自分次第という言葉がつらい
自分次第と言われると辛い。という方もいらっしゃるのかもしれない。
「幸福は自分次第でやって来る。たった一度の人生だもの、後ろ向きで歩くなんてつまらない」
「小さな頃に覚えた感動の方法を忘れたくないと思っているのだ。ネガティヴな人生は、断じてお断りだ」
ー山田詠美「チューイングガム」
という一文を読書記に掲載されているのを拝見したことがある。(私は「チューインガム」はまだ読んでいないです)
引用したこのようなセリフを言えたり、自分のモットーにできたら「自分次第」はあまりシンドク感じないのかもしれない。
が、しかし、こういった事を自分のモットーにしているつもりでも、実際には常識を最優先したり、ヒトからの評価を先ずは考えたりしていることって案外多いし、その時は気がつかなくても、「あの時の選択は後ろ向きだった」と感じるような出来事ってあったりする。
心理や精神は奥が深い。自己を確立している(していた)つもりと、実際の在り方に温度差はありがちだが、こういったことの足並みがそろってくると段々生きていることが楽になってくるケースも多い。
「自分次第」という言葉の中の「自分」とはそもそも何者か?ということは、はるか昔から哲学書の中でも、宗教の中でも、いろんな「教え」「メソッド」でも取り上げられているけれど、未だに答えを求め続ける人は後を絶たない。
誰かか言いだした法則 vs 自分で試行錯誤
「才能は情熱の量である」と、内田光子さんに感じたという一文も同じ読書記の中で拝見した。
こういった言葉は私達に影響を与えたりするが、「情熱」という物差しで測れない観念が登場していることが1つのポイントで、よく「〇〇が続かないんです」という悩みに対して「〇〇を続ける」という言葉と共にバランス調整を行う事があるが、「それでも(カウンセリングやヒーリングや調整をしても)続かないんです」と悩んで自分を責める方もいる。
続けることも才能だ。という言葉もある。
才能って物凄く分かりやすくヒトに自慢できることばかりじゃない。
人ができないことを私ができる。そういった分かりやすさや、奇抜さのあるものじゃないと才能とは言わない。というのも私には違和感を感じる。
競争に勝つためだけに才能があるわけでもない。
才能というもの、才能という言葉をつかって、ヒトの中のナニカを過剰装飾することに洗脳される必要ってないんじゃないか?と私は考えています。
こういった洗脳のようなものに振り回されて、見当違い(と書くのは言葉がきついけれど)自分探しに人生を費やしてしまうことがある。自分探しの旅にはこういった自分以外の誰かの影響を受けすぎて、そのうち自分を探しているのか、自分ではないナニカを探しているのか訳が分からなくなってしまうケースがある。 そして、それは決して少なくないようだ。
誰かの考え方にあまりに自分を当てはめようとしないのも大切
自分の中に続けられる情熱がないことを悩んでいるのか? 「続けることは良いことだ」というどこかの誰かが言った事を、続かないと悩んでいる目の前のソレに当てはめる事そのものがズレているのか?という視点があっても良いんじゃないかと思う。
- 誰かがやっているから〇〇は良い。
- 誰かが〇〇をした方が良いと言ったから、それが続かない自分がおかしい。
- 皆が出来ているのに自分はできない。
私も勿論上に書いたようなことを散々やってきた。しかし、ある時期がきたら(あれ? なんか違う気がする)と離れるようになった。
そこには
「エピファニーepiphany 」
「直観的な真実把握」
ー村上春樹「職業としての小説家」(新潮文庫)
このような自分の中の(声)のようなものが教えてくれることもあるけれど、意識的にセルフコーチング(自問自答)を行ってきたことも良かった。いやいやそもそもの私は論理思考が強いタイプだったので、意識的にセルフコーチング(自問自答)はコーチングという言葉を知る前から行っていた。
その後に、自分が直感的な事実把握のようなものをしていると自分に気がつくようになったのですが、
