伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび
今回はちょっと長い文章になっているね。
Contents
メインのブログの記事の続きを書きます
この記事の続きです。
しばらくは(どこがこの記事の続きなの?)と思う内容を書きますが、先の方で連結します。しばしお付き合いください。
文字、言葉の限界をたびたび感じるが、それでも書く
幾ら話しても、完全に他人を理解することはできない。とよく言われています。
私も生まれてこのかた、「この人のことは全部知っている」という方はいない。その逆もいない。自分の内面を自分で感じやすい程度でしかない。
何度もお会いして、何度も会うためにはそれなりの月日がかかる方もいるんだけれど、やっぱりゆっくりとお話する時間が何度もあると双方の理解が深まる。言わんとしていることのニュアンスや、言葉の使い方、表情、NLP的な反応も含めたコミュニケーションができるようになるとより一層深まる理解もある。(しかしながら全然深まらない時もある。)
私はいろいろ書いてきて、それを多くの方に読んで頂けることは嬉しくて有り難い。
嬉しい、有り難いと感謝していたその次に起こることがある。それは、ニュアンスを受け取って欲しいという欲求だった。
それは、文章をマネして欲しいということでもないし、フレーズをそのまま使って欲しいという事でもない。コピーライトをつけていたってそんなの関係なく使い回して欲しいという意味でもない。
私の脳内にあるまま、内容が伝わって欲しいという欲求が湧いた。
何故沸いたか? これは私の脳内にあるコレ(体験も含む)を曲解されているな。という反応をみたからだ。(そう私が捉えたという意味です)
すると、私の脳のクセが動き出す。
世の中の正解は今問題にしていない。今私が気になっているのは「私のニュアンスが伝わっていない事だ」という反応を起こしだす。
独特の「正確さが気になる」という感覚だ。こだわりというジャンル。
こだわりだし、脳のクセが発動していると自覚しつつもやはり反応はする自分がいたので、これについてもバランス調整をした。キネシオロジーの練習会でも調整してもらったし、セルフでも何度もバランス調整した。
この「独特の『正確さが気になる』の感覚」は円滑な人付き合いを結構阻害する。円滑じゃなくても良いとしても、とどのつまり、私がなんだか引っかかってしまう。簡単に書くと私が生きやすさを感じるためにバランス調整をしたわけです。一々こんなことで引っかかりたくない。邪魔くさいわけです。
人様が情報を受け取りたいように受け取ることも、受け取ったものをどう理解しようとも自由だといつも思っているし、多くのことに反応は起こっていないのに、自分が発信したものはその真意がココにあるし、自分が書いたことの真意を(当たり前ですが)知っているだけに、相違点を感じると反応してしまう類のことがあった。
理性では、取るに足らないことだと思っているのに、脳の反応は「とるに足る事」になっちゃってるわけです。脳のクセというのは頑固なので、(どうでも良いし)と思っていても繰り返し反応が起きる。
似たような事を過去にも書いた。しかし、刻々と変化してきたんだな。ということが自覚できる体験があったのでまた書きます。
下のリンク先のコラムの中でも、
何かを理解する時に、MY翻訳機を通さずには難しいでしょうから、純度100%で伝わる事って無い。
と書いているし、もっと前からも何度も書いている。
・・・しつこくてゴメンね。
ここからブログの内容と連結してきます。しつこい頑固な脳のクセをどうしたら良いのか?
しつこい頑固な脳のクセをどうしたら良いのか?
