生きやすさの創造を考えてみた

前回のコラムを書いて気がついたことがあった。

信念と運命

 

当たり前過ぎて、今更?と自分でも驚いた。

 

それは、自分なりの信仰心が私にはある。と自覚しているこの感覚についてです。

それが言葉が変われば信念になるんだよね?ということに今更ながら気がついた。言語は知っていたのにね。不思議ね。

下の4つの過去の記事の中でも「自分なりの信仰心」という表現を使っています。

許す? 許せない? 許さない?

「気」についての体験と経験値の拡大と収縮 

救いを求める時。救われたいと切に願う時。

名より実を取る。損して得取れ。

 

私が感じたことと、信念(自分なりの信仰心)の現れ方

実は、魔境という言葉も読書好きだったので随分小さい頃から知ってはいた。

しかし、自分の中の「一線」(という感覚)とこの言葉は連結させていた無かった。わざと連結させていなかった。それは魔境という言葉をとても重要なことだと思っていたので、軽々しく使う言葉じゃないという私の好みによる。一線を超えてたように感じたとしても、帰ってくるのを待とうというような気持の時はまだ私の中の認識は軽い。

そう、こういった状態にもグラデーションがある。繊細だと思っている。魂のインフレーションというのは素晴らしく的を得た表現の1つであると思っていて、こちらも確かに「症状は深刻だ」と思っているが、魔境というのはそれ以上にかなりヤバイという私の中の言葉の重さがある。大切なものを失ってしまっている気がする。それこそ、自分が消えていたり、失っているという感じだ。そして、そして、厄介なことに別のナニカが入り込んでいる感じ。

ミラーニューロンで誰かやナニカの影響を受けているという表現がとても可愛らしく感じるほどの、あまりよろしくないものが入り込んでいる感じ。影響を受けるという事では無く、「なにが憑依してるの?」と感じる。(精神保健でも「憑依現象」という表現は使われる。)そう、解離と言えばそうだ。解離したところに他のものが入り込んでご本人不在という感じ。そして入り込んでいるナニカがあまりヨロシクないという感覚。

だって、言葉が魔境だもの。魔に関する何かである可能性がある。

いや、実を言えば、他からナニカが入り込むというよりも、ご当人の中のナニカではないか?とかなり昔から推測している。だからこそ、魂のインフレーションという言葉は私には非常にしっくりくる。

ミラーニューロンという影響だとしても、受容体が自分の中にあるわけだから、やっぱりそれは自分。他者や影響を脅威とみなすものとして認識するのではなく、受容体のある自分のストレスケアが良いと私自身は考えている。

これも1つの統合や融合だと捉えている。

 

話を元に戻すと、

正義や真実や崇高なものを追求したかったはずが、そうなっていくケースは後を絶たない。不思議と本当に後を絶たないのは何故だ?とマニアックな私は長い間散々考えてきた。その理由として今すぐ書けるのは、世の中の多くのものが表裏一体という皮膚感覚が成長過程・成熟手前か、そういったことが頭脳やテクニックやスキルでどうにかできると思っているのかもしれない。この(皮膚)感覚と思考も陰陽だものね。(そう、好奇心も使い方によっては表裏一体なのだよね。その好奇心の表裏一体ぶり、方向性を自分でコントロールできるかどうか?なんてことも信念がある方がよろしいかと思う。)

 

私が思う魔境という言葉を使いたくなる程重くなると(と、勝手に私だけが感じているだけですが)、帰ってくるまで待とう。という悠長さは消え、当人の目や耳に届かなくても警告だけはしたくなる。

警告が良いのか悪いのかはわからないが、感じているのに知らん顔するのはどうなんだ?という自分の中の「これは愛のある行為だろうか?」という天秤にかかる。これは私が勝手に「こことっても大切」と感じる度合いによるんだけれど、道路で倒れている人の横を素通りできますか?という感じだと思ってもらえばいい。(私は名古屋に住んでいた時に実際に夜の暗い道路で男性が倒れていて、HELPで警察を呼んだことがある)

ご本人がその道を選んで居るんだから、学びを取り上げないためにも見守る。というレベルではないという認識になるという意味です。

 

最初から「それがご本人の運命だから」と思って済ませられないと感じる事があるという事です。余りに危ないと感じたら「危ないよ」と伝えることが私の「信念」ということなのでしょうか。

 

ゲーム世代の方が使う「魔境」という言葉の認識や受け止め方、使い方とは違うようだ。

 

運命が動いたあとの悲喜こもごも

オギャーと生まれて、人生観や信念のようなものは先ずは習う。

成長するにつれ、自分で「情報」を整理して、自分の人生観や信念を創造していく。

 

