人智学という考え方ー12 とどのつまりは「遊び?」
今日でこのシリーズを終わらせられるだろうか?
手元のメモを眺めてみると・・・微妙です。
今回も、こちらに沿って書いて行きます。
Contents
叡智に興味があるのか? ないのか?
叡智に興味が無い方は、もう今からは我慢timeになります。我慢を強いませんので読み進めるのかどうかはご自由にお願いします。
ルドルフ・シュタイナー氏は
叡智とは結晶化された痛みである
と述べておられます。
続けて、お子さん達が通った方が良い道のようなことが書かれていましたので、興味のある方は実際に本を読んでみてくださいね。
その中には、
苦労するであろう道も取り組ませることや、逆になにかを諦めるよう努力させることも大切です。
と書かれていました。
人によっては、苦労はOKだけど、諦める事が難しい脳のタイプもあるでしょうね。
執着心が成功につながることもあれば、人生の長い期間囚われてしまって辞め時がわからなくなってしまう事もあるような気がします。ケースバイケースで、そのお子さん(その後大人になった後も含む)の性質・脳のタイプも関係しますね。
なにを諦めるのかによりますが、「自分の幸せは絶対に誰かから貰わないといけない。」ということを諦められない方は多いのかもしれない。「誰かが私の面倒を見るべきだ。」「私の機嫌が悪いのは、私が被害者だから。機嫌の悪さは私の責任じゃない。」というようなことだったりします。
子ども的な発想か、大人的な発想かと言えば、それはまだ「庇護されていないと生きていけない」という子ども的な発想なのかもしれない。
というようなことも既に書いています。
ですから、本の内容は「多くの感覚と同じように、叡智も強く育てていく。」と読めましたが、我慢の内容によっては叡智ではなく、人生放棄にもなることがあるのでどうぞバランスや「量」に気を付けて欲しいです。
ただ、「育てていく」という考え方は、私も同感です。(好みに合っているという意味です。)以前このようなコラムも書きました。
また、叡智を養っておくと、「誰が自分の言葉で話しているのか?」ということもわかるようですよ。それは「知覚する能力」だそうで、他の人間の自我を感知する能力を育むことで可能だそうだ。
酔っぱらっているようになっていては、自我感覚を得られない(自我感覚を得ていることを「目覚め」と呼ぶそうだ)。
トランス(自失状態)になってる場合じゃないんじゃない?
と書いたのは、ルドルフ・シュタイナー氏的には良かったみたい。
後にもう一度書きますが、
以前私がヤバイ洗脳について書いた時、「『自分を無くす・消す』が先じゃ危ない。」という私見を書いた。
ルドルフ・シュタイナー氏もおそらく同意見だと思われました。というのも
自我が弱まっている人こそ掌握しやすい
とあり、これを(そういう手法をつかうことを、そういう仕組みを使う事)
デモーション demotion
デモーニッシュ dämonisch
と表現されていて、それは決して「善い」という意味ではなさそうに感じた。
これは、あの「father」なの?
また、思考を感知する感覚は
ある高位の存在に負っている
そうです。
私はこの辺りのことは不案内ですが、ルドルフ・シュタイナー氏は生育した文化の影響から
キリスト存在にじかにかかわっている。
とお考えのようです。
が、私は特定の教えではない、自分なりの信仰(自分なりの神様のようなもの)をおそらく小さなころから持っていますが(モリー先生も同じようです)、こんな私も 魂の扉・十二感覚―人智学講座 (耕文舎叢書 (3) を読んで、このwordsが登場したときに(あれがキリスト存在と表現されている感覚??)と連結する体験があります。
そして、
キリスト存在は私たちすべてのそばにいるのです。
というのも、(それってこんな感じの事??)という体験についても書いています。
タイトル「いつも一緒 いつも見守られている」ーサイト「こすも」より
デモーニッシュ dämonisch
私の「なんかキナ臭さを感じる」というのもこういった感覚で、そういった香り、匂い、風味があるような感じがするものはやめる事にしたという事も以前書きました。
タイトル「弾みのついでに「引き寄せ」について」ーサイト「こすも」より
人間道にはいろんな誘惑がありますよ。それは誘惑なのか、トラップなのか、罠なのか、迷宮の入り口なのか、そんなものはなくて誘惑という考え方自体が幻(見たいように見て、考えたいように考えている)なのか諸説あるでしょう。
しかし、もし、
デモーション demotion
デモーニッシュ dämonisch
ということが気になるのでしたら、ちょっと考えても良いと思う。
正解は分からないが、あなたが十二感覚や自我感覚が整った後(今既に整っていますか?整っていたら余計なことを訊ねて失礼しました)に、同じようにそれらに魅力を感じるのかどうかも含め。
または、何故それらに魅了されたのか?もよく考えてみても良いと思う。
それはいつからなのか?も。
とどのつまり、私は遊んでいるらしい
ルドルフ・シュタイナー氏曰く
哲学もまた一つの遊び
骨の折れる実に真面目な遊びです
だそうだ。
私が、終わりを目標設定せず、行ける所まで行こうと考えているのは、この遊びに全然飽きていないからだろうか?
マジでやってるところが自分でも笑える。
というのもルドルフ・シュタイナー氏と非常に似ている。
これが私の人生観の中に当たり前に含まれていて、それが遊びとなると益々面白い。(笑)
遊びに目的も理由もないですものね。
WHY? なぜそれをしているの? と問われたら、ヒト様にわかってもらう為の答えは要りませんものね。自分が楽しいから、面白いからってことですものね。
一緒に遊びませんか?
○○ちゃーーーん
○○くーーん
あーそーぼ。
という誘い方は今のちびっ子達にも存在しているだろうか?
答えが同じである必要はありませんので、私と一緒でも、(いや、あんたとは遊びたくない)(その遊びは□□さんとしたい)でも構いませんので、あなたも遊びませんか?
私はいろいろ書きますが、どうぞ皆様で考えて選択して確認してみてください。
私のためにそれをするのではなくて、もしされるのでしたらご自分のためにやってくださいませね(^^)
泥臭い人間道の先にあるものとは? ということも書籍には書いてあったと思います。
ぜひ興味があったら本を読んでみてください。
そして、ストレスケアを観念だけではなくて、日々の生活に取り入れることをしつこくても今一度お薦めしたいです。
一度身につけたら、なにも買い足すものがないので非常にオススメのセルフケアです。
これにて一旦 「人智学という考え方シリーズ」はおわりです。
長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
次は、また一度モリ―先生にご登場いただこうと思っています。
(2020/12/26)

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