これは本能・潜在意識をバランス調整するだけではなく、認知の育成やら修正やらも必要だと思います。ですから、潜在意識にお任せセッションではなくて、カウンセラーやセラピストとご自身の言葉を使って対話をして、ご自身の発言を自分で聞いて認知することの積み重ねも重要になってくると考えています。
理性に登場してもらうんですね。顕在意識です。
バランス調整をしていると不思議なことも多いですが、例えばそれが前世だとご本人が感じることでも、その後の影響力の対象はそれぞれです。
あくまで例ですが、あなたはこんな前世ですという情報ではなく、ご本人が(あぁ そうだった)と、これは自分のことだと感じることもただ情報を知る事とは大きな違いがあるし、(あぁ そうだった。こんな記憶があるな)という体感が今のあなたのストレスとどうリンクしているのか腑に落ちると一層バランス調整に深みが出る。それにより、見えない連鎖がおこり、人生の感じ方が全く変わることがあります。
こんなことも、私が個人カウンセリング・セラピーを行う時は、潜在意識にお任せセッションではなくて、対話を大切にしているし、相談者ご本人の言葉を使って感覚を話して頂いて、ご自分を認知して頂きます。相談者と一緒にセッションをします。いや、潜在意識お任せセッションもクライエントと一緒に行っていることは確かですが、そうですね、違いは、相談者さんも自分のこととして役割のようなことを担っていただいています。私はブースター。相談者さんはブースターを利用しに来ているという感じです。
ブースターは質問もする。その利用者さんは意識を保ったまま、意識と無意識の隙間に入っていく。その時の何とも言えない体が消えて無くなっているような感覚や、あの隙間で見える、聞こえる、感じることを答えて頂くことがあります。
あっ! 申し訳ありません。話が脱線し過ぎました。(汗)
よくあるけどね。今日もやっちゃったね。
話を戻します
脳のクセは、生まれつきのものと、生育環境で培われたものがありますね。それ以外にも、随時他からの影響に左右されていることもありますが、それすらも影響されぶりは脳のクセということも今回は含んで話を進めます。
生まれつきということは修正できるのか?という事になるかと思いますが、修正ではなくて、新しい習慣・行動様式を学習により身につけていくことができる事もある。
また、生育環境で培われたものならば、それこそ潜在意識により培われたのではないですか? もしそうならば、いくら潜在意識をバランス調整してもさほど変化を生むとは思えない。そんな時は、使われることの少なかった顕在意識・認知修正、脳の理性を司る部位の訓練ということが適している場合も多いと感じます。
ということは、行き当たりばったりのバランス調整よりも、長い目で見た計画的なバランス調整を行っていく方が良さそうです。
またまた、ということは、「私」という「個」をどう捉えるのか?はとっても大切。「個」「私」を長い目で見ているのか?ということにもなりませんか?
「個」「私」という前に、ナニモノカになろうとするのは多分、多分ですよ、順番が違う気がする。ナニモノカになろうとするのも、自分を無くそうとするのも同じことのような気がします。
私の今回のこの考え方の土台にあるのは、顕在意識・認知、脳の理性を司る部位ということを機能させておくこともとても大切だと考えているからです。
ナニモノカになろうとするのも、自分を無くそうとするのも、「個」「私」がすっかり抜け落ちてしまっているような感覚を受けてしまいます。
「個」「私」が在ることは、人との隔たりとして障壁になるとは限らない。
あなたはどう感じますか? 私と言う個性があるから人と隔たるのだ。自然と隔たるのだ。と感じますか?