前回のコラムで引用した映画の中のセリフ

「信念と運命」は「陰と陽」だ。運命が動き、信念が試される

を再度用いて、もう少し言葉を加えると

人生にラッキーが来た。これは運命だから他っておいても大丈夫だと思って、安心しきってあぐらを組んでいたり、軽んじて後回しにしたり、自分の信念がないと、お試し(のように感じる出来事)が来た際に「運命だからそうなる(ラッキーforever)だろう」と信じ切っていたその先の展開・将来はいともアッサリと想像していたものから変わっていく。

ということになりますかね。詳しくは書けないが、こういった体験をしっかりとこの目で見たことがある。体験談だ。

 

もう少し良い表現は無いかな?とこの記事を下書きに保存していたら、お陰様で分かりやすい表現がまたしても目の前に現れた。

大事にしないと物事は壊れてしまう

 

 

実はこの話は、個人セッションで話題に登ったことがありました。

その時はまだこの映画のセリフが目に入ってきていなかったので、1つの可能性として、体験談をご紹介しましたが、映画のセリフの方が簡潔で分かりやすい。

 

これが法則なのかどうかはわかりません。

しかし、不思議と「自分が無い」「信念不在」だと、そのあと「あれ? こんなはずじゃあ・・・」という展開になることが多いようです。棚ぼたラッキーには手を抜かず、誠実に対応した方が良い。手を抜かず誠実にという行動内容はケースバイケースです。

 

そう言えば、「運命が動いたその後、どうするのかによる。」という言葉もよくシェアされている格言にありましたっけ。

 

 

しかし、運命論者に徹すれば、運命が動いた時の自分の行動様式(行動する、行動しないも両方含む)も、「あれ? こんなはずじゃあ・・・」というその先のことも全て運命に込み( include )なので生きづらさには影響されないかと思えますが、もし生きづらくても、そう生きていきたいということでしたものね。

 

スティーブ・ジョブズも、Apppleという会社や、ツールを追求するという信念・情熱はあったけれど、家庭や生活を大切にするという信念・人生観が無かったんでしょう。人生の優先順位って人それぞれです。途中でいくらでも変わる。この場合は、病床でふと今まで優先順位から外しているものに気がつく時があった。

色んな教えを学んでも、学ぶだけ、知ってるだけでは信念や人生観にならない。自分で取り入れていって、行動を変える必要がどうしてもある。

 

 

大事にしないと物事は壊れてしまう

なんて言葉は多くのヒトが知っている。知識がある。

しかし、壊れた後に気がつくことって本当に多い。

ということは、何が大切なのかを知っていることって素晴らしいチカラなんだと思う。気が付けることって素晴らしい才能なんだと思う。大切にするということはどういうことなのかが分かることも、そのために行動を変える、行動するということは本当に凄い事なんだと思う。

なかなかできないことなんだろう。

 

スティーブ・ジョブズさんや、生命がこと切れる前に後悔を感じたという言葉を残した先人たちも、誰でも知っていて、ご当人も聞いていたはずの「人生において大切にするもの」「大切の仕方」ということに気がつけなかったというご自身の体験談を残したわけだから。

 

これが簡単なら皆やってておかしくないけどね。

しかし、簡単じゃなくてもやりたくなるのも好み。挑戦してみよう、クリエイト・創造してみようと思うのも好み。

 

相手はあなた。スリップや横滑りも同じように。

そう、そして、もう一度書くと、

脳内スリップや横滑りは、1つの事例に気がついたら「私は抜けた。もうスリップや横滑りをしていない」という事では無い。

おそらくしている。

一言モノ申したくなってるのなら、間違いなくスリップや横滑りしてる。だって、相手はあなただもの。

過去のコラムの一文を引用するが、こういうことだ。

受け取って貰えないという視点も、伝えられないという視点も実は一緒。結局自分に反応している。私が思うものと「違う」と感じると反応していたけれど、全てが私だった。違いなど無く、全てが私だった。

 

厳しめに言うのなら、解脱が何を指すのかは置いといて、解脱するまで、そうですね、人間じゃなくなるまでスリップや横滑りはすると思う。

私も勿論している。

フラクタル・パターンの少し大きな範囲は気がつけるようになった気もするが、そのフラクタル(大いなるパターン)をどの程度の大きさに捉えるかによっては私の認知など芥子粒範囲だ。「私は分かった。抜けた。だから他人のそれに一言モノ申したくなる」という反応それこそがスリップや横滑りをしている証拠だとも言える。

 

あったでしょ? 今までもそんなこと? トンネルを抜けたと思う前は自分も同じだったというようなこと。(私にはめっちゃある。お陰様で体験談は数えきれない)

そのトンネルはマトリョーシカ人形や入れ子の箱のようになっているんですわ。抜けたつもりでも大抵はまだトンネルの真っ最中。

 

フラクタル理論は物理か? 化学か?

