ところで、コラムを書いている私は精神的に大人になり成熟したのか?
Contents
はじめに
前回のコラムの続きを書きます。
実は、この記事の続きを準備しているのですが、↓
前回のコラムの補足と現状報告をしたくて 今回のコラムを挟みました。
何もしないよりは、ケアをおススメ
「感情をコントロールしたい」と思った時に、すぐに取り入れられるテクニックで何とかなる場合もある。コーピングなどでも色んなスキルを紹介されていたような記憶がある。(コーチングではなく、コーピングです。)私も試しましたが、私自身はコーピングではなくて、今行っているようなセルフケアが回復というか、ケア完了までが早いです。
そもそも私はコーピングについては表面をちょっと触れた程度で、本当の奥行きを知りませんから比較をするのは間違っていますが、私の体感覚にフィットしたのは後者でした。
しかしこの感情のストレスケアのレベルを上げていくという考え方をした時には、ケアと共に脳を鍛える必要があると思う。脳を創り上げていくという感覚だろう。
脳を鍛えるってどんなこと?という事に触れています。↓
そこで、今はどうなのか?
精神的に成熟した大人になっているということは、多くの場合、感情にブルンブルンと振り回されていない状態が付属していると感じています。
で、前回のコラムで、キモは「恐怖」を上手く利用するという方法論をご紹介して、私のブレイクスルーという取り組みについて書いた。
そして、「行けるところまで行ってみよう」という私自身すら目的地を知らないくせに、そんな気持ちになっているという事も書いた。
そんなアホみたいなことを考えていた現在いい歳の私が、一体どうなっているのか?を書いておこうと思いました。
過去に似たことも書いていますが、感情の影響がどのようになっているのか? や、成熟についてはどうなっているのか? という現在地の確認をしておきたい。
感情の影響・コントロール
生活様式も変化しているので単純に言い切れないのですが、感情はありますが、影響をうけてブレブレになるという事はほぼ無いです。
しかし、お勤めの方やご家庭のある方と環境が違うので、影響を受ける機会が少ない生活をしていると言えばそうなのです。
ただ、(以前からその傾向は合ったのかもしれませんが)寄らば大樹の影というスタイルでもないし、今日までのコロナの影響で仕事量が変わっても、今よりもっと厳しめの自粛中もお陰様で機嫌よく過ごしていたので、感情のコントロールは上手くいっていると言えますでしょうか。
テレビを見ない私ですら、世の中にコロナの影響で「恐怖」が蔓延し、ストレスが増大していく様を肌で感じました。影響はあったとは思いますが、それほどじゃ無かったので良かったです。
「行ける所まで」の話はどうなっているのか?
で、「行ける所まで行ってみよう」という事については、なにやらちょっと開けたところに今は居る様な感覚がありますが、これが一体なんなのかはわかっていないです。目的地を知らないので、今が目的地に居る状態なのか、何かの駅に停車中のような状態で、また異なった感覚を将来感じるのかは不明です。
ただ、私の目的地は特定の教えなどに添って設定していませんので、目的が「悟り」だとか、「(不思議系の)覚醒」だとかという事ではありません。昔々の私ならまだしも、随分前から念頭にあるのは「人間としての人生を全うする」という当たり前なものなので、「悟り」も「覚醒」も、なんなら大いなる秘儀にも興味がない。ましてや呪術の達人になりたいわけじゃない。信仰的な奥義も知らなくても良いです。
ですから、「人間道」を苦しくなく過ごしていきたい。というような願望は今現在は叶っています。「苦しくない」どころか、お陰様で日々機嫌よく過ごしています。
理由は分かりませんが、こういったスタンスでいればいるほど、不思議な体験をしたり、奥義のようなものに触れたの??という瞬間があったりします。そのあたりのど真ん中を通過したような気もします(笑)
なんでしょうね。不思議です。
で、この先も「行ける所まで行こう」と思っているのか? については、今は特に考えていません。考えていなくても、なるようになるんだと思いますし、「行ける所まで行こう」とか考えない人生が「普通」だとしたら、普通の方が幸せなんだろうと思います。
幸せだから、「行ける所まで行こう」とか考える必要がないんだろう。
というような認識ができる程度の常識感覚は多分持ち合わせていると思いますが、なにがどうなってしまったか、私はそれをしたかったからやってるんだと思います。
人間を知りたいし、世の中を知りたいし、色々体験したいという興味や好奇心がこんな現れ方をしたのかもしれませんね。