それは、共生の感覚がまだわからないからかもしれないし、(先述の私のように)脳のクセとの付き合いが不慣れなのかもしれないし、ストレスケア・バランス調整が不足しているのかもしれない可能性だってある。
お陰様でマニアックにこんなことを考えるのが好きな私の「これは良いんじゃないか?」という1つの方法をご紹介したいです。お気に召しましたらご採用ください。
これぞシンプル「受容」
「個」「私」が在るままで、
というか、しっかり「個」「私」を持ったまま、とにかく受容する。
「個」「私」を無くしていくと、解離や憑依や自我の具合が厄介な事になってくる予感がしていますよ。私には。
ですから、「個」「私」をしっかりもったまま「受容」していく。
慣れないと受容することを簡単じゃないと感じる。でも、慣れていても慣れなくても本当はとってもシンプルなやり方です。
心体カウンセリング™ を使うからこそ、とても簡単に行えることが多いです。(^^)
冒頭のブログの記事では、「尊重」という言葉を使いました。
そして、私のこのコラムの冒頭で言えば、ニュアンスが理想通りに伝わっていないと思えて気になる。脳が反応している。感情が動く。マネ、まるっとコピーではなくニュアンスを受け取って欲しい。というような出来事も受容していく。それらは全て自分の事です。自分が反応する、投影して反応する出来事や人(嫌い、気に入らない、恐い、ムカムカする、ざわざわする、悲しい、切ない他)は自分です。結局自分に反応している。伝えられない自分に反応している。
受け取って貰えないという視点も、伝えられないという視点も実は一緒。結局自分に反応している。私が思うものと「違う」と感じると反応していたけれど、全てが私だった。違いなど無く、全てが私だった。
で、「個」「私」をもったまま(意識をもったまま、理性を使いながら)どんどん受容していくと、あら不思議、ストレスが激減しちゃってる。(笑)
引っ掛かりが無くなって、一体化しちゃってる。
身体もなんだか時々消えちゃう(笑)
それは「調和」とも言える感覚だろうね。
バランス調整ってなんなの?
そもそもバランス調整という事自体が、調和を生むためのものでしょ? なんてことを考えています。
バランス調整って、どことどうバランスを考えて行っているのかを考えたことはありますか?
「個」「私」の状態と、なにかの調和についてバランス調整を行っていませんか?
ストレスケアって何だと思います?
ストレスケアがどうして生きやすさを生むことができるのか?
山ほど情報収集するよりも、体験されたら良いと思う。根気よく続けることをお薦めします。
「個」「私」があるからこそ、ストレスケアを続けたその先に、 あぁ なんか幸せだ! と感じるような気が私はしている。
順番を変えたらどうなる?
はじめに、「自分を無くす」「自分を消す」が先でも同じことが起きるのか?
それは危ないような気がする。
ヤバイ洗脳をする手法がそれに近いでしょ? どう思います? ヤバイって、何がどんな風にヤバイのか考えてみたことありますか? 私はありますよ。おそらく散々考えてきた。この辺りの嗅覚は敏感かもしれないが、それは勉強ではなく、観念・思考追及でもなく、市中の出来事を見聞き、体験、検証してきたことを整理してきたからだと思っている。
それがヤバくないように使える人っているのかな? 「俺は、俺なら」「私は、私なら」できると思った時点でアウトなような気もしないでもないが、好みやセンスの話になるだろうから正解は知らない。
ただ、危ない、ヤバいと感じるので、私は薦めないし、ましてや私はそれを他人様にしたいとは思わない。いや、やりたくない。私の手に余る範疇だと思っている。そして、少ないMYデータでは、これに魅力を感じ始めると一気に進んでいくことが多い。行き先は一線を超えた先。そして帰ってこなくなる方もいる。10年くらいで何か気づいたり、帰ってくる方もいるが、10年と言うのは早い方かもしれない。どうやらこんなことにも慣性の法則が働くようで、どんどん行っちゃうケース(だと私が勝手に感じただけ)が殆どだ。帰ってくる方の多くは行くところまで行って突き当たった方で、突き当たらない方は慣性の法則は止まらないようで帰ってこないみたい。
