シリーズ4話目 ランオーバー・バッファオーバーランで「量子心理学」「次元心理学」へ

知覚

外出自粛の推奨されているゴールデンウイークをいかがお過ごしですか? 私はいつもと変わらずコラムを書いていますので誰に言われなくても自宅に居ります。

ちょっとした流れのある3つのコラムを書き、公開し、(あぁこれで一旦区切りがついた)と思っていたのですが、いつも通り思考のランオーバー(バッファオーバーラン)があり4話目を書くことにしました。

 

3話目が予想外の長さになりましたので、今日は短めに書きあげたいと思っています。

※最後まで書きました。〇〇の一つ覚えを書きます。予定より長文になりました (-_-) 

 

理論物理学だそうだ

次元の話を書いてきた。ネットの情報によると、多くの次元の層(時空)があるという概念は、余剰次元と言い、理論物理学に属するそうだ。

どうやら私はこの余剰次元が脳内に在り(脳内で感じ)、それは特徴的な脳機能欠損がない限りは誰でもその余剰次元を感じており、ほとんどは感じていること自体を無自覚なようだと書いた。そして、これをこれまでの「引き寄せの法則」という思想に、余剰次元というルールをプラスして考えてみたら、豈図らんや精神・心理・感情ということと直結している実感がわいてきたという事まで書いてきた。

多分、こういった事を感覚的に捉えていたんだけど、それはやはり無意識下であった。ですから、コラムに書くというアウトプットをする過程で、自分が綴っていく文字を見て瓢箪から駒感を感じるという家内制手工業作用に笑えた。ラッキーであった。

また、ここでブログを挟みます。あっちこっちにjumpして申し訳ないのですが、このブログを書くことでランオーバー(バッファオーバーラン)が起きたので、これを抜くと、思考展開をシェアできないので宜しくお願いいたします。

ブログに書いたように、書籍を再び手に取り、続きを読み始めたわけですが、それが相乗効果となり以下のことを書こうという気になりました。

書籍のマネではなくて、3つコラムを書いてきたその延長線上で書いていきたい。

 

見るとか 知覚・認知するとか

「見る」とか「知覚する」「認識する」ということについて、改めてまとめてみたくなった。それは、多次元を前提とした理論物理学にのっとってという意味です。

 

「今ここ」という思想があるが、これを簡単に言うと「次元Aに居ようよ」ということになるんだろう。

「次元Aに居ることを知覚しようよ」の方が良いのかな。

他にも、多次元も結構だが

  • 次元Aにプラットフォームがあるという感覚を知覚しよう
  • 次元Aがプラットフォームという事を受け入れよう

などなど 例を挙げてみた。

確かに脳内には余剰次元がわんさかあるし、人によっては「次元A」の捉え方が異なることを承知のうえでちょっと強引に書くと、「次元Aに居ようよ」ということになるんだろう。

ずっと次元Bにいる方や、次元CDE・・・・にいる方も存在するのだろう。それをこの理論をもとに考えると、幻聴、幻視、幻体感覚ということは、次元A以外のどこかだという仮定ができるという事が頭に浮かんだのです。

それを勝手に「高次」とか「波動が低い次元」というような高低や優劣という観念を持ち込んだのは何処かの誰かであって、そういう表現や観念を知ったそれぞれが非常に素直に固定観念として受け入れた(ゴクッと鵜呑み)に過ぎないという説も成り立つよね。こっちの仮説の際にも、次元に高低、優劣が無いという前提が必要だけど。

 

あなたの意識は今「次元A」にいるだろうか?

 

そう、認知力や認識力とは、見る対象、考えている対象について、それが次元Aなのか次元BCDE・・・にあるのかが判別がつくのかつかないのか という言い方ができる。だから、情報や知識や的を外して陶酔を推進しちゃう修行の集積ではなくて、あなたの「体感覚(健康的な五感、六感などの意)」「自分を体を感じるチカラ」が重要になるんだろう。

 

これは書籍「マアジナル」では、身体感覚と書かれていた(以下、身体感覚とも書いて行きます)。そして、また、こういった考え方も仏教と西洋宗教は違うようで、自分を無くして埋没することを良しとするのか、今の自分という次元感覚があるのをよしとするのか という違いが有るそうだし、背景に信仰・宗教があれば、もっと多くの考え方があるようだ。

その信念は自分が選べばいいのだか、今日現在の私の行っている心理学的、身体心理学的アプローチでは自分を無くして埋没していくことは推奨していません。これが今の私の次元Aで選択したいことだからです。

宗教的な考え方と、心理学的考え方はいつもは境界があいまいな事もありますが、現在は心理学的アプローチをするのなら自分を無くすということを薦めないと思う(無くすのではなく、認知の仕方を取り上げることが基本だろうと思います)、しかしそれが信仰的なアプローチならそれも有りだろう。

