脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその4
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上位概念の弊害?
弊害?と はてなマークをつけても、「こんな大切な概念に対して弊害とは何様のつもりだ!」とどなたかの逆鱗に触れたら申し訳ありません。あくまでストレスケアについて検証している時の1つのトピックでしかありませんので、答えはご自身の中のものを選択してください。
確かに検証というか、議題に挙げますが、答えを出している訳ではないのでご理解いただけますと助かります。
ストレスとの関わりを考えた
以前のコラムで ↑ 「タオのプーさん」という書籍をご紹介しています。今はその内容をほぼ忘れていますが、(あぁ読みにくいなぁ)と感じたのは覚えています。
読みにくいのを通り越したら、内容が頭に入りやすくなった。入りやすくなったのに、今はもう忘れている。 笑えます。 こんなことの繰り返しで生きてます。
上位概念についてジャッジするつもりはないのですが、ストレスとの関わり合いは研究対象なので考えました。概念とそれに対しての反応という意味です。
反応しているのは私たち人間。
大切な逃げ道でもある
追い詰めたらダメだ。逃げ場を残しておかないと。という言葉がある。
ケースバイケースだが、概ね私も賛成だ。
ですから、今から書くことも、「必要なんだ」という気持ちになった。
それは、このシリーズで書いた「ケガレ」という思考、信念、反応についてです。そもそも「ケガレ」という発想・概念がどこから生まれて、誰が広めたのかすら全く知らない。
ただ、非常に人間の脳内にしっくりと定着してしまったことは確かだと思う。
そんなものが本当にあるの? 誰発信? と思う前に、もうすでに「そうなんだ!」と信じてしまっている。そして、「確かにあれはケガレかな?」とか「あの時の私の反応はそれが原因なのかな?」とかカテゴライズできるものを無意識に探しちゃってる。
知識や情報を得たら、そこに分類したいアイテムを持ちたくなるみたい。
脳内で使用している分類の箱に、タイトルだけあって中身は入っていないという状態を無意識に嫌うのかも知れない。
あまりにそれを嫌うと、捏造も創造もするようだ。
ですから、脳の疾病や萎縮というようなことでもないと、脳内をスッキリ!などとシンプルにしていくのは難しいのかも知れない。
箱を満杯にしておきたい時は、知識や情報以外の「感情」「脳内発言」などで隙間を埋めておこうとしたいようにも見える。
このような時にも「ケガレ」と分類されるように思う
自分の好き嫌いを、「ケガレ」という言葉に変換していないだろうか?
おそらく、
- 自分に好き嫌いがあることを自分で許していないとか(という時は他人が好き嫌いを言ったり、感じたりするのも許したくなかったりする?)、自分が好き嫌いをするような人間だと認めたくないとか
- 自分の好き嫌いが感じられないのか
- 誰かに許可を貰わないと好き嫌いを感じてはいけないと思っているとか
上位概念で「ケガレってあるんだよ」と設定してくれていると、私のこの不快感は私に責任があるわけじゃなくてケガレのせいなんだ。理由があるんだ。と免罪符のようなものが得られる。
となると、なんだか安心するんだろう。
価値観は様々だし、人が生きていく時に、「免罪符」という役割を持つものは大切だと思っています。これこそが追い詰めない(追い詰められない)ための人類の工夫なのかも知れない。
クッション材?
不快感にワンクッション置けるというような感じなのかも知れない。
責任を取りたくないとか、庇護される立場を失いたくないというようなことを無意識に選んでいるのかも知れない。
自分が何を感じているのか、わかりたくない。という心理が(も)あるんだろう。これまでも度々、「感じないために」解離をする事例などにもついてもコラムで触れてきた。
原始ではなく現代だからこそ、自分が生き抜いて行くために、感覚を鈍くするというやり方を選ぶケースがあるのだろうし、増えているのかも知れない。
ですから、上位概念を
自分というものを持つのではなく、ナニカしらのいう通りにしておけば庇護される。
というイメージで使っておられる場合もあるのではないだろうか?
大いなるナニカに委ねて、好き嫌いということはもちろんのこと、自分を感じることを封印してしまうのだろうか?