おそらく、崇高ななにかを求めること自体が強烈な誘惑性を含んでいるんだろう。純粋な崇高さを求める気持ちが、ご本人がその崇高さを手に入れたくて無くそうと思っていた自我・エゴ・煩悩をより一層パワフルにしちゃうってことがあるんだね。と今の私は理解しており、ご本人がそれを極めたいというお考えを尊重することにしている。人間だもの。
こんな理由から、こういう時に「あえてしない」「選ばない」「選択しない」という理性を働かせたいと願っている。
守破離ということを念頭に置いておいても良いと思っている。って書きながら、私が一番守破離をよく分かっていないだろうけど。(笑)
幸せに至る道の正確さを伝えたり求めるよりも、コツを掴もうとするよりも、テクニックを求めるより前に、悩める方(ご本人も含め)を「受容と尊重」するという事を大切にした方が良いよね。と今の私は考えています。土台が無いものは忽ち純度が怪しくなる。土台の無いものは上に積み重ならない。積み重なったと感じても、少しの衝撃で瞬く間に崩れる。(私はこれを体験しました)
自我と融合・統合
自我と言うのは、悪者じゃない。それと上手く付き合えない時にクローズアップされる対象になるが、とっても大切なものだと思っています。感性というものは自我に属してないかな?なんて今思った。
そうですね、もし、感性というのが本当に自我に属しているのなら、頭ではわかっているけれどつい私の脳で反応してしまうので「ニュアンスが伝わっていない」「私の文章力では限界がある」「とはいっても、会ってお話しても伝わるかどうかは保証がない」「そもそもお会いしない」ということも脳のレッスンの一貫として受容していった。
そしたら、な~~~~~んも気にならなくなった。
気にならなくなったら、伝わらない、伝えられないジレンマも、「それで良い」という想いに変わった。
いや、正確には、良いとか悪いとかどうでもよくなった。
マネされた? それは私のアイデアなのに流用されてる? そんなのもこんなのも、下のリンク記事内の体験などにより 独特の正確さにこだわろうと反応する脳のクセでストレスに感じていたアレモコレモが収まった。(◎_◎) ビックリ。
多分 脳が大きく変わった。
へぇ~ 脳が?!
これは随分大きな気づきだったのですが
ある日、これらをもっと俯瞰した時に、バックヤードではなにが起こっているのかを理解できた気がした。
ちっぽけな「私」のもっともっと大きな背景のなかで起きている「その先」「変化」「影響」のことです。
私などそこに手を入れることなどできない、操作しようとした瞬間に消えてしまう気がするバックヤード。操作しようとした時に足元にパックリと落とし穴が開くケースがあるような気配があるバックヤード。
これは大きな「仕組み」のような事なのかもしれない。
ちっぽけな私の「反応」が、あまりいい気分がしないものであっても、そのバックヤードの中では良いも悪いもない影響が起きていて、それは時として「善きもの」のような働きをしていた。
それを理解できたような気がしたときに、融合と統合がまた1つ進んだ。
私が何をどう感じようと、ちっぽけな間はちっぽけな理解しかできないことも見せて貰った気がする。
「善きもの」としての影響が時としておこるだけでも大感激だ。何とも言えない喜びを感じた。少しでも良い。影響の範囲の広い狭いなどどうでもいい。というその理由を チラッと見せて貰えたのかもしれない。「何かを変えようとしなくて良い」という意味が「バックヤード」「仕組み」とどう関わっているのかを分かるようにチラッと見せて貰えたのかもしれない。
以前、「何もしなくてもいい」という答えを聞いたような気がしたが、あれから随分経った今、これを書いている今、ようやくその意味が少し理解できたのかもしれない。と思ったら、体の中心で歓喜が反応し始めた。
サイト「こすも」の記事
その前に、質問して、答えを貰ったんです
https://cosmos358.amebaownd.com/posts/6723831
だから、そういった目に入るもの、耳に聞こえるものに囚われずとも、信じていることや、その時感じたこれらを(今日の話題であれば)発信していけばいいし、発信しなくてもいいということだ。
下のリンクのコラムの中で、「みな一緒」と書いたこと自体は、真行草(シンギョウソウ)のどれかのようなものなのか、守破離的なものなのか、出鱈目なのかはわからないが、そもそも体感覚、感じ方、理解の仕方というものは共有しずらいものだ。
