ふわふわしていない幸福論
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「幸福論」というタイトルの書籍は多い
成功哲学系や、柔らかい言葉(柔らかい言い回しも良し悪しという考え方はあるという事も過去のコラムで触れました)のスピリチュアル系も「幸福とは?」という命題について書かれたものは多いです。
私も時と場合によって、それらを使い分けしてきました。
使い分けと言うのか、影響されたというのか、洗脳されたというのか、モノは言いようですが。(笑)
書籍「幸福論」の前に、なぜか「サイコパス」
今は取り立てて研究していませんが、世の中に「サイコパス」という言葉が出回る結構な前から、割と長い年月自主研究していました。その後、ブームみたいなことになり、有名な脳科学者をはじめ、色々な著名人もそれらについて書いたり話すことが増えました。その論説の中にデータを使ったり まぁ様々なご意見(意見じゃなくて研究結果という時もありますが)を発表されていても私の琴線に触れるものがあまりない。
体験から学んだものはあっても、著名な方々の説を否定できるほどのキチンとした臨床結果データも私個人には無いわけで、いつも通りの「感覚」の話でしかありませんが。
そんな中、「そうだよ! このご意見を待っていた!」というご意見を書籍の中に発見し、(やっぱりこういうものは、科学のデータをいくら知っても、実生活に反映させていないものは理解が進まないジャンルのことなのかもな~)(だから、私の自主研究に共感して頂ける方も同じような感性を持っていて頂かないと伝わらないかもしれない)(私の琴線に触れる、触れないには理由があった)(そして、こういった事を、個人セッションに活かす以外、別に他に伝えなくてもいいや)と思ったので、自主研究は止めました。
サイコパスに対する視点を放棄したわけではありませんが、それに対するジャッジや善悪のレッテルを貼りたくなる習慣を放棄した感じです。
今現在は、(あぁ、世の中にはこのようなこともあるよね)という反応だけになっている模様です。
また、そういった痛みがあることを「幸福」と感じる脳・感性があるという事も理解が進み、益々、私の判断などなんにも関係ないということになってきた。
こちらの先生のサイコパスの著書(対談含む)も読みました
大きかったのは、こちらの先生と作家さん(平山 夢明氏)の対談集(対談本)の中で、表現はキツイというか、なかなかそんな風には言えないし、私も書けない(表現しきれない)が、サイコパスに関連について語られており、その見解を読んだら、私の気が済みました。
あんなに あからさまな表現は私にはできないけれど、その影響を「受ける側」にちゃんと焦点を当てているという骨子が良かった。物事の吸引力が強いキャッチ―な部分だけじゃなくて、全体の話、根底の話をしているように思えて良かったと感じました。
IQが高いとかなんとかっていう「特別扱い」みたいなことを特徴の一つとして列挙されるのならまだしも、変な意味で称賛されているのに私は常々賛成しかねていた。(注目するのはそんなところじゃない。)なんて気持ちが私の中にあったから。
(注目するところ、取り上げるところがズレてるよ。IQなんて関係なく、善性が感じられない「性質」の問題だよ。)なんて気持ちがあったんですよね。IQが高かろうが低かろうが、悪魔的にも感じる利己主義者のようなケースはサイコパスに感じる。悪魔に魂を売ることも意に介さず手段を選ばないように感じたり、手法が悪魔的でも躊躇しないあの感じ(それが突出した利己主義と感じたりするのですが)が許しがたいというのが私の反応だったんですけどね。
育ちによっては、利己主義を当然の権利として性格・環境に持っているというような事もあるのかもしれないが、そういったあっけらかんとした利己主義と「悪魔的にも感じる」という利己主義はこちらに響いてくるものが違ったりするものだというのは自社データ調べでしかないが。
しかし、すっかり落ち着きました。
それを善性と感じることも、悪性と感じることも、人それぞれだという事が以前より感じられたことや、なにかしらのバックヤードでそれらがどういう影響をどこまで引き起こしているのか?(これすらも存在自体が不明です)、そしてとても基本的なことですが、その影響で受ける痛みで「生きている感じ」を確認したいという潜在的な欲求などをもっている方がいるという悪者も被害者もおらず利害は一致しているケースが多いというようなことを理解できるような気持になってくると
サイコパスと言う特別な案件ではなくて、いろいろな物事の中の1つに過ぎないということになりました。
私が許せなく感じようがどうだろうが、それを許して甘受することで利害が一致するということをある意味症例として理解できたという事にもなります。
善悪と感じるものは、見ている側が善悪をつけたいだけだ。というケースがあるということです。そこに感情移入すると「生きている感じ」が味わえるからだという理由も考えられます。
こういった私の経緯もあり、こちらの精神科医の書かれるものや、対談については、私は興味をもって読ませて頂いております。
バックヤードがそもそも在るのか?