ご本人が認識・理解したうえで悩み、ストレスにアプローチする方法を選択されたら良いと思う。

 

組み合わせ

身体は次元A。意識はいつも次元B、C、D、E・・・という事がおそらくバランスが悪いという1つの意味だろう。これがストレス源ともなるだろう。

このように理解すると、統合失調症などは、身体と意識の統合がズレちゃったり、外れちゃったりしているという状態が察しやすい。そして、統合失調症とい状態の名前がつかなくても、誰でも起きてる。今自分がどの次元を「今ここ」だと認知しているのか、認識しているのか感じられない方はとても多いと思う。

ましてや、身体と解離して、例えば「高次」だとご本人が想定している次元に意識を埋没させておくと、フェイクな現実(とあえて書きますが)にウットリとして気持ちいい。と感じるような脳内物質が出るんだろう。

しかしそれも、脳は次元の錯覚が起きやすいのでフェイクではなくて、「現実」なんだろうけど、身体は付いてきていない。

 

夢の中で、身一つで空を飛ぶというような例を挙げると分かりやすいだろうか? ということは、身体は次元A。意識はいつも次元B、C、D、E・・・という状態にいつもいるとしたら、それはずっと夢の中に居るという事なのか? (これを書くと一気に難しくなるので今日は書かない。というのも、次元Aも夢の中だと昔から言われていますよね。「この世は幻」って。)

 

私は未体験だが、身体が次元B、C、D、E・・・で、意識が次元Aという組み合わせだって可能性から外せない。

 

いろんな組み合わせはあるだろうし、いろんな思想はあるんだけど、現代は「次元Aに心体両方居ようね」ということが推奨されていて、心理学では何をやっているのかと言えば、「いろんな次元の体験もするでしょうが、肉体のある『いま』と言われている次元Aに私はいる。という事を基本にしよう。」となっているはずです。

 

療法

それが例え前世療法だとしても、スピリチュアルなんとか、だとしても、「今のあなたが楽になる」とか、「今より回復、改善を目的に行う」という事でしょうから、焦点は次元Aに合わせています。

次元A以外(例:前世)にアプローチします! と言われていても、今(次元A)のあなたが楽になったかどうか?が求められていますでしょ?

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

 

現実と理想のギャップ

現実と理想のギャップはあって当たり前です。理想に達したらそれはもう「現実」だからね。

敢えて「健康的」という表現を使いますが、ご本人の「健康的」の感じ方も異なるので、あくまでも私の感覚で書き進めます。

 

その理想も、細かいことを書けば、到達するまではどこかの次元に該当するのですが、その次元と次元Aが健康的なリンクするのか?、不健康なリンクの仕方をするのか?という相性があると思えば良いのかも。

相性の良いリンク先は心体が元気になり、活き活きとしてくる。相性が悪いとその逆。

 

ギャップというものがダメージとなるストレスになるのか、生活のハリとして作用するのかというような考え方です。

そしてこの時に、次元Aもハッキリしない。理想の次元X(エックス)もハッキリしない。なんてことも普通にあるのかもしれません。そんな方、そんな状態のためにも「書き出し」をお薦めしています。

過去と現在と未来の不安、感情の暴走へのストレスケア(楽になるヒント・対応方法)

一つの回復着手点

良く書くのは、人生という地図のなかの「現在地の確認」「目的があるのならその場所の確認」という表現ですが、使う言葉が「次元」に変わっただけですね。

 

 

言うだけ番長

昨日、料理をしている最中にふと(口だけの人に、言うだけ番長だよ。なんて言うけど、あれも脳の特徴的には当たり前なんだな)と思いました。

自分が行動しているのかどうかという身体感覚が伴いにくいのなら、イメージできるから(情報があるから、知ってるから、勉強したから。)自分は出来ていると感じている。そんなの私も勿論含まれますよ。違いは、身体感覚とそれを知覚・認知する度合いだろう。

神経のバイパスの太さだったり、稼働している生体電気量ですな。

脳の特性ということや。

 

これに気がついたあなたは、今日以降、言うだけ番長の人を見たら(そこに武田も含んでもらっても当然OKだ)、

(そうか、次元Aと身体感覚と神経や電気の状態がアレなんだな。)

と思えたら少しは楽にならないだろうか? アレが具体的になんだったのか思い出させなくたって構わない。覚える必要もない。

 

言うだけじゃなくてヤレよ! とか、言うだけなら誰でもできるんだよ! と感情をざわざわと騒がせる前に一呼吸おいて

(これが あの現象か。脳と身体感覚だな。)

と思うだけでも感情エネルギーのガス抜きになったりするものだ。

 

