自然に関わると自分を取り戻しやすい
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前回の記事の補足
すっかり書き漏らしてしまったので、前回のコラムに補足させてください。
補足① 裸足で歩く
補足したかったのは、私は沖縄に友人が来ると、「裸足で歩く」ことを薦めています。大抵海沿いを歩く場面が多いので、ビーチを歩いたりします。
私は、旅先などでも裸足で歩ける機会があれば裸足になって歩きます。アメリカでももちろん裸足になりましたし、この記事は滋賀県です。
アメブロ 過去に記事「彦根城なり」:https://ameblo.jp/creating-fun-okinawa/entry-12379446464.html
アーシングとかいう大層な理由づけは無かったんです。気持ちいいし、靴を履いていては皮膚が大自然に接していないでしょ? 内地では裸足で外を歩くことってないんじゃない? 程度のことだったんです。単純な発想です。
後に、やっぱり裸足で歩くと良い! という情報もあちこちで見かけまして、かつ、この書籍でも「今ここにいる為に、身体感覚と言うセンサーを使う」から裸足で歩くって良いもんだよと書いてありました。
これが補足の1つ目。
補足② トイレの神様の大元
2つ目は、「トイレの神様」って一世を風靡しましたね。世俗的な広まり方というか、「運が良くなる」という自分のための「トイレの神様」な一面がありました。お金もどんどん入ってくるよ。と。
現世利益というのでしたっけ?
これを広めた方も多分存じ上げていますが、トイレが清潔なのは私も好きなので、伝え方については好みの問題としておきます。書きたいのはその大元です。
その大元締については知りませんでした。烏枢沙摩明王だという事を。
私、ちょうどフェイクニュースについてのまた別の書籍を読んでいる最中ですので、このトイレの神様の広まり方も「法則」と言いだした方が居たという事なんだなぁと再認識しました。
他の法則論を広めている方も世の中多くいらっしゃいますが(過去にもいた)、なんだか時々違和感を感じる、その理由が垣間見えたような気がしました。(背景が破れて隙間から日頃隠れているホントのところがチラッと見えたようで、その存在にちょっと鳥肌が立つような感じで寒気がしました。)
そして、信じやすいという人間の心理があるのですが、そこらあたりはまだフェイクニュースの本を読み終わっていないので機会を改めます。
しかし、前回の記事の最後にそういった法則や物語を99.9%の方が求めるとあれば、そりゃあマスメディアも発達しようってもんですわ。
大衆操作も計画する人が出てくるのも当然ですね。その位の数字だと心底恐れ入っております。
補足③ 次元について
E>> 次元という捉え方も含まれていた。マルチバースの話は出ていませんが、認識の仕方という意味で使われていました。
については、前回「最後に」というところで
この本に登場する方々の対談は超わかりやすくて、水平方向はトランスレーション、垂直方向はトランスフォーメーションという解説にはしびれました。
と既に書いていましたので完了していました。
さかのぼって記事を修正しておきます。
この3つを前回の記事に補足して、今日の本題に移ります。
上の記事の続きです)「気」についての体験と経験値の拡大と収縮
この続きです。
森の存在
C>> クライアントと「森」について話題にした後だったので、森と関わる会社の方のお話も正に「今でしょ」と読み進めたし
キネシオロジーテストを使えるようになる講座、1dayナビゲーションセミナーの最後に体験セッションを行います。
講座のオマケというか、体験ですから、がっつり個人セッションとは内容が異なったのですが、これは何でしょう? 過去世と理解する類のものですか? というような事になりまして、その後もちろんバランス調整を完了したのですが、その調整の最中に「森」が出てきました。
受講生ご本人も、私は何を思い出しているのだろう?と思われたのだとお察ししましたが、私はわたしで、「森かぁ。森にはこのような役割、機能があるんだね」と感じるところがあったんですね。