 

 

優しく書くと、

確かに分かったことはあっても、登場人物や事象が少し変わると気がつけないのならそれはスリップや横滑り。

そんなもんだと思う。

理想や希望や思い込みなどでいくらでもバリエーションがあり、それにデコレーションまでされる。

目先のバリエーションが少し変わるとそっちに気を取られてしまってパターンの本質には気がつきにくい。そういう仕組みなんだろう。

それが私たちの人間の認知のクセだと思う。そういうもんなんだ。ということがデフォルトだと感じています。

 

私のスリップ例を今一度ご披露すると

誰でも優秀だと思うが、他人と比較して自分が優秀だと思うクセは誰でもあると思う。「相手はわかってない。私は分かっている」といった無意識の競争意識・上下をつける感覚そのものがスリップや横滑りを誘発するんだし。そうやって生きていくのかデフォルトなんだと思っている。

だから、私自身も無くすことはできないと諦めているが、自分のそれに気がつくようでいたいとは思っている。

そう、私のスリップや横滑りが顕著に表れたのはこれだ。

アセンションという事象には興味が無いというのはある意味その通りなんだけど、それに夢中になっているように見えてしまう「ヒト」にいつまでもしつこく反応していた。

お陰様で今現在は収まっている。

全てをアセンションに意味づける方と居ても、心穏やかに「そうですか、そんな考え方があるんですね」とほほ笑んで聞けそうな気がする。(気のせいか? 良く書き過ぎたか?)(笑)

いや、その前に義務が無いのなら同席するのを遠慮するという建設的な方法をとることが私にとっての解決方法としても良いかなと思っている。

 

それまでは、これに付随した案件でも随分スリップしてた。

こんな自分が笑える。「おいおい、またやってるよ」と笑ったもの。

 

生きやすさの創造・クリエイト

私は前回のコラムにも書いたように「生きやすさの創造・クリエイト」という考え方が好きです。

何故好きなんだろう?とちょっと考えてみたんですが、こういった人生に対する姿勢が私にとって、自分にとって誠実な感じがするみたい。

色々な人生観を私達はそれぞれが選択していますので、それらをお聞きして、「わぉ! 素敵!」と思えば取り入れていってます。

 

何のために?

自分のために。

 

自分の愛し方も人それぞれです。

 

私は自分を愛するということのなかに、人生を大切におもって、生きやすさの創造・クリエイトとは何だろうか?を考えることや、実際に行う事も入っている。

勇気がなくて行動になかなか繋がらないこともアホ程あった。そんなことはとても多かったし、上手に生きられない、人と関係を築けないということももちろんあった。今後もあるだろう。

それでも人生を大切にしたいという想いだけはある。これが信念なのだろう。

 

だから、全くの他人様でも、人生の大切な時間をみすみす「なぜそれに?」ということに舵をきる様に感じると、それを勿体ないとジャッジしていた頃はモヤモヤした。その先が見えていた(ような気持になったのだが、後日談は現実にそうなった)ので、どうして目先の欲に囚われて、長い目で見たらそんな意味のないことをするのか?と全くの他人の行いを勝手に悲しく感じたことも何度もあったが、今はもう私のそれに対する捉え方は違う。どういう結果であれ、私にはもう全く関係が無くなったことであれ、ご本人には意味はあったという見方ができるようになったし、実は全く意味が無くても良いんだということに気がついた。

お陰様で今は私も成長したようで「尊重」を覚えた。するとモヤモヤはせず、ただ認識するという事も増えた。それについて私がどう思うかということは別問題になった。

 

スリップや横滑りということも誰にでもあるが、それを見ても「あるよね、そんなことってさ」と思っている。だって自分にもあるんだもの。

 

ですから、

私の場合は、しっかりと色んなものを見て、自分にも気がついていきたいというのが人生観でもある。美しいものも醜いと感じるものも私の人生なりに見てきたが、美醜や善悪というジャッジをするのではなく、その本質を見てみたいと思っている。

そう思うと、私自身は「ヒトとしての人生」に深い興味があるんだろう。個人的な好みとして、見ないふりや、解離や、行動しようがあっても、何もせずただ流されていくということが勿体ないと感じるようだ。(笑)

私なりに本気なのだ。

 