おかえり

私は以前のコラムに、一線を超えて行ってしまったと私が勝手に感じたり、こりゃあ魔境のゲートに入ったか?と勝手に思った方がいたら

帰ってきたら「おかえり」と言おうと思っている。

だからと言って、私が正しい場所にいるかどうかもわからないんだけど。

と付け加えた。

と書いた。

居る場所。居たい場所。

 

こういったことを書く何年も前、何十年も前からこういった感覚があったけれど、文章に書いたのはまだ数年前。この時は、今ほどレイヤーの枚数が無かったし、レイヤーの〇枚刺し! というような大きな連結をしていなかったから、感覚について表現していただけでしたが、今はこれが

私は自分のプラットフォームを次元Aに設定しているが、一線を超えたように勝手に感じてしまう方は他の次元へ次元Aに体を置いて行ってしまった(と私が感じている)。 だから、私たちの共通の次元Aのプラットフォームでまた会う事が有ったら、「おかえり」と言おうという意味だったと理解できた。

 

身体は先に知っているもんですなぁ。

いやはや。有り難いです。

 

戻ってくるチカラ

類友で、同じ解離の仕方をしている方とだけコミュニケーションをしていると、その方向の磁力が増幅することはあっても、沈静化することは無いだろう。

電気エネルギーの法則のようななにかそんな理由を元にして考えると。

 

ウットリとしたその状態を邪魔するように感じる「波形を乱すもの」が現れた時が気づくチャンスだろう。

 

夢を見ている最中に催眠作用の音楽を聴いてより一層深く眠るのと、「起きなさい!」と耳元で怒鳴られて ムカッとしながらも覚醒してしまうように。 いくら怒鳴られても起きない強者は世の中に居るし、起きてもまた違う場所で眠ってしまう人もいるから、これも陶酔欲求や解離欲求の強さと共通点ですね。

 

どうしたって、ご本人に、次元Aをまずはプラットフォームにしようか。という意思・気持ちがなければ意味が無いのですね。前提が違うわけですから。

 

こういった事 ↓ ともリンクしてくるだろう。

生き急いでしまう

 

様々な人生観があることは知っているが、帰ってくることが大切な時もあると思う。

体感覚

心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアは、心と身体、双方からのアプローチ。とお伝えしていますが、もう本当にそうなんですよ。

心体カウンセリング™ の最中に、「自分に帰ってきた(戻ってきた)感じがする」という御感想を聞くことも多いです。

 

脳のストレスケアだけやってれば良いのかってことでもないと私は感じていますし、それもあって、以前から多次元的アプローチとも書いてきました。

それは理論、理屈だけの多次元じゃなくて、私の体感覚が感じることのある多次元であり、余剰次元であり、マルチバースという意味です。う~ん、それは数学的な事象を体感覚として感じているというようなことなのか? はっきり書けませんが。

 

少なくとも、自分の身体の状態の知覚をするということは得意な時もあるようです。だからこそ、酔っぱらいにくいというか、他の次元に居る時の知覚があるというか、次元Aと他の次元の違いを感知する事が多いというか、そんな感じ。

こういう面で、私などよりも相当しっかりされている方をお見受けしますが、何が違うのかと言えば、特徴的なのは、脳の馬力というか、粘る力というか、フィットネスというか・・・何かピッタリくる表現があるはずだと検索したらば 出てきました。

グリット(grit)という表現が。

 

「量子心理学」「次元心理学」

自我

現在のところ、次元Aというのは「自我」の1つの状態・切り口と言えるだろうか。

 

「量子心理学」「次元心理学」

こんなことを書いていたら、素敵な言葉を思いついた。

 

「量子心理学」「次元心理学」だ。

今度からこの言葉も使って行こう!

あなたもこの言葉を覚えてくださいね。今日以降、この言葉を見かけたら「アレだな」と笑ってください。(笑)

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

でも、もうすでに使われている言葉なのか?と検索したら、私が書いたような心理学と物理学の融合は当然のごとく既にされている記事の存在を知った。少なくないようだ。 へぇ~ やっぱりそういうところを経由する方はするんだな~と思った。 しかし、こういった直接的な知識無く、事象とその検証からこの経由地点まで来た自分自身を気に入っている。

以前シェアされていた「進化心理学」もこのカテゴリーに引っかかってきたので、今ようやく「進化心理学」をシェアされた松原先生の脳内の端っこに到達した。あの時はまだそれがどういうことなのか今のように具体的になっていなかった。だってブログに書いた私の(なるほど!)の反応点が全然違うもの。(笑)

 

このように、ヒントをヒントだとわかるためには、それがヒントだと気づく能力(土台)が必要なんですよ。

 

今回の記事に書いたことを、どうやら同じことをお気づきの方もいらっしゃるようだし、解説されている方もいらっしゃるようだが、既存の「引き寄せの法則論」が固定観念になり過ぎて、受け手がそれを受容するお皿がないので聞いたはなから、読んだはなからこぼれているんだという事に気がついた

と書いたが、受け皿の未熟具合の良い実例になったでしょ(^^)

身体を張って解説しております。

イメージを実在化する。私風「引き寄せの法則」の納得のいく解釈。

 

おわりに

今回も最後まで読んで下さってありがとうございます!