知識や情報ではなくて、感覚として「受容」「庇護」ということを他人様(受講生さん)の体験を通して、私も感じたような気持になりました。
これまでも森の中を歩いたことだってあるし、子供の頃キャンプをして森の中で眠ったことだってあるのに、この時の体験セッションのような「あぁ 神道の万物に神が宿るというのは、このような感覚も含んでいるんだな」という感覚は初めてでしたし、それも、体験セッションが終わり、随分経って、このように記事を書こうとして言語化しようとした時に改めて感覚を思い出してみたに過ぎません。
これは、「あぁここには何か気配を感じるな」とは異なる感覚です。
私の中では、気配を感じるのはお茶を飲む、ご飯を食べるというのと同列で、この時のことを「受容」「庇護」と感じられるのは数百年の時代を超えて届いた声のような深みがありました。
このような事があって、そしてその後読んだ書籍の中に「森」が登場したという訳です。
お!(◎_◎) と思いましたよ。
そして、書籍の中には森の中で自分を取り戻すというようなメソッドをされている会社の方が対談されていました。
森の恩恵
- 視界が広がる
- 適正のスピード感
- 五感がひらく
という事と、森の役割などについて紹介されていました。
スピード感も人生の中で何度も変わる
この話も随分前ですが、内地から知人が来沖したので私も観光に同行した際に、とにかくイライラしているので驚いたことがあります。私も含め沖縄のスピード感が遅いのと、内地と同じように物事が進まないという怒りだった。
私も内地で生まれ育っていて、大人になってから沖縄に来たので、その内地との違いは理解できますが、私は何年も生活しているけどこんなにイライラしたことはない。郷に入っては郷に従え方式というか。
そもそも、旅行に来た友人を時間だ時間だとせかす気持ちも毛頭ない。
旅行で1泊?2泊?でここまで?!と思ったので、内地でストレスが溜まっていて大変なんだなと解釈することにしました。日頃自分が生活している環境と異なること自体を楽しめない方も世の中にはいらっしゃるし。たまたまバイオリズムが怒りゾーンだったのかもしれない。
とにかく、運転する車のスピードも速くて恐かった。沖縄本島の主要道路は慢性的に渋滞しているので、「スピードを出しても追い抜いても、結果到着は数分しか変わらないよ。」と言いましたが、その言葉にも一層イライラしたみたいで、もっとアクセルを踏まれて怖かった。
市街地は市街地でいろいろ飛び出てくるので、気をつけた方がいいし。
イライラしているから会話も弾まないので、(これは随分体感のスピード感が違うし、ゆっくりなことにイライラするようだから、付き合い方が変わったんだな)と彼女との付き合い方の記憶情報を更新しました。その時の私たちのテンポはかけ離れていたので、お互い無理に付き合う事もないし、自分のペース以外が嫌なら私が歩み寄れば良いけれど、恐かったから腰が引けた。
2人のまたテンポが合う時が来たら会えばいいかなと考えることにした。
ヒトは変わります。
私も変わりました。
情報はどんどん変わっていくことだってある。過去の記憶だけで人付き合いをしていると、今が見えない。ということは実際目の前にいるその人を見ていないのと一緒なのかもしれないです。
記憶の固着は起こりがちですが、更新も大切ですね。
一方、家族や知人の変化に抵抗を感じる脳のタイプがある。という理解も必要ですし。
また、土地に合ったスピード感ってあるんですね。森の中はもっと遅いようです。
わかろうとし過ぎない
前回のコラムや他にも書いていますが、私は「わからないまま放置しておく」タイプのことがあります。このネット社会、答えを求めようと検索したら何かしら表示されますが、それをしない。(漢字を調べたり、地図を見たりという日常的なことは調べます)
これはどうやら、この森の中でお仕事をされている方との対談によると「説明できないと不安」という不安が薄いからのようです。
講座の中などでも、ただのユンタクでも、質問されてわからないことは「わからない」と答えます。
ダライラマも ”I don’t know”. とおっしゃっることがあるそうですから、私だってもっとわからないことが多いですよ。
それに、「ねぇ それってホント?」と思う説明も山ほどありますでしょ?
