このようにしか生きられない。
Contents
- 1 とある男性の生き方を読んで
- 2 中庸とはどんな状態か?ということについて、私の感じ方を前回のコラムに書きました
- 3 51%の善、49%の悪
- 4 中庸ってどのあたり? このあたり?
- 5 51%の善、49%の悪という辺りに居るという感覚はあるのか?
- 6 中庸の感覚って ひょっとしてコレ?
- 7 ループ、スリップ、パターン、繰り返しは中庸以外で起きるのか?
- 8 なぜ、こういった文章を個人的な体験として書けるようになったのか?
- 9 折り合っているつもりだった
- 10 良い生き方とかあるの?
- 11 人生は争奪戦だと思えばそうなる。参加したくなければ退席だ。
- 12 そして、この先である
- 13 「好き」な人や、モノ、出来事と仲良くやっていきたい
- 14 今回の人生の行ける所まで行ってみよう
- 15 行ける所まで行ってみたい方には、セルフケアもおススメです
とある男性の生き方を読んで
ブログに書いた、とある男性。
その男性の記事を読んだ当時のその昔には、私自身今ほど自分の傾向は理解できてなかった。
そして、強烈に覚えているこちらの男性について書いた後、
なかなかできるもんじゃない。
と言うのはそうなんだけど、
この方は、このような生き方しか出来なかったんじゃないか?
と思うようになった。
が、しかし、それを言うならみんなそうだ。
その様にしか生きられなかったり、生きたいように生きている。
変えた方が良いかな?と思いつつも変えたくない。変えられない。変えない。
自分のやり方を貫きたい。
変えよう、変えたい、変わりたい。ということも、やりたければやる。
シェアしたブログにも書いたのですが、良いも悪いもないんですよね。ブログでは、「なかなか出来ることじゃない」と書いていますが、自分の好き嫌いを曲げる方がラクな方もいれば、好き嫌いを貫く方がラクな方もいる。
そして、私は今こういった生活をしているということは、このようにしか生きてこられなかった証拠とも言えそう。
う~ん、そうなんです。なかなか今の自分が気に入ってる。
中庸とはどんな状態か?ということについて、私の感じ方を前回のコラムに書きました
前回のコラムの中庸の状態でいられている気がします。いろいろな人生の送り方があるけれど、私は今までの人生で左右上下に揺れ動いて、そして今は何かしらの真ん中あたりの感覚が心地よいと感じている。
その上下左右斜めの揺れを体験して、初めて「中心のようなもの」の感覚がわかる。比較対象があるから認識できる。
その際に、上や下に動いて、真逆なことになったり、繰り返すパターンの横滑り・脳内ループ・スリップ現象は自分のセンターにいない証拠だったり、理由やメッセージが過剰に必要なのはセンター(中心・中庸)にいない証拠だったり、自分に言い聞かせようとしている時は、自分の正直な気持ちを隠蔽しようとしている時のようだぞ!と思ったりと様々なことを学んだ。
51%の善、49%の悪
遥か昔、まだ成人するずっと前から
善と悪があるのなら、100%の善にも100%の悪にもならないだろう私は、どういう心持が良いのだろうか?と考えていた。
「せめて51%の善、49%の悪という辺りで持ちこたえて、ちょっとだけでも、せめて善に生きて行きたい」と切に願っていた。自分の中に善とは言いがたい(怒りの感情、意地悪されたら仕返ししたい感情があることを知っていて、そういったものが自分の中にあることを嘆いていたんですよね。子供のころから己が100%善でないことを嘆いているような考え方がありましたし、人間の残酷性にも気がついていた。)ものが存在していることに気がついていたし、
(自分の中の、これが悪だとしても)この存在を忘れると、厄介な事になるんだな。と考えていたし、善でいるためには、悪を知っていることが大切だと私なりに理解したようだ。
今になると、子供なりに発明した
せめて51%の善、49%の悪という辺りで持ちこたえて
という理解はなかなかいい線いっていたのかもな。と思える。
ナイス私(笑) 誰も言わないので自分で自分を褒めておこう。あなたは一瞬神童だったのかもしれないよ。本当に一瞬だろうけど。(笑)
中庸ってどのあたり? このあたり?