こういった理解が進むと、反応していた自分がバカみたいだし、反応する自分がちっぽけな人間だと落ち込んだりしたことや、いつまでも反応する脳のクセに手に焼いていた時もあったけれど、その反応が無ければ今のこの理解には繋がらなかったことがわかる。(ような気がする)
だから、「個」「私」をしっかりもったまま「受容」していくことは良かったという自分の体験から記事を書いています。
こんなことも模索して、体験して、引っ掛かりが少なくなってきて自分自身が楽(ラク)になる。
生きている間にすべての引っ掛かりを無くしたいか? そんなことは全然考えていない。生きながら、現れた事象をコツコツ バランス調整・ストレスケアしていくだけです。今までと同じで良いということを確認したからね。
そして、今思うことは、
「個」「私」をしっかりもった方に私のニュアンスが受け取って貰えないと感じていたんだとしたら、
あたりまえじゃん
ってことなんですよね。
私はいろいろ書いてきて、それを多くの方に読んで頂けることは嬉しくて有り難い。
嬉しい、有り難いという感謝の次に、ニュアンスを正確に受け取って欲しいという、そんなことは無理だと頭ではわかっていても欲求が起きていたのですが、それが無くなると、残るのは「読んで頂いて有り難い」というだけになり、ニュアンスについては「受け取って頂いた方へお任せします」という事だった。その先までは私の範疇ではないということが何度も何度もわかったつもりだったが、また大きく腑に落ちた。
キーポイントがあったのは自覚できた。それはやはり「受容」ということだった。そもそもの「受容」ということに気がつける意識の層がある。
その層はより深くなり、深くなって深くなって・・・・・ ある日無くなる。
おそらく、無くなるのではなく、おそらくそれは「融合」だ。
書いてきたことがグルっと一周回って収まりが良すぎるでしょというくらいの当たり前の話になった。
とどのつまり、自分も含め、「個」「私」をしっかりもった他者、現象を受容していくということなんだから。
もう一度書くと、「融合」。「統合」でもいい。
融合・統合というのは、自分を無くして溶け込んでしまうことではなくて、受容を続けた後に起こることだという実感がある。
受容した結果、尊重できるようになった。もし何かの行いが、見えないナニカにとってよろしくないことならば、(子どもの頃からこう収めてきたのだが)私にも他に皆さんにもグルッと回ってなにかが返ってくるだけのことだ。あげつらって断罪などしなくても、なるようになっていく。
人が何かを理解していく過程は、同じところをグルグルと何周もする方法もあるんだろうね。
同じところをグルグルしているようでも、その内容の質は変化して、深みを増していくことがある。
答えだけを知る以外にも、自分で考えていくという事は素晴らしい人生の体験だ。
祝杯にあたいする
引っ掛かりではなくて、尊重に変わったことは人生の中の快挙だ。これが大変革でなくて、なんだろうか?
すっかり忘れていたが、これについても祝杯をあげなくちゃね。(笑)
なんと! シードルはもう1本あるのだ。ふふふ
融合と統合についてはこちらのワークにご参加頂きたい。
ワークではなく、融合と統合についての個人カウンセリング・セラピーはこちらです
今後について
私がお伝えしたいことを表現できる筆力は身につくかどうかわかりませんし、文章ということや、言葉、単語とは個々の感性やニュアンスが異なっているため以前の私が感じたような 理想の理解のされ方 などはこの世の中に無いのだろうと思っています。
いろんな欲が消失した瞬間があり、その時はコラムを書くこともブログを書くことも興味を失いました。
それでも、書き続けた結果、驚くことに私自身のバランス調整が進みました。
具体的に直結するような目に見える連鎖はわかりませんが、私の中のナニカがどんどん進みました。
書くことを続けて良かったと思えました。ですから、この先も書いて行けたら良いなと思っています。
書いていけるだけでもありがたいことだと思っていますが、ほんの少しでもどなたかのナニカのお役に立つようなことがありましたら光栄です。
また、今までも実際に何度も深いお話をさせて頂いた、心体カウンセリング™ をご利用いただいている(いた)皆様には書ききれないほどの感謝をしています。講座受講時に沢山対話をした皆さんにも同じくお礼を申し上げます。
