雑念? メッセージ? 気づき?
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雑念? メッセージ? 気づき? の違いってはっきりわかる?
雑念はそれが消えないと雑念と気がつけない。
消えると驚くよ。
ほとんど雑念だもの。
消えたら何にも頭に浮かばなくなるから、バカになったのか?と感じるもの。
雑念とは、別名「幻」ですな。と今の私は思っている。
幻は悪者ではなくて
自分が送りたい人生のための彩りでしょう。
生きている感じを味わうために、お好みの幻を映像装置にセットして、プレイボタンを押す。
で、ある日非常に今日のこの記事を書くきっかけになった、示唆に富んだご質問があった。
気づきとメッセージ と 雑念
私はメッセージ類を重要視しない傾向にある。
いや、確かに(コレはなんだ??)というほどクッキリしたものは心に留めておくけど、細かいのは流してる。
メッセージなのか自家製造の雑念なのか、他からの影響なのかは曖昧だろうと思ってるので、結構はっきりしないと そもそもメッセージと捉えない。
理由が欲しい、理由があると安心するという脳のタイプがある。おそらく誰でも分野によってグラデーションはあるだろうが、理由が欲しいし、それがあると安心するというのは人間特有の癖なのだろうか。
私の脳の傾向は、自分から意味付けに寄っていったり、意味があると寄せていく事はしない様にしていて、意味をつけて、余計な雑念を生むような事も避けたいと考えたいようだ。
もちろん私にもあるし、皆無ではないことは自覚しているが、希望として選択したいという意味です。
「いちいち反応しない」と書くと身もふたもないが、概ねそんな感じ。頭に浮かんだものを無かったことにもしないが、とりたてて追及しないことも多い。シンクロニシティというようなことは四六時中起きていたりするので、あぁそうよね、と流す感じ。
それを考えていたら、
雑念が消えた時、何にもなくなっちゃった時のコレらは、匂わせるというようなぼんやりしたメッセージ類はなかったような気がしてきた。
(気のせいか?)
クッキリその言わんとしてる事を受け止める。という感じだったかもしれない。
それを「在るがままに見る」ということと私自身が理解したのかもしれない。
意味があると安心。気づくと成長した気がする。
私自身、意味のないことで時間をただ送っていく人生が嫌だと思っていた。高尚な生き方があるとしたら、できればそっちに近づきたいと願っていた。結構ガチガチに「善き生き方」というようなことを考えていたし、そのお陰で自分なりの信仰心ということや、信念を大切にするようになった。
そんなにガチガチだった私も、溶解してきた。
ある日から、
生きている意味があろうが無かろうが「ただ生きる。」という事の素晴らしさ【も】認識したからです。
意味付けして、ごちゃごちゃアレコレ手元に持ってこなくて良いよね。
なんて感じ。笑
雑念が消えた経験により(あの状態に慣れると)、随分さっぱりして気持ち良かった。と思うので、今度は それまでのごちゃごちゃ考える という感じ方から 一歩進んだのか? と感じる、次なる ごちゃごちゃ考える という感覚も生まれるわけです。
気づきも湧いてくるままに任せていて、関心を寄せて取りに行かない。
気付こうとしない。と書くとまた意味合いが変わってきちゃいますが、自然にお任せしてると書くと近づいてくるでしょうか?
安心したい。気づきによる成長が無いとダメだ。
意味を気にし過ぎると、気づきも無いといけないんじゃないか?という思考に発展しないとも限らない。
簡単に書くと、多分私はそこまで真面目じゃないのかも知れない。脱力してるのかも。そこだけは。いや、そこも?
淡々と生きてると、もうなんだか、気づいても気付かなくても、意味があってもなくてもOKみたく感じる時があります。
じゃあ なにも考えなくてもいいし、なんにもしなくていいのか?
なんだか悟りだか解脱だか(私はこの「教え」をちゃんと勉強していないので表現の仕方が間違っていたら申し訳ありません)を目指して、なんでもOKみたくなって、結果(そうなったか・・・)という道を歩く方もいらっしゃる。
2018年に書いたこのコラムの中に、解脱を目指した結果、ホームレスになるというはるか昔にどこかで仕入れ情報について書きましたが、その後、本当にその道を歩いた方が現れて、(やっばり 本当なんだ)と思いましたけれど、
- 生きていることに意味があっても無くてもOK
- 気づきもあっても無くてもOK
- 意味があっても無くてOK
- メッセージに意味があってもなくてもOK
みたいな事が体感覚として理解できると、「なんにもしない」ということにも意味が出てきます。
ふふふ、ちょっと頭がこんがらがってきませんか?