「ヒトとしての人生」に深い興味があるからといって、私に人生が相対的に見てどうなの?という話ではないため、名誉も地位も家庭も子供もありませんが、やっぱり幸せで、幸せに感じる今現在に非常に感謝しているし、健康ということにも深く深く深く感謝しています。

 

幸せ。時々、なんにも無くなっちゃう。

最近、というか、なんというか、何にもなくなっちゃう頻度がちょっと上がってきているんですよね。

なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

 

そんな時は何にもないので、嬉しいとか悲しいもない。幸せだと感じる感覚がない。恐怖もない。

こちらのコラムで触れていますが

自分自身と調和している場合と、不調和が起きている場合。ONとOFF。

 

ヨーガの伝統的開祖の言葉に「ヨーガの目的は生きながらに死んだ人になる」というものがあるそうです。

 

私はヨガはやっていませんが、私がお伝えしているストレスケアを自分で続けた結果、何も無くなっちゃう時間が増えているので、同じことが起きたのか?と思う時があります。好みとしては、ストレスケアが好きなんです。そうですね、理由としてはブレが起きないので。

 

生きながらに死んだ人になるのと似ている体験としては、このように記事にかけるので役に立ってくれているし、自分のストレスも感じないという事なので有り難いのですが、

ヒャッホー 新境地だぜ! 神秘体験だぜ! という盛り上がりも、選民意識のようなモノが満足するということもないです。

 

だって何もないんだもの。

幸せだと感じる感情もないんだもの。

執着している状態が「幸福感」を生むことってあるけれど、それも無くなる。

 

そして、絶対的な孤独がありますが、それについても感情が動かない訳ですから、絶対的な孤独を寂しいとも感じないし、悲しくもない。嬉しくもない。

誰でも感じる孤独感って私もそれを感じていた時期が長かったのであるのは知っていますが、なんというか、それとは比較してもしょうがないほどの絶対的な孤独という感じだったと思う。(その渦中が過ぎちゃうと体感覚ってぼんやりしちゃう)

 

あぁ 本当にたった一人だ。と思うと同時に、本当は一人じゃない。という意識もあるという非常に不思議な感覚です。

本当は1人じゃないという感覚を幸せ感と認識することがあるが、それとも違って、幸福感という感覚が湧くわけではない。なにしろ「無いんだから。」

ヒトはどうしてこういう状態を「素敵な体験のはずだ」と強く思い込んで求めるのだろう?

素敵とも感じないわけですよ。

 

おそらく、絶対的な孤独が怖いと、道がそれて魔境に入るんじゃないかと1つの予測を立てているのですが、魔境に入るリスクまで負ったって一度の(一回と数回は大きな違いってあるのか?人間が勝手な意味づけを辞めたら1回も数回も違いはない様な気がする)、ただ絶対的な孤独を味わいたいもんですかね?

仮説の1つとして、好奇心はあっても、絶対的な孤独をしみじみ感じるほどの腹はくくれていないということも考えたりした。楽しいことは好きだけど、辛いことは嫌いだものね、普通。帰り道があるかどうかもわからない。未知の領域。リスクを犯して本当に理想のリターンがあるのかの保証はなし。

なんかファンタジー風なものを創造していたとしたら、SF映画好きの私が言うのもなんだけど「映画の見過ぎ。信じ込みすぎ。」なのかもしれない。

 

またまた1つの仮説として、依存(症)の傾向があるとしたら魔境へ入る可能性の方が高そうだ。そういった傾向があったら、絶対的な孤独を感じる可能性など恐怖以外のナニモノでもない。ご本人は自覚していなくても、潜在意識は反応しているという可能性だってある。

 

その自覚しない恐怖によって厄介なことが起きるという事は、恐怖は自覚していることも大切だし、自分の感覚を捉えているためにも多分間違った覚醒(と決めつけているもの)を目指して解離はしない方が安全だし、そもそもそれを目指す必要ってなに?ということも過去に書いた。

洞察力の育て方

 

家族や友達と愛を感じていた方が幸せだし平和だと私には思えます。

1人の方が楽だという事も、楽な時もあるので、なにがなんでも家族や友達ではありません。ステレオタイプの幸せ感に左右されず、自分にあった幸せと平和を考えてみるのはどうでしょうか?

 

人間に備わっている感情や体感を感じるということがどれほど素晴らしいか?を感じられるのは生きている間だけだとしても、それでも人間でないものになりたいのかな?

