ブログに掲載した記事を加筆、修正して掲載しています。

期待という見えない願望

なにかするたびに感動が欲しいという心理。「感動依存、感動中毒」について書いていきます。依存症、中毒の所以は、「何かするたびに」というところです。

 

以前は、それを独りで趣味のようにそれ(感動)を求めている分にはそれを求める自体はなんということは無いと思っていました。各自の感受性や表現の特性なのだろうと思っていたのですが、インターネット内で発信されている情報や現実での他愛のない会話や行動からおっしゃることや行動を見聞きして ふと、それはきっとモチベーションに繋がっているだろうと思いました。

 

日常生活には淡々とした時間も、粛々とした時間やひたすら我慢だ。なんて時もあって、その最中にはさして感動的なことがないとします。

感動依存、中毒の方は感動がないからそういった作業的なものなどは続けることが難しいわけです。

つまんない。

モチベーションの火が消えるのも早い。

ましてやそれが、人の目を気にしなくていい、義務だと責められないものなどはモチベーションの火が消えていくのはテキメンではないかと思います。モチベーションが自分の内側から湧くのではなく、外側に依存していることの1つの現れともやはり考えた次第です。

例えば、褒められる。という感動がないと継続が難しい。このようなケースです。

感動体質といいますか、感激したい! ということについて一見 単なる趣味嗜好にも思えますが、こういったことの積み重ねが心を消耗させる一面はあるのではないかと。

毎回 何事かにつけ 感動したい!と期待をつづけ、それが叶わないこともつづく。「私の人生のドラマティックは????」と探し求めて旅に出そうです。他の依存や中毒同様、満たされない心を感動で埋めたいわけでしょう。

感動という言葉は美しい響きがあるので感動を求めることは 佳き事 というような免罪符もひっそりと持っていたりします。

 

感動することも感動を求めることも佳き事と思いますが、それが自分の存在価値になったり、存在価値のアピールだったりするとおそらく厄介になってきます。

なにがなんでも 感動を捻出しなくてはいけなくなるからです。それは自分の存在価値の証明のために。

 最近笑っていない・・・・

 

リアル充実「リア充」

「リア充」という言葉を ちょっと皮肉に使われるケースがあります。無理しちゃって というニュアンスを含んでいるように思いますが、この感動依存、中毒は「リア充」に含まれている1つの心理だろうと思います。

リアル充実という言葉はただの状態を表しています。現実が充実しているという言葉だから。そこに言外の意味があるとして、それが自然でないのなら、おそらく、感動を求めるあまり感情が安定しにくくなることでしょう。感情が安定しない方の多くは、本当に周囲ばかりを見ていることがあります。周囲から見えている自分を意識し過ぎてしまうようです。もちろん私も何かを見て感情が動くことは当たり前にありますが、程度問題として過剰になるようならそんな自分の心を点検します。

また、感動をさせて! とそれを自分以外に求めている場合は 周りは疲れますね。おとぎの国の魔法が使える王子様(お姫様)じゃないと そうそう期待に沿えません。そんなに四六時中 感動を求められても困る・・・・と困惑するような気がします。これは生来の性分の場合もあると思っています。治すとか治さないとかではなくて。

ロマンティックなタイプということになりますか? 誰にでも(私にもあります)このような要素はあるのだと思っていますが、事あるごとに 感動 感動 と期待し、探しているのは1つの人格の特徴になるかな~と思っています。

そして、もっと もっとと感動欲求は肥大していくのでしょう?

感動はどこから生まれるの?

感動って内側から自然に湧くものだと私は認識しています。心や精神、魂というようなところが反応して感動しているように思います。

あえて質問なのですが、この「感動」は探すものに分類されていますか?

私は興味のあるものは見たい!と思いますし、それが足を運ぶものなら行きますが、来たからには感動しなくちゃ! ということは多分ないかな。すでにそれは作為的な気がします。返って、あれ? 拍子抜けだなってこともありますもんね。

多分、何事かにつけて意味づけし過ぎて、ただある。だけでは気が済まなくなっちゃうんですかね?

なにかしたらそれ相応のリターンが必ずほしいというのは それは強欲なのかなんなのか?

 

すると益々感動しずらくなりそうですね。当たり前の生活で欲しい感動が得られなくなるという難しい領域まであっという間に到達しますよ。そうなると当たり前の日常が非常につらく感じないかな?

かなり前になりますが、精神科医が青い鳥症候群という言葉を提唱したそうです。探し続けるという意味では 感動中毒や感動依存もいわんとしているところは似ています。

それは結局自分に条件付けをしているのですね。

  • 感動する感性がある自分が好き。
  • 毎日感動する日々を送る自分は好き。
  • キラキラしている自分が好き。

ただ存在している自分が好き。で良いと思うんですがどうでしょうか? 誰も見ていなくても評価がなくても黙々と作業している自分が好き。毎日粛々と平常心で過ごしている自分が好き。瓶底眼鏡のすっぴんでスーパーに買い物に行く自分の勇気が好き。(私か 🙄 )

 

多分 条件を満たしていない自分が嫌い。な方は、そのような価値観を育む環境に居たのだと思います。私もそうでした。なかなか 丸裸の等身大の自分が好きなんて・・・好きになる根拠など無いし! と思っていましたが、そんな私にも 自分以外の何かに根拠がなくても ただ好きってことがあったんですね。

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単純に好き? 条件を満たしているから好き?

例えば 犬です。 (私は庭のある家で犬を飼いたいと願っていますが今は集合住宅です)。子供の頃から好きです。居て当たり前の家族として。嬉しいあまり尻尾をお尻ごと振っている姿などはもう抱きしめちゃいます。そんな時は犬の目も笑っているように見えるものですから益々可愛い。

ここで、犬は可愛いよね、純粋でひたむきで。などとなった場合で、それに引き換え 人間は・・・・ という事を考えているならば、嘘つきで裏切る人間が嫌い。などが隠れている場合があります。(多そうだわ。私もそうでしたよ。私の気持ちをわかってくれるのは愛犬だけだと思うような時期もありました。)

これを顕微鏡で じーーーーっと細かく見ていくと、驚くことなかれ「嘘つきで裏切った自分」「誰かの何かを嘘つきで裏切ったと思っている自分(でも多くは嘘つきで裏切った自分のケースが多いと思います)」が出てきます。それを許すまでは 丸ごとの自分は好きになりづらい。

こんなことがいろいろ積み重なり、満たされない心を感じると何かで埋めなきゃ! と無意識に思うようです。 今回のケースで言えば「感動しなくちゃ!」と執着が起きるのだと考えています。満たされていない自分は嫌なんですね。なんだか人間として「欠陥」があるように感じるのかもしれませんが、それは欠陥ではなくて、そのような「状態」なんだろうと思います。欠陥だと思うからそんな自分が好きになれないのかもしれないですね。

 

ここが、心の結び目を解く鍵になるのではないでしょうか?

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感性って目に見えませんね。感性にもいろいろな側面があります。本当に人間の心理は奥深いものです。

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嫌いな自分を見つめることに抵抗がありますか? その抵抗をあえて後回しにして自分を見つめてみると、心が穏やかになり、「私ってまんざらでもないな」と自分を許す心、認める気持ちが出てくるんですよね。不思議なものですね。そして、とても有り難い人間の心理機能だと思います。

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お薦めの本


夢があろうとなかろうと、楽しく生きてる奴が最強。

無理に感動しなくても、当たり前の中にも輝きはあります。アピールし過ぎる必要も、他者の承認がなくても私たちの心の中には感性の息吹があるのです。

今回ご紹介したものは、一言集です。それも写真つきポストカード集。

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