体感を話してくださったり、感覚を教えてくださったり、お使いになっている言葉のニュアンスを確認させてもらったり、または私のニュアンスを受け取ってくださったりと書き入れないほどの有り難いチャンスをくださった。なんとも言えない安心感を私に下さった。
このような機会でしかなかなか感謝の気持ちを残しておけないのですが、深くお礼申し上げます。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。
今回書いた「融合(統合)」という事については、実際にお話したことがある。そのやり方の1つの方法を直接会ってワークをお伝えした方もいるし、今回書いたような「なぜ融合や統合をするのか?」というもう少し広い背景についても直接聞いてくださった方もいる。お会いしてお話した時にはニュアンスを受け取って頂けた感じがして嬉しかったし、私には(これは良いな)という感覚だけだったもの(ワーク・手法)を、「えっ! その解釈は・・・なるほど!」と分かりやすく後から解説してくださった。(対話って本当に有り難いです)
最初に別の方に陰陽論的に理にかなっているという理論を教えて頂いて、最近はまた別の方に、宇宙の発生、人間の発生という説との関連性を教えて頂けた。
このニュアンスを受け取って頂いて嬉しかった後にもまた体感がバーションアップ(アップなのか仕様変更なのか不明)したので現在はまた少し手法と状態が変わっています。
元々行っていた方法も、向かない人には「今はまだやめておく方が良い」とその理由も含めてお伝えしてきたが、先ほども書いたように、数名の方にお伝えしたワークとは違う方法を現在の私は行っているし、最近特にこの手の展開・進行が早くて私が一番 へぇ~ って思っている。
また、一期一会だったかもしれない皆様も、私の布石を打ってくださった。
その恩寵たるや計り知れない。
感謝してもしきれない。
そう、沢山の反応を私に起こしてくれてありがとうございました。これからもありがとうございます。
私が嫌な思いをした? 確かにそう感じる事も多かった。 がしかし、それが今につながる有り難い布石だった。
嫌だと感じる事や、気にしていた事、悩んでいた事、反応を起こすことも自分が変わればそれ以降なんとも思わなくなる。反応しなくなる。反応が起きなくなる。
今日の事例以外の私なりにハードな体験をした時に、(いつか見てろよ)なんて思っていたこともあったが、今はいい思い出だ。若いっていいよね(笑)
(いつか見てろよ)なんて思っても何もできないもんだから、あとは天に任せるしかなかったので任せてきた。
(いまに見てろよ)と思っても思わなくても、行動は結局一緒だった。
今なんて、(いつか見てろよ)なんて思う前に、さっさとバランス調整している。いちいち引っかかるのが邪魔くさいから。自分をバランス調整した後のことは天に相変わらず任せている。
お薦めします
ストレスケア、バランス調整をお薦めします。思想や信念、信仰があるのならそれを踏まえてストレスケアをしたら良いですね。
ストレスケアの方向性はいろいろです。
個人のカウンセリング・セラピー・人生相談
現在はオンラインをご利用ください。
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脳のグレードアップ講座も開催したことがあります
脳のグレードアップをしよう!という講座をしたのですが、この後に、数回のバージョンアップ(アップなのか仕様変更なのか不明ですが、幸せ感性はアップした)が私自身にありました。今となっては驚きです。
このような体感が周りの方にも伝わって、それぞれが生きやすさを感じるようになると良いな~と思っています。
最後に
今日は久しぶりに長い文章になりました。
この続編も書こうかなと思った内容も、今回の文章に入れこんだので続編はまだ未定です。
家でこのコラムを書きながら音楽を聴いていたら、有名な曲が流れた。
タイトルを始めて知ったが 『Love Yourself』 だった。タイムリーと感じた。
Love yourself
Love myself
無くしてしまった自分を愛せますか? 消してしまった自分を愛したいですか?
大切なあなたへ。
(2020/04/28)