりを自分の「馬鹿さ」と置き換えて、悔しさに変わったようにも思う。
大袈裟に書くと、私が勝手とは言え持った思いやりを、それをいとも簡単に足蹴にされた。というような感覚や、反省もしないからパターンをやめることもない。という「良くなろうとしない その精神」(ただの精神論なのにね)が只 気に入らなかっただけなんだろう。
簡単に書くと、大きなお世話。ということになる。
こう言う事に気がついてからは、反応しなくなった。
そして、サイコパス的なことに翻弄されている側を「被害者」と感じていたが、(前回のコラムに書いたように)多くの場合は利害が一致している。ということも理解が進んだ。私は利害が一致している同士に向かって、一方に被害者というレッテルを貼って、「逃げろ」と頓珍漢なアドバイスをしたくなっていたことも。
「逃げろ」と頓珍漢なアドバイスをするその理由は、(これオカシクナイ?)と思ったら、サイコパスに対抗などできない私は逃げるからである。その道の天才にはかなわないし、勝てるかどうかを試すなどMyデータ的にも勝率データが無いためにしない。私はそんなに自分を過信していない。試すだけ無駄だったという経験があるからこそ、そこは経験から学んだ。
(幸せになりたいヒトが幸せになれない社会(世界?))に悲しみを感じていたと冒頭に書きましたが、それは(私の幸せ感と他人様の幸せ感が違う事を理解できず、きっと嫌なのに我慢して・・・と勝手な推量をして、勘違いをして悲しんでいる)という独り舞台だった。
しかしそれでも、
- 変わろう!
- 変われる!
- 変化しよう!
- あれ?なんかおかしいぞ?幸せってなんだろう?
と思い、これは自分発信じゃないだろうか? と気づきまで行く方は居るということも体験的に知っている。
その今までとは違う認知・価値観を構築しようとする際にサポートを必要としている方のサポートはしたいし、別に変わろうと思っていないが、積もり積もったストレス、痛みをケアしたいという方のサポートも良いと思っている。
どなたかを救おうとか、導こうという気持ちが私には無いのは、そんな事が他人の私にできるのか?という素朴な疑問があるからです。私の行った何かや、話した内容で(救われた)と感じて頂くような事があったとしたら、それはその方の内面の作用であって、私がそれを起こしたわけじゃない。それに、救おうとか導こうとして、自分自身が厄介な事になってしまっている方を数多く見ると、(おそらく、それを目指した時点でトラップや魔境のようなモノが付随してくるリスクがあるんだろう)ということが直ぐに頭に浮かぶ。わたしのような凡人などあっという間にそれらに飲み込まれていくであろうことは想像にたやすいし、お陰様でストレスケアには興味があるが、そういった「救う」とか「導く」という選民的なことには興味が無いのも幸いしている。
やはり私の価値観はあまり必要なくて、ご自身で求めている方向へ進み、実際に暮らしてみて、どう感じるのか? その先はどうしたいのか?したく無いのか?はご本人が決めていかれるのが良いと思っています。私自身もこういった経過をたどって、成長するとともにヒト様の価値観を受容するという気持ちを大切にしたいと思えるようになった。
ですから、悪魔的な利己主義者であろうと、悪魔的とまでいかないが多くの方の利己主義であろうと、社会に内包されていて、世界に内包されている。それが在るがままということででしょうし、導かなきゃと思う方も、救わなきゃと思う方も、よしんば以前の私のような「独り相撲」「独り芝居」であったとしても、それも内包されているという事になりますね。
個人的な意見を書くのなら、他人様の煩悩をなんとかしたい、救いたいと思うソレも煩悩だろうと思うので、それが正義かどうかはモノサシの当て方一つで変わるような気もする。それが悪いことでも無いけれど、他人様の救済をしたい方は、自分自身のストレスケアもどんどん行うことをオススメしたいです。
あぁ なるほど!
私は特定の宗教について信仰していませんし、致命的に知識が不足している。日本人として生まれて育つ際に身に沁み込んでいる教えのようなものはありますが、学問としてちゃんと勉強して理解していません。そのため、神道も仏教も道教も密教(これは仏教の1つのジャンルでしたか?)、陰陽道(おんみょう)的なものもちょっとずつ、ごちゃごちゃと箱に入っている感じです。
そんな私が、新年早々、家族と話し、半眼が話題に登った際に、それに続いて聞いた「とある」考え方に(あぁ なるほど! それはなんだか救われるな)と感じた。
それは、
「教え」で人が人を救おうと思っていること自体は難しいだろう。
でも、今現在平和に生活しているということは、(正しく教えが伝わっていないという可能性があったとしても)その功績はすこぶる大きい。個々が幸せ感を感じようが感じまいが、平和に生活していられるという社会を支えているということはとても凄いことだ。相対的な幸福度が高いじゃん。
という意見だった。
先に
誰かや、ナニカに社会や世界を救って欲しいという願望もあったんだろう。
という過去の私の感じ方を書いていますが、捉え方によってはもう既に、とっくに救われていたとも言える。
その救われている世界に生きながら、「救われたい」と思っているのだったとしたら、もう誰にも手が出せない。残っている方法としては、「本人が気づく」「本人が感じる」しかない。
長年 私なりになんだかこだわっていた領域に、その意見があまりにツボにはいったものだから ホントだ! (◎_◎)! と一瞬のうちに溶けてしまった。(笑)
ちなみに、会話の相手のウチの家族はとてもIQが高い(らしい)。
そのIQの高さを実生活に活かしているか?と言えば ???? だし、社会生活で生き延びていくという生命力のようなものは私の方が高いだろう。適応性という事とIQは連動していないかもしれない。
が、しかし、IQの高さを窺い知れるような一端(いっぱし)の意見は言う。評論家としては良い腕を持っているし、説明の仕方も端的だ。なにより、私の屁理屈にも対抗してくれる。(笑)
理想とのギャップに悲しむ という勘違い
タイトルが今回のコラムの全てを現わしているが、「理想とのギャップに悲しむという勘違い」とはこんな例もあるよ。という個人的な体験談でした。
- 目の前のモノを見る。
- 在るがままに見る。
- 現実を見る。
ということは、なかなか難しい時がありますよ。
視点や、価値観を増やしていく時に、独りの思考timeと他人様との対話timeの両方を大切にすると良いという事は確かだと思う。
あなたに既にそういった時には繊細かも知れない感性について話せる相手はいますか?
居ない。という方も多いかもしれませんが、あなたにそういう相手が将来現れることを願っています。または既に居ることに気づけることを祈っています。
居ない時は多くの本を友達にしてください。素晴らしい本は世の中に多いです。
今時はYouTubeが貴方を支える存在かもしれませんね。
もしよろしければ心体カウンセリング™ をご利用ください。リモート(オンライン)もご利用いただけます。
いつもしつこくて申し訳ないのですが、セルフケアも身につけて頂けると一層良いと思っています。
(2021/01/20)

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