それが良い人間になるためには必要だと思い込んでしまっている可能性だってある。
好き嫌いを自覚すると、それを自分で引き受けないといけなくなる。自分以外のナニカ、ダレカにそれを引き受けてもらいたい。
その役割を担っているのが、「ケガレ」ということや「宿命」ということや、「タイミング」「理(コトワリ)」(などなど他にも沢山あるだろうが)という場合もあるんだろうと思う。
だから、ここを突き詰めていくことは、ご本人によほど覚悟がないとただただ追い詰められていく感じしかしないだろうと想像がつく。
しかしまた、様々な信仰スタイルがあるのかも知れないので、上位概念について信仰心として自覚されている場合は個人の選択ですし、意識されていようと無意識だろうと、書いてきたようなことが悪いと書いているわけではなくて、私が考えたことは「ストレス反応と価値観、信念の関わり方について」なんですね。
誰だって(または、多くの人は)守られたい。守られていると感じたい。
それがストレスを生むことがあるのかも知れないが、支えにもなる。
こういったことを考えるに至った自分の体験もあり、上位概念を絶対視して「良し」として、心体カウンセリング・セラピー・ケアで推奨するようなことはしない方向性です。
それが必ずしも救いにならないケースがあることを考えてしまうからだ。
ですから、私のサポートはストレスケアです。ストレスケアも多岐に渡りますので、先ずはこちらを優先しています。
安心感
人生の不確定感に私たちは不安を覚え、少しでも保証が欲しいと思うものだ。
不確定な様も、何か保証が欲しいと思っても、頭の中で繰り広げられているに過ぎないのだということは、身体の感覚で(あぁ!安心感というのは、こんな風に感じるんだ! これは凄い!)と実感したらより一層理解できるのではないだろうか?
安心感を「得る」という本当の感覚。と思いたくなるような感覚だ。
お陰様で、私には不思議体験に分類されるのかもしれない体験があり、
あぁずっと見守られていたんだ。と感じたことや
見るだけ(見守り)ではなくて、本当に護られているんだと感じることや
その護られ方も、各方面から護られていたんだと感じることもあった。
私が条件を満たしているから護られてきたわけじゃなくて、無条件で護られていたんだと感じられた。
こういった体験を通して、気がつかなくても、感じられなくても、ずっと護られていたんだと思えたし、生まれて以来いつもいつも私の身体が働いてくれているように、24時間365日寄り添ってくれているんだ!と ハッと気がつけたような気持ちになった。
こんな感覚を生きている間に感じることができるなんて、なんて有難い!ともう十分満足していたのですが、つい近年これにまた別の護られている感が加わる幸運に恵まれ、安心感というのはなんという強力パワーなんだろうか。という実感があります。
そして、この安心感の感じ方が、遠い遠い上位概念から得られるものではなくて、本当にいつも隣に寄り添ってもらっている感じなんですよね。
こんな理由があって、こちらのコラムに書いたように
他人様が作成した神的な上位概念に自分をはめていくのではなくて、ある時期から私は神(他にも色々ありますが)という上位概念をある意味人生訓などと並列に扱うようになったんじゃないかという自分の変化です
と感じることができるように変化をしたのかも知れません。
これは私だけではなくて、感じようと感じまいと皆が同じように無条件に護られている。と、以前サイト「こすも」にも書いた気がする。
これらに気がつけたことこそ僥倖のように感じます。
どうしたら安心感を感じられるのか?
では、どうしたら安心感を感じられるのか? についてですが、正解や法則はよくわかりません。ネット検索したら色々出てきそうですが。
ただ、
「あなたは何をやってきたんですか?」と質問をされたら
「ストレスケアをやってきました。」と答えます。そして、(今はずいぶん減っていますが)今もストレスを感じたらケアを行なっています。
あと、なんでも鵜呑みにすることは注意しています。
素直に聞くとか、素直に教えて貰うということと、鵜呑みというのはニュアンスが違うのですが、あなたはどうお考えでしょうか?
また、素直にしたら良いのに、意地を張るような、逆転や矛盾も自分で気がつけるような余裕を持っていたいな。と思っています。
ですから、ストレスケアの専用アイテムがないと安心してストレスケアできないというような状態になることは私個人は避けていて、(私自身がそうしているので)お伝えするセルフケアもアイテムなどを使わないご自身をリソースにしたストレスケアをお伝えしています。
身ひとつ。自分が頼りにできたら良いでしょ?
どうぞ生活に手軽にストレスケアを取り入れてみてください。
安心感を得るために「条件」が要らなくなるというような状態まで行けたらラッキーですが、今よりストレスの感じ方が20%、50%減るだけでも楽に感じるものですよ。
個人セッションとセルフケアの併用もおすすめです。
(2021/07/04)
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