何処かの誰かの好みではなくて、「私」はどう感じているんだろう? どう考えているんだろう? どうしたいんだろう? 何をしたくないんだろう? ということを知ろうとしてきた。知ったらそれを誤魔化さず、一旦受け止めてみることにしている。
失敗しても まぁいいか。失敗しないように段取りはちゃんと考えることもあるし。
あくまでも私個人的なことなのですが、自分で体験して、試行錯誤することにしています。
その方の個性や脳のタイプによっては、ヒト様の行っていることに従う方が生きやすい。という場合もあるかもしれないが、私はその生き方にはあまり向かないようだ。
学校向きか? 社会向きか? という言い方もできるのかもしれないし、他人からの評価と自己評価という違いや、他者決定か自己決定か?という好みも関係するのかもしれない。
私個人的には小さなことは余り慎重になり過ぎないようにしている。
慎重になるのは、安全に配慮できないようなことに対してかな。
ですから、他人様から見たら、「私は慎重派だからあんなことはしない」というようなことも私が平気で、気にせず行っているように見えることもあったかもしれないが、その逆だってある。
私が慎重になるような場面については、
サイト「こすも」に書いた。(リンクが貼ってあります)
今の私からは、お手軽感覚で行われている、魔術系(あえて魔法とは書かない)、呪術系について、私は慎重派だから手を出さない。という感覚がある。
有名な方や、好きな人がこういったものを扱っていたり、薦めていても、それを否定はしないが、今現在の私は手を出さない方向性でいきたいと思っている。
知らない間にソレをしていたのなら、知らないからしょうがないのですが、わざわざしたいと思わないし、そういった事ができる事を自慢したいとも思わない。
これが私の「自分次第」。
感性は人それぞれですね。
自分次第
- 良い子でいたい
- 言う事をよく聞くと思われたい
- 他人様からの評価を最優先に生きたい
という事だって自分次第。
- 試行錯誤して、時には(あぁ違ったな)と思うようなことがあっても自分で考えて生きていきたい。
- (あぁ違ったな)と感じた事を次回以降は修正していこうと決める事も出来る。決めたら行動に移すこともできる。
という事だって自分次第。
今の人生の中で、「なにが自分次第なのか?」を、一度見直してみるのも楽しいと思う。
驚くような事がわかる時もある。
誰かか言いだした法則 vs 自分で試行錯誤 と書いてみたけど、「vs」でもなんでもなくて、どちらも併用したら良いし、検証していけばいいと思う。
もう一度、「自分次第という言葉がつらい」と感じるのなら
自分次第と言われると、もう逃げ場がなくなるようで苦しさを感じる方もいらっしゃるかもしれない。選択眼に自信が無いと意識している場合もあるようです。だから、そもそももうこういった事を考えるのをやめたくなる時もあるようだ。「あなたが決めてください、私は従いますので。」というのが好きだし楽だという意味のようです。
「もうなにも考えずに、流されて生きていけばいい」という心境に至った方のご意見も伺った事がある。
それだって十分「自分次第」なんですよね。
ただ、「あ!こうしたい!」と自分の情熱が湧いた時に、好きなものを選ぶということに慣れていないと、アッチが選びたいのに~~ と思いながらも踏ん張れず、全然違う方向へ流されて行ってしまう事がある可能性は知っていても良い。
一度自分を明け渡してしまうと、なかなか戻ってきにくいケースもあるようです。
また、私の場合、お陰様でラジオ番組をもう5年?6年?続けさせていただいているが、情熱とはちょっと違う熱量で継続している。
燃え盛る情熱とはまた違うチカラで継続するという「私なりのチカラの注ぎ方」も自分次第です。
チカラ加減などを知るのも、「自分次第」に含まれているような気がしている。
講座に注ぐ熱量も変化してきました。(^^)
(2020/10/26)