脳内に宇宙図書館を持つ方の知恵に「なるほど!」ーその1
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なるほど! の宝庫
続きを書くと予告して全然続きをアップしないというフェイント。連投という言葉を使ったのに、こんなにアップする間隔が空いてしまってます。
申し訳ありません。日々の出来事に流されておりました。
連投するとは書いていましたが、内容は一度リセットとなりまして、連続しているのは参考図書のみです。
学び先、学び元
私も自分なりに考えた my修行を勿論「良かれ」と思ってやっていたことがある。
善き人間になりたいという理想というか、切望がその原動力だったし、苦しみから救われる確率が高くなると考えていたんだろうと思う。
ですから、修羅に満ちたシャバ(釈迦のおっしゃるところの娑婆です)に浸っていては人間の質が上がらないと思っていた節がある。自分のことはとんでもない高さの棚に置いて、朱に交わって赤くなっては大変だと思って心を閉じ、距離を置き、まぁ簡単にいうと、ケガレを遠ざけたかった。
こちらも簡単に書くと、ケガレに影響されないためには悟るしかないんだろうと思ったりした記憶があるし、悟ったらシャバから一段抜けて質の良い人間に格上げされるような希望とという幻を想定していた。
もう一度書きますが、自分のことは棚に置いて、別格扱いしていたわけですよ。
非常にぬるい考え方ですね。
この考え方こそシャバ(と定義された世界感)と完全に一致している証拠なんじゃないかと今は思います。
これまでも書いていますが、
- 娑婆から「抜ける」とか
- 自分に影響を与えるケガレ(と自分が勝手にレッテルを貼った物事、事象、人など)を「排除する」というその嫌悪感のようなものが
非常に娑婆風と感じる。という書き方をすると伝わりやすいでしょうか?
非常にぬるい考え方(と今は自覚していますが)ですが、おそらく多くの方の通る道だろうし、この道を終えてまた違うルートに入っていく(または途中で路線変更する)方はそんなに多くないみたい。(正誤や真偽の話をしているわけではありません。私見です。)
今となれば「その考え方は穴だらけだぜ」と言いたいけれど、その時はその時なりに一生懸命だった。
それに、今の思考だって、後になれば「穴だらけだせ」と思うかもしれないから、いつまで経っても、「私の現在のところの考え方です」ということでしかありません。
経過はもう詳細に覚えていないのですが、
- 心を閉じていても、
- 自分を別格だと感じていても、
- 自分以外をケガレだというような意識も(嫌いなものをケガレだと思うなど)
それこそ真逆なんだと思うようになりました。
そして、自分が無意識にこのように思っていることに気がつく方もそんなに多くないみたい。
そして今に至ります。
こういった私の思考変化を、脳内に宇宙図書館をお持ちで、かつ、わかりやすい文章をお書きになる荒俣宏氏は、数行にまとめておられました。
子ども料金で暮らせる猶予時間の後社会に出れば、さまざまな俗事や雑事に追い込まれる。けれども、それを雑事として斬り捨てたらおしまいだ。
雑事の中からこそ、奇発想や新学説や名文は生まれるからである。
わたしの体験で言うなら、世の中は雑事にかかわればかかわるほど自分に磨きがかかるようにできている。ー「妖怪少年の日々 アラマタ自伝」より
そういうことです。
わたしも賛成です。
シャバを「泥」と例えると言う生意気ぶりですが、アホな私を許してください。
今は考え方も変わっています。
わたしが意識したこと
やめたこと
詳細は覚えていませんが、大まかなことは覚えています。というか、意識したことは覚えています。
自分なりに考えた 「良かれ」と思ってやっていたmy修行をやめること。以前も書きましたが、生まれてきた意味を、修行と過剰に結びつけるのをやめました。元々お役目思考は薄かったと思いますが、世の中でよく言われている「お役目思想」を
生きていると色々あるよね。
という意味合いではなく、
私はこれを背負うため(救うため)に生まれてきたんだ。生まれてくるとはそういうことだ。
という原罪意識のようなものを(私は神様ではないので)過剰に他人様へ流布するつもりもないし、お役目意識として(それが正義だという意味を乗っけて)「当然あなたも受け取るでしょ?」と他人様へバトンタッチするような意味合いを含んでいるようなコントロールがあれば気がついてやめていきたいと思っています。
私には
- 他人様に修行を推奨したり、
- お役目を設定したり、
- 原罪や贖罪や殉教という思考について
これらを「良かれ」と伝える立場でもないことを(それこそお役目もないということに気がついたような気持ちでいるため)自分のとりあえずの信念としています。とりあえずの信念となって何年経過しているのかはっきりしませんが、10年以上にはなっているんじゃないかな。
ですから、こういったことを広めるのは、宗教家の方や、信仰や教えを伝えるという役割を持った方や、伝えるのが好きな方にお任せしたい。
私は、これら(原罪やお役目、贖罪、殉教etc)が常識だと信じ込んでいるが故に苦しんでいる方、ストレスを溜めていかれる方、自分の人生をどう感じていいのかわからない方のサポートを行っているような時もありますし、それもストレスケアに含んでいます。
別に信念や信仰を手放すことを推奨もしていないが、心体の回復や自分の人生観を一度確認してみるというような希望があればサポートをしたい。脳内・価値観を棚卸しして、子ども時代と大人時代とのやり方の変化と整理というようなことを対話したりしています。
何かの枠組みから相談者さんを見るのではなくて、
相談者さんが中心となったときに既存の枠組みとの関係や影響は?というようなことを洗い出していくという意味になるでしょうか?
それをアラマタ自伝では
子ども料金で暮らせる猶予期間 と その後 と表現されていたように思う。
素晴らしくわかりやすい表現をご紹介していますが、言葉の紡ぎ手としての私といえば、いつもながら文章化が下手くそで申し訳ありません。もしよければ、意味を汲んで下さいますか?
方向転換後、統合と融合スタート
個人的には自分の気付きと方向転換は自分のためにとても良かった。
下のコラムには、ミラーニューロン、融合、という言葉を使っています。
下のコラムは統合や融合という内容についてもう少し詳しく書いています。
このホームページのホームページ内を検索する検索窓口に「統合」や「融合」と入力して検索していただくと他のコラムも出てきます。
当面、この考え方を採用しようと決めて はや○○年
ふと、
シャバで普通に暮らしていたら、
自分の人生をコツコツ(粛々)と生きていたらすでにそれが修行になるということにしよう! と決めた。
自分でやけにこんがらがった(my創作)修行を設定しなくても、生きていれば好むと好まざるを関わらずそれが修行なんだから変に手を加えなくていい。あるがままに対処していくしかない。そういったことはお任せ?委ねていたらよし。と思うようになったんですよ。
新しい価値観を採用後の変化
- 自分と他人とか
- 自分と世界とか
- 崇高やナニカとシャバとか
分けて考えていたことを、全部一緒なんだな。という逆の視点という認識を持ったらどうだろう?と思うようになりました。
- 善と悪という考え方を見直して見るとか
- 被害者と加害者
- 発言と行動(体現)
- ずっと伝わっている金言と現在の娑婆構造
価値観って定期的に見直せる。それをしようと思えば。
急な方向転換はストレスとなるだろうから、一旦お休みしてみるとか、猶予期間を設けるとか、トライ&エラー、試行錯誤していけばいいんだろうと思う。
スキル指向や、近道研究主義や、ライフハックしか理解できないというそれぞれの好みもタイプもあるだろうから、試行錯誤を嫌がる場合は私のご提案はほぼお役に立てないと思うが。
なんにしろ、自分次第だ。
(2021/07/03)
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