私も質問されて「どうでしょうね? それについては、〇〇という説がありますが」と答えた時に、「◆◆先生は違う事を言っていた」と言われたこともあります。私はそれ以上何も言いませんでした。正解があることかどうかもわからない事へのご質問でしたので、聞いたことがある説のご紹介しかできませんでしたし、その答えはご自分で出されたら良いかなとも思った事も確かです。
それに、「ねぇ それってホント?」と思ったことについて、他人は私に正解を教えるのが当然だ。ということもないし、答えを自分で考えていく、出していくって大切ですものね。
今改めて思い出して見ると、正解を早く出す、早く知ることに強くこだわりたい脳もあると思えば、このケースは脳のクセ、認知のバイアスが異なる二人の会話として世の中によくある例ですね。
これも1つのスピード感、時間の捉え方、生き方の時間軸の違いとも言えるでしょう。
正解が説明できるとも限らない。正解があるとも限らない。
会話に登った話題で、答えがわからない時に、自分がわかる範囲でそれを出そうとする傾向がある方の中の1つのパターンとして
正解が出せない、知らない、分からないということを自分の能力のなさだと意識的(ある時は無意識的)に脳内変換が起こり、「結論のない会話をした」というそれを「勝ち負け」のように捉え本題からずれてくる時がある。勝ち負けのように捉え始めたんだなと私が感じるのは「言葉尻」だけをとって、間違いだけに焦点を当て始める時。それをやると、言葉尻の間違いを指摘しはじめた自分の話も矛盾だらけになりますが、それは気がつきにくいことと、最初の話と内容がズレていることには気がつかないような変化が話の流れに起きている。しかし、もうすでに意識が「言葉尻」にしか向かず、自分の思う正解以外は受け入れられなくなっている。本題も主旨ももう脳内から去ってしまい、落としどころがもう「勝ち負け」しかなくなってしまうため会話の修復が難しい。
この場合、ところでナニを話していたんだっけ?と我に返る時間がくるとしたらいつなんだろう?
その時間が来るのか来ないのかも個人差がある事を思い出しました。
私が体験したケースでは、その方が「口で勝った感」を得た後は、記憶ごと丸ごと無くなっているケースがあった。この方の場合は論理展開はなくて、兎に角「勝つ」までやる。矛盾もなにもなぎ倒して勝てばいい。という嗜好でしたし、使う言葉が酷いものでした。負かすためなら手段も言葉も選ばないという行動を、今ならDVと判断してすぐに離れますが、当時の私はまだこういった理不尽(と感じた)には強く反応していて疲れました。
目的を達して勝てばすっかり記憶からなくなる。
これも「今を生きる」、「瞬間を生きた」ことにはなるのでしょうが、また別のとても深い要素が絡んでいました。
いろいろな経験をして、認知の違い、脳のクセ、認知バイアスなどの理解が進みまして、上に挙げた主旨を忘れてしまい「言葉尻」に一度反応が起きると、その信号がドミノ現象を起こし(連続小爆発のような脳内反応。もう自分で止められないのは慣性の法則と表現もされていた)一点集中して離れられなくなる脳のクセなのだと今は理解しています。
- 「勝ち負け」しかなくなってしまう場合は、勝ち負けに反応する脳。
- なにかがあると、自分の能力不足という反応を起こす脳。
- 言葉尻だけが耳に入るという事は、話の全体的なニュアンスを理解するのが苦手な脳とも言えます。
- 言葉尻だけが耳に入るという事は、間違いと思える。または、間違いを探すことに反応しやすい脳かも知れない。
- 評価やジャッジということが得意な脳とも言える。
- 必ず二極化、カテゴリーわけをしないと気がすまない脳。
- 話に「正解」を求める脳とも言える。これに「直ぐに」という条件も加わったりすると、本当の正解ではなくても「その時の自分の正解」が重要視される場合も多い。
- 受け止める。または、受け止めるだけ。ということが苦手な脳。
私も含め、誰しも内包している、そしてある時は突出している脳のクセ、認知バイアスだと思っています。
私は森も含めた自然をお薦め
そして、こういったことも森をコントロールするのではなく、森に自分をゆだねてみると変わってきますよ。ということでした。
私は森も良いし、他の自然も良いかなと思っています。
海もお薦めしている。
決定的な違いは無重力感をあげてみたい。
今回私が体験セッションで感じたような受容感や庇護感とは異なる、包まれる感覚というのが海にはあるような気がしていて、それを羊水に包まれている(浮かんでいる)感覚だと表現されることもあるようです。
また、体質的に「水」が合う方っているんですね。
自分の体質に合うかどうかも、慌てた時間ではわかりづらい時もあるので、どうぞ時間をたっぷりとって、ゆっくりと、本当にゆっくりと海水に馴染んでみて欲しいです。
「気」という面から見ても、滋養されると思いますよ(^^)
前回の記事に書いた、私が海の仕事をしていた時のあの感覚も「気」「無意識の働き」と説明されていたので、人間に元から備わっている能力が働いていたに過ぎないと思うんです。
(ということは、私が意識的に絶対禁忌ということをしなくても、既に無意識はその力を私の良いように配分してくれているということかしら? あら? 答えが出たかな? 笑)
ずっと海水に使ってふやけているのに、怪我の治りも超速でしたし。
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(2019/02/09)
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