視点を広く持ってストレスケアをする
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はじめに。ある日のFacebookの投稿。
少し前のFacebookの投稿をご紹介して、今回は、この先を書きます。
—– ココから —–
ストレスケアをしますが、その時は楽になるけれど、ストレスケアの後にそれまでと何も変わらなければまた同じようにストレスが溜まり、同じように心体の違和感や痛みが繰り返されたりします。
🔴食べ物を変えたり
🔴姿勢を変えたり
🔴視点を変えたり
🔴発言の内容を変えたり
🔴価値観を見直したり
🔴生活のリズムを見直したり
という、自分主体の働きかけも大事です。
「ストレスケアを受けるだけ」ももちろん受けないより余程良いし、「ストレスケアをうける」という行動の変化だし、自分主体です。
もし余裕があったら、
もう一段階進んだ 🔴印を検討頂いた自分主体の類も良ければ試してみてください。
—– ココまで —–
この先を続けます
目的がストレスケアになってしまうと、ストレスケア依存症みたいなことにもなりかねない。
ストレスケアをして、どうなりたいのか?というその先を念頭に置いておく事はとても大切だ。
ストレスケアが目的になってしまうと、
- 複雑化して安心してみたり
- ウンチクが大切になり過ぎたり
- 逆に、なにも考えなくなってしまったり
- 知識の量が存在価値になってしまって
その先が見えなくなる時があるようです。元々の発端を忘れることがあります。羅針盤を失っているよりは、舵をきる方向などが意識にあった方が良いと思っています。
羅針盤の役目をする意識を失っていると、自分を煙に巻いちゃう。
知識は増えるから、それなりの事も言えるようになるし、説得もできるようになるかもしれない。
当の本人の行動にそのストレスケアの結果が伴っていないと、それは「ストレスケアをしている私」というスタイルにはなってるけど、「何のためにストレスケアをしてるのか?」という大切な視点や行動を失っている時もある。
バランス調整を「自分の人生に活かしているか?」「人生に活かしたいか?」 という恐ろしくシンプルな問いかけが欠落してしまう。
いつもご機嫌さんで過ごしていて、そんな自分の心体の基本状態をバランス調整を行う事で維持しているのなら、目的も手法も非常に良い循環を生んでいると思えるが、「ストレスケア、バランス調整を手放すと怖い」「やめられない」というのなら(ちょっと視点を変えてみる?)と思考に隙間を設けてもいい様な気がする。
他人にそれらしい事を言ったり、他人を評価するのは簡単だ。
その それらしい事や評価が、自己価値の穴、損失感を埋めるためや、存在価値の証明のために行っているのなら、よそ様の事にはげむ同じ熱量で自分のケアをしてはどうだろうか?
なんなら、よそ様の事にはげむ前に、自分のケアに時間をかけても良いし、
よそ様の事にはげむ以上の熱量を自分に向けても良い。
ということも前回のコラムにも書いています。
こだわるところの視点を変える
自分の行ってるストレスケアがいかに他より優れているか?という競争をする前に、競争をしている自分に気がついているのかどうかも大切だし(競争してたって別に構わない訳ですが、競争をしていることを自覚してても損はない)、
ストレスケアに、そもそも「(ストレスケアの手法で)負けたくない」なんて気持ちがある必要はないし、負けたくないからマウンティングする位なら、その優位性を示したいというアナタの心理をケアしてみるという視点があっても良さそうだ。
ストレスケアの知識博士が、自分のことは灯台下暗しなんてことだって全然珍しくないし、返って多いのかもしれないし。
でも、
でもね、
本当にそのスタイルを自分が望んでいるのか?
実は違う事に幸せを感じるのではないか?
ということは考えてみた方が良い。
視点の増やし方
視点を増やそうと思った時にどんな方法があるのか?と問われたら
私がすぐさま思いつくのは「小説を読む」というものです。
本当は、目の前の情報をありのままに見る。というものが一番良いのかもしれないが、それこそが難しい様なので、となると次なるお薦めは「小説を読む」になる。
脳や心理の専門書も勉強にはなるけれど、小説の良さは、人間同士が関わった、いわゆる「人間模様」というものが解説してあるし、それを書いている小説家の視点と自分の視点の違いすらも勉強になる。
物語を読むことが苦手ならば、最近ではYouTubeなどのコメント欄を読んでも面白い。1つの動画に対しての色んなコメントこそ視点の宝庫でもあるが、ただ、YouTubeのコメント欄は感情的なものが多いので、小説とはまたちょっと視点というものの捉え方、感じ方は異なると思う。
コミュニケーションから視点を得る
私のご提案したい「コミュニケーション」は、ディベートではないし、論破する必要もない。話を聞いているようで、その実相手の話の揚げ足を取る場所を探すものでもない。
穏やかなコミュニケーションでは、正誤や善悪というレッテルを貼ることを少しお休みして、ただ相手の話していることを聞いて、自分以外の視点を学ぶことができる。
表面上が穏やかで、心中感情が渦巻いているものでもない。
相手の話を聞くやいなやジャッジしていると、相手が言わんとしていることがわからないし、相手も話す気が失せる。
そういう意味では、視点を増やそうと思うと、歩み寄りの姿勢も必要になってくるだろうし、歩み寄りではあっても決して境界をあやふやにする事では無いという意識も必要になる。
こういった加減は何度もレッスンして距離感を学んでいくしかない。
ただ上から目線で観察しているのはコミュニケーションではないからね。
「視点」と「観察」は違う気がする
上から目線で観察しているケースの多くは、観察しているつもりの側が不安だったり、恐怖を感じていることが多い。上から観察という行動で自分の優位性を保持・死守していることも多い。
そんな時は、自分のことは隠しておきたいという心理について、ストレスケアをしておくこともお薦めしたい。隠しておきたいのは別に良いんだけど、隠すことでプライドを維持していて、バレる事に恐怖があるのならストレスケアをしておいても良いと思う。
視点という話になると、「=(イコール)観察」と理解する方が多いのかも知れませんが、これもなんだか違う気がしているんです。
観察という意味を含んでいるというか、数学で「集合」を勉強した時に、交わる分が多いとか少ないとかやりましたでしょ?
共通部分を現わす「∩」こんな記号の部分です。黄色の部分。
今回書いているような視点の話になると、上のイラストの2つの集合の図の下のように、視点と観察というのは共通の意味合いは確かに多いと思う。
このなんだか違うということをわかりやすく書きたいのですが、今日現在は上手い表現が浮かんでいませんので、また これだ! という表現が見つかったらコラムに書いてみたいです。
ひょっとしたら、観察という言葉は合っているのに、私が勝手に観念を絡めて表現したいだけなのかもしれない。
今はコラムを書く姿勢が整っていますので、早めに次のコラムもアップ出来たら良いなぁと考えています。
(2020/10/23)
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