 

書籍「マアジナル」のなかで、登場人物が

なにかの力にすがり真理に至る道はないことを知りました。

と言っています。だから、サイの角のように孤独に歩むことに決めたそうだ。

 

私はこの「真理」というのに、なんだか違和感がありまして、全然追求したいという気持ちがわかない。

 

「ホンモノ」という事には昔あんなにこだわろうとしていたのに、真理と聞くとちょっとげんなりするみたい。

 

心のどこかで、(それを知ってどうするの?)と聞きたい自分がいるからです。しかし、私だって他から見たら「量子心理学」だの「次元心理学」だのと盛り上がっているのってそれと同じです。

それはただ、真理を知ることよりも、優先順位が高いものが私に有るというだけなのですが、それと同時に、私はどこかで、「真理」というものが探さないとわからないとか、修行しないとわからないというような思い込みに異議を申し立てたいような感じなんですよ。

私には、真理って多分、ずっと目の前に見えているものだと思っている節がある。それはこの次元Aにあって、生まれてから死ぬまで目の前にいつもある。多くはそれが遠くにあるとか、隠されているとか、選ばれた人しかわからないという伝聞を信じ込んでしまったがために見えなくなってしまっているんじゃないか? と考えている節があるんです。だから真理を「探す」とか「求める」という発想になって、一線を超えてどこぞの次元へ出かけて行ってしまうんじゃないかな。

 

先述の

しかし、私だって他から見たら「量子心理学」だの「次元心理学」だのと盛り上がっているのってそれと同じです。

にもう少し書き加えるのなら、私は、この目の前に見えている次元Aの「真理」「事象」に興味を持っています。漠然とした「真理」ではなくて、「超現実的真理」というような感じがしていますよ。(笑)

その辺りを或る時はぼんやりと、ある時は目をパッチリと開いて見ています。

 

ですから、これらが誰の目にも見えるようになる(認知する)にはどんな視点があれば(視点を御提案したら)それらに焦点が合うのか?を私は研究しているのかもしれませんね。

だまし絵をどんな角度に傾けたら、隠れているものに気がつきやすくなるのか?というような意味です。

 

こんなまとめ方をしたのは今が初めてですが、書いてみたらしっくりきています。

 

こういう嗜好があり、私は人間道を好んで歩いておりますので、「生きていく」という現実の方が優先順位なんだろう。ですから、「ナニになるかではなくて、どう生きるかだ。」なんて言葉派なんでしょうね。年齢を重ねるほど「しっかり生きる」という言葉に馴染みを感じてきた。

 

コラムに色んなことを書きますが、勉強するぜ!と情報に目を光らせていなくても、人間道をあるいているだけでアチコチで興味深い「現場」(私が感じる「真理」)を見ることも、知ることもできる。そういったこともあり、どこかの誰かが考えだしたハクがつけてある「真理」を知らず、程遠くても、私の今の生活は幸せです。今の生活が「すべては幻」だって幸せ。

 

生きていることを感じて、それで有り難さを感じることができるなんて、苦しいなぁ しんどいなぁという時も、次元Aに居続けてしっかり感じてきて良かったと思ってます。(書籍「マアジナル」に引っかけて書きました)

 

嫌だと思いつつ、その本丸にDIVEして良かったと思っていますよ。

モリ―先生の人生観

 

 

勉強や情報、知識も大切ですし、実際に指導して貰わないとスタートしないこともあります。 ですから、勉強を否定しているのではなくて、勉強が大切なことと、洞察が大切なことがあるんじゃないかという事を忘れないようにしたいと思っています。勉強だけでは理解できないことも世の中に沢山あるんじゃないかな。

 

考えることも大切ですが、思考をいじくるだけのモラトリアムはそこそこで切り上げた方が健康的だとは思う。そう思うものの、底打ちするのも良い体験だとささやく私も居る。

結局のところは、なにがどうであろうと、色んなことを学びますものね。

 

それもひっくるめて「しっかり生きる」という事なのかな。

 

皆様の生活が安全と、安心と、平和に包まれますように。

精神保健福祉士

心体カウンセリング™ ・セラピー・ケア

武田美紀

 

(2021/05/02)

 

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