というのも、おそらく、中庸ってこの辺りなんだろうと思えるからです。
中庸を目指すのであれば 善50% 悪50%を認識してこの場所を維持しているのがそうなのかもしれないが、こういったものを数値化だけしてわかったつもりになって安心するということには全く意味が無くて、おそらくこういったものは「志」というような種類のことで、自分で信念とか自分なりの信仰心というもので考えていくものだろう。
考えたそれを実生活で行動に移す時に「さて、どうしますか?」と、もう少し具体的に考えるという段階が次にくるのでしょうね。
だから、「中庸」という言葉をいくら知っていても、感情を押し殺して表面的な「中庸もどき」になっても意味がない。私個人的な経験で言えば、中庸もどきもTRYしましたが、もどきや、ふりでは、やっぱりダメでしたね。やってみて分かったことは、それがダメだという事を体験から学びました。
51%の善、49%の悪という辺りに居るという感覚はあるのか?
今に至るまで、時々この「51%の善、49%の悪」という考え方をヒトに話したことはあるが、年齢のかなり若いときには私の言いたいことを理解してもらえる人は身の回りに(大人も含めて)いなかった。そもそもこういった事に関心を持っている人が居なかった。大人になって、心理や生き方について興味のある方に伝えることも極稀にあったけれど、感覚というものはやはり伝わらない。そもそも私も長らく自分が(神様お願いですから)という祈りにも似た気持ちで「51%の善、49%の悪という辺りで持ちこたえたい」と願っていたことが あら?いつの間にか感覚として理解出来てきたわ。という体験があり、知識を示唆してくださるチャンスが現れて、幾つかの条件がそろって初めて理解できているような気持になった。
中庸の感覚って ひょっとしてコレ?
あくまでも個人的な1つの仮定ですが、
何かのど真ん中に自分が居られる瞬間に「なんにもなくなっちゃう」のかもしれない。欲望や執着などか消えちゃうので、エゴの暴走とかが起きないのかもね。
だから、人より抜けん出るとか、「抜けた」とか、高みに登ったとか、崇高なことを「高い」とか、なにかや誰かを「低い」いう設定をした時点(そう思った時には)でズレてる。という可能性に思いつきました。
一言モノ申したくなってるのなら、間違いなくスリップや横滑りしてる。だって、相手はあなただもの。ーコラム「生きやすさの創造を考えてみた」より抜粋
ですから、自分を消すとか無くすという思考自体が既にセンターに居ないという事で、逆に、何かしらの中心・センターに自分がいると、無くなったり消えたりする感覚がするのではないだろうか?
そう、何度も何度も、不思議な体験は「オマケだ」と書いても書いても、不思議体験だけに興味を持つ方もいらっしゃる。それまでの過程や、「オマケです」という文字は目に入らない。
見たいように見て、聞きたいように聞いて、読みたいように読んで下さる。
しかし、何かしらのセンターに居ないのに「自分を消したり」「自分を無くしたり」というのは、宗教の教え的や、古来の秘儀的や、なんらかのメソッド的にはどう書かれているのか知らないが、私はそれは「危ないよ」と警鐘を鳴らす気持ちは今はまだ変わらない。ある程度の土台はあった方が安全だと感じています。逆算思考で「無くしたり、消したりしたら その大切なセンターらしきところに鎮座するんじゃね?」と考えて、それをテクニックやスキル化するというその発想が危ないと感じてもいる。このテクニックやスキル化は余程慎重にやっても、やっぱり土台の具合によっては危なっかしい。あくまでも感覚的なことになりますが、その逆算思考は人間自体を大切に考えていないんじゃないかと感じる。愛の不足とかそういう意味で。人間は実験材料じゃないよねっていう意味で。
ループ、スリップ、パターン、繰り返しは中庸以外で起きるのか?
ねっ!? こうなってくると、良かれを思っていた事も、人間をどう捉えているのか?という振出しに戻ることになったり、愛とは何だ?というような事に繋がってきます。
振出しに戻ってしまっていないか?について以前も書いています。
そして、振出しにもどるということは、何かしらの中心、センターにおらず、陰陽の立体の中心以外をグルグルと回っているんだろうと今は思えています。
あなたの「次元」という感覚が今と変わると、今回書いているような「体感」を共有して頂けると思いますが、おそらく価値観が大きく変わっていくようなキッカケ(私はキッカケなどについて心体カウンセリング™ 中の対話などでお伝えすることがありますが)が現れることもそれが起きる要素の1つじゃないかと想像しています。ラッキーチャンスになるかもしれない可能性として。
なぜ、こういった文章を個人的な体験として書けるようになったのか?
なぜ私はこう言った類のことを体験したような気になったのか?