人間でないものになるのを目指しているのなら、皮膚感覚は育たないのは当たり前だと思う。皮膚感覚などの人間らしさに対して優先順位が低いってことですものね。

 

そう、人間の脳の中には、神様になりたがる傾向ってあるようなんですよ。知識として学習したスタイルとしての「神」のような傾向も感じられる。そんな時は、昔からある諸説の中の1つ「人間は皆、自分の中には神様がいる」という考え方を取り入れたらどうですか? 「神様になろうとしなくても元々そうなんだ。」という説はいかがですか? 人間の中には宇宙があるという思想が今のような西洋医学が誕生する前からあるように、人間の中にはいろんなものがあって、その1つが神様です。人間の神性っていう言葉がありますでしょ?

神として人生をまっとうする際に、人間らしい感覚や体験が大切なんだよ。というような考え方はどうですかね?

それだって十分な神秘体験だと思えます。

好奇心って表裏一体。

自分にもっともっと興味、好奇心を向けても、もっと楽しいと思える。

自分が伸び伸びする時はいつだろう?とか、何が好きだろう?とか、幸せを感じるっていつだろう?も含めて。

そんな時に、信念や人生観がお役に立つのならどうぞ取り入れて欲しいし、今からでも再構築して欲しい。

 

そうやって自分を慈しみながら、人生を創造していけたらこんな幸せな事はないんじゃないか? なんてことを、今これを書きながら思いました。

 

この記事の最後の言葉をもう一度。

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

Love myself。

Love yourself。

 

 

大切な皆様へ。

大切なあなたへ。

大切な私へ。

 

私はあなた。あなたは私。

 

最後に余談

久しぶりに映画「LUCY」を見ました。ある時期、ある時薦めたりしていましたが、すっかり内容を忘れていた。あんまり私がお伝えしたい主旨とずれていてもなんだな。と思って確認のため久しぶりに再び観てビックリ。

脳の使う領域が広がるとこんなことになるよ。という事例が幾つか登場するのですが、私の体験と似てる個所があった。

恐怖についてもそうだし、自分の脳を感じるという事についてもそうだし(これも同じような感覚をお持ちの方を存じ上げてる)、エコーロケーション(これは私以外にも使っている方を数名知っています)についても触れられていた。時空の感じ方が変わるという事もあった。

 

そう、少し前から「気」の話かと思っていたら、現象としてはエコーロケーションじゃないか?と思えてきているこんなことについてもだ。

で、「気」の話?と思っていたし、ちょっとこれ(能力?)は使わない方が良いんじゃないか?と思っていた。

 

そしたら、ある日、こういった考え方が「能力の自己封印」と書かれていた。なにやら覚醒するには自己封印を解く必要があるというお説と、覚醒したら勝手に封印が解けるという説があった。

 

なにが書きたいかと言うと、「これが霊力系の話じゃなくて、『脳の使い方の話』なら、そんなに警戒しなくても良いのかな?」と思ったというだけの話なんだけど、兎角こういった事に溺れると精神の純度を下げがちだという刷り込みが私にはあるので、安全な範囲で許可を出して行っても良いのかな?なんて思った。

脳の使い方をもう少し進めてみるという事が出来たとして、これが私の生きやすさに繋がりそうなのかは、まだ私自身未体験なので分からないが、多分、セッションや施術には最初から使っていたんだろうと気がついた。セッションや施術のはるか前には使っていると自覚していたんだし。そう、雑事には使わないが、安全管理をはじめ、ストレスケアのサポートには使っていたんだな~と認めるようになった。

エコーロケーション

そう、エコーロケーションという名前は失念していたが、コウモリのように電波?振動?音波?の跳ね返りを利用しているというのは昔からやっていた。

そう言えば記事に書いたな~と思い出した。そして、「イルカのように」と書けばカッコいいのに。とも今は思っている。(笑)

そう、こんな時は聴覚を確実に使っているという感覚はあるけれど、他の感覚器も使っているぞ!と気がつけるようになった。

発達障害と呼ばれる「脳のクセ」の現れ方について

 

 

というのも、これもどうやら精度がいっとき上がったんですよ。「LUCY」じゃないけど、骨や筋肉が透けて見えるというか、感じるという感覚の精度が一時あがった。その上がった状態から能力をKEEPしているのかどうかはわからない。

 

こういった まさに「脳力」を日常生活にもどんどん活用していこう!というほどカジュアルな気持ちでは今はないが、自分の一部としてどの位脳を使うのか?ということを自分でコントロールできるのかどうかを機会があったら検証しても良いかな。と思えるようになった。

 

ただ、やり方が違っていて厄介な領域に入る気配がしたら即刻一度帰ってくると決めておくことにする。

 

(2020/06/08)(2020/06/10 加筆)

コラム一覧へ戻る