下でご紹介する書籍の中の
世界の構造を垣間見た。という実感
という記述を読んだ時に、(春日先生もあの「バックヤードのようなもの」を見たり、体感されたりしたんじゃなかろうか?)と思いました。
相似形について
また、著者の春日武彦氏は「フラクタル」とは書かれていませんが、今回ご紹介した書籍とは別の書籍の中で「世の中の相似形をさがすこと」が天命と書かれていたか、性分と書かれていたかしたんですね。
サイコパスについてふれていた対談も(そうだよ!)と共感する部分がありましたが、この相似形に関しては、(私もそれを見てる!)と自分が脳内で何をしているのかに気がつけました。
無意識に集積している自社データをその後、どういった分類型を用いているのか?という1つの型や、私の視点を理解できました。これも自己理解ですから、非常に助かりました。
ですから、私個人の感動も相まって、こういったことを実際に書ける春日先生は凄いと思っています。ちゃんと見ている。という感じが凄くした。即座に、お顔も知らない、一生お会いする事がなさそうな春日先生を尊敬しました。
勉強だけの先生じゃない。人間としてヒト(患者)と向き合っている感じがしたんです。虚無感と長くお付き合いされているんだろうという事もとても伝わってくるような気がしました。
書籍「幸福論」
夢うつつ状態や柔らかい表現が好きな方には他の著作も割とオススメしませんが、いろんな意見を知ってみよう!と思われる方にはお薦めです。
大人になる
私がコラムで書いている「大人になる」というようなことは、この本の中の
世界と和解するという予感
という表現と似ているような気がしていますし、
心の中に定めること
My灯台のことも
何らかの確固としたものを心の中に定めておかないと
と書かれていた。
時間感覚
私も割とコラムで書いてきた、「時間感覚」ということにも先生の感性で触れられていたので、ストレスケアとしてバランス調整しておいた方が良いと私が感じている物事については、春日先生とも共通点は多そうだ。
しかし、春日先生がストレスケアやバランス調整というものをどうお感じになるのかはわからない。
共感できる価値観が多いかもしれない。と思えたからと言って、ストレスケアやバランス調整の捉え方が似ているとは限らないからです。
それは、「幸福」についても同じことが言えます。
ただ、私個人は非常にストレスケア、バランス調整が「良い」と感じているから皆様におススメしています。自分のケアをしていくということも大切だと思っています。
全てのことに意味がある?
また、全てのことに意味がある。ということについての「そんなに意味って必要?」というあくまでも私見を過去に書いていますが、
こちらの書籍「幸福論」 春日武彦著 では精神科医として
精神を病んだ患者の中には、往々にして「日常の事物にはすべて意味があるという感情」が異様に高まり突出することがある。その時彼等は興奮状態に陥り、また空疎な高揚感に煽られたり、馬鹿げた肯定感に包まれたり、多幸的となったりする。あるいは逆に意味の過剰さが恐怖や不安につながる。そういった点で、幸福感と狂気とは地続きの部分があるのかもしれない。
と分析されているようです。
影響の連鎖
こういったことは紙一重であり、ケースバイケースだろうと思っていますが、はっきりした指標などあるとも思いにくい。精神疾患として診断される基準はあるものの、その診断の際もグラデーションがあると思えますし、
もしこういった「日常の事物にはすべて意味がある」というようなことを「突出した状態」で法則として伝えられていく際に、それを信じた側にはどのような影響があるのか?
それを伝える側が、自他共に名声や地位(医師であったり、宗教家であったり、大富豪であったり、敏腕経営者やナニカの先生と言われる立場であったりetc)のステイタスホルダーであった場合にそもそも(それってホント?)と思う割合がどの程度だろう?
と、私の頭には浮かびます。
「日常の事物にはすべて意味がある」というセリフそのものがある意味非常にキャッチ―で飲み込みやすい。
それが真実かどうか?を考える前に、そうなんだ!と既に飲み込んでいることに私たちは気がつきにくいわけです。
真実があるとか、無いとか、それすらもわからないのに、(そうなんだ!)と既に飲み込んでいる。
これが広い意味でハロー効果の根強さを示す1つの事例になるかと思っています。
また別の方面から見ると、それをそうなんだ!とあっさり飲み込んでくれる側が居てこそなりたつことでもあるんですよね。
信じたければ信じてくれますから。
あなたの灯台はどう捉えているのか?
勉強の成績や、稼ぐ能力や、伝える能力、地位・名声・ネームバリューによってヒトを判断するのが簡単かもしれませんが、智慧と言うものはそれらと連動するのがデフォルトでは無いし、善性というものも同じくです。
語っていることがそのヒトの全てではない。
My灯台の有無も、別にそんなものは無いのに、借り物をチャチャッと見栄え良く配列したらまるで灯台が有るように見せることも(芝居の書き割りのように一夜にして現れ、一夜にして壊すことも出来ます)勉強の成績や、稼ぐ能力や、伝える能力、地位・名声・ネームバリューによっては簡単です。
ですから、それらと自分を連動させても良いのか?ということは頭のどこかで検討する癖があっても良いようなきがしますし、私の場合は、理屈や理論、実際の反応なども大切ですが、やはり「健康的に感じるかどうか?」という感性も大切にしています。
私も病気になりますから、健康でない時だって当たり前にあります。
あくまでも「健康的と感じる」ということについて書いています。
感性の1つとして
あくまでも感性の話なのですが、「それが健康的かどうか?」も、(書き方は難しいので、ニュアンス的でしかありませんが)自分が健康でいる時の方が正常な感性が働きやすそうだ。
影響を受けやすいタイプの脳の方であれば、ご自分がいつもお付き合いされている方が朗らかな方が多いかどうか?なども自己確認の参考になるのかもしれないです。My灯台がしっかりされている方も、心体が疲れてくると影響を受けやすくなりますので、キチンと栄養や休養をとっておくことも自己管理として大切ですね。
ということで、自分のストレスケアをしておくことをいつもお薦めしています。
基本的に非常にシンプルな構造になっています(手順の話ではなくて、素材のことです)ので、どうぞ日々の生活にお役立てくださいね。
(2021/01/19)