それは、私がこのようにしか生きられないからかもしれません。
生き方が下手、不器用、変に素直、変に正直、興味のあることを自分なりに突き詰めた、それを止められなかった、ある種の脳の特性を自己理解して受け入れた、自分を誤魔化すと(それホント?)と気がついちゃう。
ですから、人から見たら、そんなこと大事?とか、女性としての幸せとしてはどうなんだ?ということも勿論知りつつも、もうこのようにしか生きてこられなかった。そして、な~~~んにも後世に残すものが無くても、あぁ今回の人生はなかなか良いぞ。と今のところ思っています。
このような生き方しかしたくなかったのも確かだろうけど、自分を曲げて生きていく事が出来なかったとしたら、度々吹いた逆風や嫌だと感じた事も、それは自分からズレている時に修正がかかる役目をしていたことも多かった。
このブログの中に
こういったことを考えていく時に、既に入っている情報が邪魔な時がある。
バイアスがかかる。
しかし、私は 私自身が「なるほど!」という感覚があるものを採択したい。
世の中の大変な有名な法則や教え、思想が「全然違っていました」ということになってもだ。
それが誰にも理解されなくても多分私自身は満足するだろう。
と書いている。
こう書いている時点で、私はこのようにしか生きられず、このように生きている時が幸せなんだという自覚がある。脳の傾向に沿っているとも言えるのだろう。
後から出てくるが、惑星のようになにかの周りを回る生き方は自分にはあまり向かないんだな。と理解できるようになった。
折り合っているつもりだった
私は、折り合う。という行為も割と好んでいるつもりだけど、それは、自分を曲げているんじゃなくて、自分が好む道を選択肢の中から選んでいるだけのようだ。
だから、選択肢の中に好みの道が無ければ選ばない。
それは前回、水泳から離れた時がそうだった。
また、泳ぐことを生活に取り入れた時もそうだった。
競争ってこんな競争もあるのよね。
良い生き方とかあるの?
意地ってなんだろう?
素直ってなんだろう?と思う時もある。
しかし、好きということは強いチカラがある。
しかし、好きなのかどうかも分からなくなる時がある。
好きだと勘違いしていることもある。
そして、好きなふりをしていくのは中々シンドイ。
好きじゃないふりという表現方法もあるが、それが一体ナニになるのだろうか?
意地(意地を張る)ってなんだろう?
素直ってなんだろう?と思う時もある。
自分を知る。
何かしらの中心にいるというのは中々難しいようだ。
でも、生き方は人それぞれで、自分がなにかの中心にいるよりも、惑星のように自分以外の対象物の周りを回りつづける生き方もある。
そのなにかの周りをまわるという中心には、宗教、教え、信仰、誰かしらのヒトも当てはまるかもしれないが、それは各自選べばいいだけなんだ。
人生は争奪戦だと思えばそうなる。参加したくなければ退席だ。
コラムにも書いたように、私は多くの事を、自分の世界で(なるほど)と自己研究して生きているような傾向ですが、不思議とライバル視される事も多かったみたい。
ライバルがいると燃えるタイプの方には、私の(興味を持っている対象が違うのだけれど)という事は分かってもらえない様だし、私が持っているものは奪いたいと思われがちな時期もあったし、そういったターゲットになるとそれが起き、私は手元にあったものが他所へ行ってしまってただなす術もなく見ているだけだったりした。
もう益々競争、勝ち負けに辟易した時期もあった。
私は関係ないんだから、他でやってよ。巻き込まないでよ。という気持ちになるので、当たり障りなく離れていく事が一番良い方法だと学んだし、離れていったものはそれで良いんだと考えるようになり、そしてやはりそれで良かった。
「それで良かった」のは何故か? う~~~~ん、それは、それで良かったと思える程度の「好き」だったんだとわかったからです。私がその時「好き」だとしても、時が経てば変わることも多い。好きだったことすら月日がたったら忘れちゃうような「好き」もある。
だって、何にもなくなっちゃったときに、なかったもの。なくてもなんの問題もなかった。
そして、この先である
ここから先だ。
そう、この先の話です。
何かしらの中心・センターにいるということは、多分「自由」なんだろう。
人間って何かしらの制約がある方が安心するという傾向があるんですよね。制約によって自分の存在価値を確めているようなところがある。
ですから、自由って、自分が益々あらわになってくる。
むき出しというか、丸だし。 オムツすらも履いていないほどの裸ん坊だ(笑)
そのむき出し感や、丸だし感を味わいたくない時に「教え」というようなものの周りを惑星のように回ったりする可能性を今気がついた。