私がこの先、家庭を築くかどうかはわかりませんが、寂しいから。孤独だから。という理由で家庭を築きたくなることは まだ数年は無いと思う。
そういった寂しさを紛らわしたいことが理由で結婚してもダメなんですよね。そのあたりは私は自分のことを理解しています。ただ、私も変化するので、将来はわかりません。
ただ、今は、先ほども書いたように、なにやらちょっと開けたところに居る様な感覚があり満ちています。ある時の不思議な体験の後、「欠けていない」「ピースが揃った」という気持ちになりました。
特大のラッキーチャンスだったという自覚もあります。お陰様です。
ですから、道なき道を選んでいるのかもしれませんが、孤独感がない。孤独だとしてももうしょうがないし、不思議な事に孤独を感じたとしても満ちている。それに、孤独を感じることがあっても、多分それはどんな選択をしていても、誰にでもあるものだろうと思います。
見たくないものも見ているのか?と聞かれれば、NOのケースもあります
前回のコラムで
行ける所まで行こうと思っていると、自然と見たい物だけ見ようという事にはならない。(私の場合は)
と書きましたが、今はもう、わざわざ不快なものを見に行きませんよ。
今までの経験から、「これは見なくて良い」と判断したらは見ないです。が、「あら見ちゃった。」というような事があっても(あら)という感じです。その時が過ぎたらもう終わりです。後を引かなくなったのは有り難い変化です。ひとえにストレスケアのおかげです。
成熟はしたのか?
以前の私より成熟した。
以前よりは精神的に大人になっています。
相対的にどの位か?というのは全く分かりませんが、そういったものは他人様と比較しなくていい。比較したいのなら、今みたいな考え方と選択はしないですものね。
今の自分に満足しています。予想もつかないですが、今よりもっと満足する日が来るのかもしれません、どうでしょうね(笑)
ふと、理解できたこと
自分の人生の送り方をどう考えたら良いのかわからないから「教え」に答えを求めるというその感覚が、今までとは異なる理解ができた気がします。
その教えが、信仰的なものでも、ライトなスピリチュアルに分類されることだとしても、本能的・自発的な興味、好奇心が牽引(リード)する子どもの発達時期のような成長が止まったあとの受け止め先として非常に心地好いのではないかと。
成長が止まった後、一時のアナ雪的な「ありのまま」という受け止め先が非常に居心地が良いのではないだろうか?
変わらなくていい。という言葉も、味方によっては色んな意味合いが見えてくる。
ですから、発達をいつまで続けたいのか?という選択の際に、ご本人の意思によっては、「ここいらでやめときます。いや、やめたいわけじゃないけどこの先のやり方もわからないんで」という事になった時に、誰かが答えを用意してくれている古式ゆかしい呪術も受け皿だし、占いも受け皿だし、スピリチュアルも、「教え」も、寄らば大樹の影的な大樹も、絶好の受け皿になるのかもしれないな。という理解方法も一考だなと思えた。
「枠にはまっていることの利点」「寄らば大樹の影」が良しと教育されたり、自分を忘れた幻(幻想)でも本能を安心させる効果があるんだろう。ということも今は肯定的に受け止めている。
それは「成長をやめた。」と書くとキツク聞こえるが、もっとシンプルに、幼児期に行っていたような発達や成長を維持することに興味があるかどうか?だけでしょう。
幼児期に行っていたような発達や成長にはとても大量なエネルギーが必要だそうだ。脳を発達させていく時の消費エネルギーは大きいそうですね。
それは理論的に理解するだけ、情報を得るだけでは起きない生体変化なのでしょう。
ですから、こういう面でも、心、精神、感情と身体の関係があるという事だと理解しました。
こういった可能性がふと脳裏に浮かんだ時に、今まで何度も一線を超えていくように感じる出来事について「しっかりして!」と言いたくなったが、もうやめた。と書いてきたが、やめて正解なんだということをまたまた理解した。
私の方向からは一線を超えて行ったように見えるが、視点を変えると、それは「心地よい受け皿を選んで、そこに腰を落ち着けている」という事だった。トラップと感じたことも、言葉を変えたら「受け皿」になるのではないだろうか?
それは個々の選択で、「そこに居たい」という願望なんだということですものね。
私も「行ける所まで」という願望があったわけですから、選択しているということは同じなんですよね。
思いのほか長い文章になりましたが、補足したいことは一旦書くことができたと思います。
個人的なご報告でした。(これはいつもか)
(2020/11/18)
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