1人で自由じゃ心配だから、その心配の電位、磁場、素粒子、心理と上手く引き合う対象物の周りを惑星運動する。(1つの可能性だというだけです。あなたの信仰心について書いているわけではありません。) この惑星的な立ち位置は、時として回っていたはずの恒星にも影響を与えて、依存がこじれてくる時も多いようだし、恒星かとおもったら、惑星のことも多い。惑星の周りをまわる惑星という感じ。
私は今日という日を初めて過ごす。という毎日をコンニチまで送ってきたのですが、今現在の内面状態や視点の「今日」も益々初めてになるわけで、この先はどんな感じなのかな?などと思うや否や、(いや、考えてもわからんから、今はどうしていきたいと思ってるの?)と自分からの質問が現れる。
そもそも「どうしたい」という欲求はあるのか?と。
「好き」な人や、モノ、出来事と仲良くやっていきたい
数年前から、「好き」な人や、モノ、出来事と仲良くやっていきたい。としか頭に浮かんでこない。
これではまるで子供のような表現だという自覚はあるものの、しょうがない。
私の今回の人生の時計がいつまで動くのかわからないが、人生の時計が動いている間は、出来るだけ「好き」な人や、モノ、出来事と仲良くやっていきたい。朗らかに過ごして、笑っていきたい。
これまでの体感や体験や、それに関連して知識も増えたようだけど、だからと言ってカッコいいビジョンも構想も浮かんでこない。かといって不安も恐怖も今は浮かんでこない。執着や欲求というのは「生きている感じ」を創り出すが、それが薄くなると今まで慣れていたやり方はもう使えない。
ということで、私も皆さんも、生きながら考えていくしかない。
今回の人生の行ける所まで行ってみよう
私は割と年齢の若い頃からこの世の在り様をどちらかというと悲哀をもって眺めていたけれど、ある時、成人した後に、「今回の人生の行ける所まで行ってみよう」と思うようになった。悲しいことは確かに多いが、悲しんでいるばかりで一生を過ごしてもしょうがないじゃん。と思うように考え方が変わった。
そうなると次から次へと現れるいろいろな出来事のうち、繰り返しのパターンはクリアした方が良いと切に思うようになるし、行ける所まで行くためには自分を知る必要がある。実際世の中に自分で出来るストレスケアがあると知った後は自分の今回の人生のために真面目にするようになった。
次の人生があるのかないのかわからないが、次の人生に今回のような苦しみを繰り返すのはもう真っ平ゴメンだと「懲りていた」。次の人生に苦しみもあるだろうけれど、もう少し先へ進んだもので在って欲しいという自分なりの信念なのだろう。だから、また繰り返すのならせめてもう少し楽になりたいと思ったもの。(笑) これがおそらく私の1つの本気だった。
多分、懲りなかったり、まだまだ余裕があるとなかなか本腰いれてストレスケアには取り掛かれないんだと思う。しかし私は懲りていた。そりゃあやるよね、ストレスケアをさ。本気なんだもの。
そんなことを考えて、行ける所まで行ってみよう。と思い続けてきた。終わりなど無いだろうし、これに関しては「やった!やり遂げた!」という達成感など生きている間は感じないだろうとも思っていた。ただ、行けるところまで。という気持ちだけだった。
ところが、なんだか どこだか割合区切りの良い所まで来たのかしら?と今は感じるようになっている。「行ける所まで」とか漠然とし過ぎて、なにも具体的に設定してもいないのに、気がついたら(あら?ここはどこかしら? ひょっとして目的地?)というような感じ。
あんなに楽になりたいと感じていたのに、今は楽である。(祝)
そして、これが自分でも驚いたのだか、「また次回、生きている間に今のような感覚を味わえるのなら、少々のことが用意されていてもまた人生を送ってみたい」とまで感じた事だ。
どうした?急に懲りなくなったのか。(笑) 喉元過ぎれば熱さを忘れたのか?
ずっと長い間、「生まれ変わりたいですか?」という質問に、「いや結構です。今回私なりに一生懸命やっているので悔いはないですし、また今回のような大変なことを繰り返すのならば今回が最後でお願いしたいです。勘弁して欲しいです。」とまで答えていたのに! (◎_◎)
その私が、「また次回、生きている間に今のような感覚を味わえるのなら、少々のことが用意されていてもまた人生を送ってみたい」とまで感じる日がくるなんて全く想像していなかった。これこそ奇跡だ。(笑)
ということで、私も皆さんも、この先のことは1日1日を生きながら考えていくしかない。その時に、皆様にも私にも、健康と笑い声のある生活がお供になっていると良いな~と思っています。
行ける所まで行ってみたい方には、セルフケアもおススメです
(2020/07/06)