なんでもOK。その上で何をしていきたいですか?
生きてるだけでOK。ということなので、現実を生きずとも、現実からフワッと離れて、お好みの幻の中で生きていくことができるわけです。(現実と幻という表現をあえてわかりやすく用いています)
ポイントは「フワッと」という吸引力のある磁場のようなものです。
トンデモ発言をするのなら、体内の磁場を「フワッと」に惹かれる電位にするのか、「ありのままを見てみよう」という方向性の磁場と親和性の高い電位にするのか?という自分の選択いかんによって、
この世は幻と表現される世界の観え方が変わる。感じ方も変わる。磁場が変わる。体内の電位も変わる。
(重ねて書きますが、トンデモ発言として書いています。本当はこれが真実でも良いけれど、イメージしやすいような表現の1つです)
話を戻すと、その悟りか解脱のような体験をして「すべてがわかったような気持になった」から、「もうなにもしない」という波に乗っていくのか
そうは言ってもね、そうかも知れないけどね、でもあえて現実や生活を積み重ねていこうよ(本当は積み重ねも幻だとしても)とその波を見送る、乗らない事も選べます。
フワッとしていく波に乗ることもできるし、理想とは違うけれど、あるがままを観てみようと思う波にも乗れる。
あるがまま。ということは実は非常に少ないです。何が少ないのか?を文章で表現するのは難しいのですが、強いて書くのなら「大切な情報」でしょうか。
自分が体験していない情報を関連付けているということはおそらくありのままではなく、「ただの情報」だという意味です。
目の前にないことまで考えているのだとしたら、それは雑念なのかもしれないし、それをメッセージと捉えているのかもしれないし、気づきだと思っていることなのかもしれない。という可能性もあるね。というお話です。
私はこのように文章を書くと、アレコレ書いて長文になりますが、思考自体は単語や四字熟語のようなもので構成されています。イラスト付きのカードのようなもの(図形というものも含めて)と言っても良い。その認識を、書くというアウトプット行為をするとこんなに長くなっちゃう(◎_◎)
武田という人間はいつもややこしいことばかり考えているんだろう。と思われることが多いし、私に気をつかって、心理の話を話題として用いてくださる方も多いですが、日頃は全くややこしいことは考えておらず、頭の中はシーーーンとしています。
ディベート類も好まないので、無理に気を遣ってくださって脳や心理の話をしてくださらなくて良いのにな。と思っています。実際の私は大した話はしませんし、知らないことをお聞きしている方が楽しかったりします。
カウンセリングやセラピーの時はそのとき用のスイッチが入るので、
- カウンセリングやセラピーをしている時と、
- アレコレ書いている時と、
- 話し言葉でコミュニケーションをしている時は違うんです。
ですから、心理の話をした方が良いだろうという そういう気の遣い方を知らない子供達といる時は無理に考えなくていいので非常に楽しい。
話す時の脳の中身と、書く時の脳の使い方は違っているし、アレコレ考える時期は一旦終わっているため、アレコレ思考期間が再開するまでは日々の目の前のやる事に取り組んで、何もなければボケっとして過ごしていくんだと思います。
ですから、語り合うという感じよりも、質問された時に脳内の単語や四字熟語を取り出すという感じ。見えている図形を言葉に変えるという感じです。これはメッセージではなくて、自分の思考です。または感性。
気持ちを話すときは、分かりやすく伝えたいと思うと、事例も含めたり、感情も含めたりしますけれど、今書いているようなことも、すでに一旦解決済みになっていることを文章にしているために、現在進行形で考えているわけではないことが多い。(日頃はひどくボケッーーーとしています)
もう、アレコレ アレコレと考えているわけではなくて、文章を書く用に、一旦解決済みの棚から思考を出してくる感じです。
多くの個人研究もなんだか大体整理がついてきて、あとはデータを有るがままに見ていくだけで良いのかな~と感じていますし、新しい研究テーマが見つかったら見つかったでそれで良い。
感性多様
そして、今回の記事を書くきっかけになったやり取りをした友人は「気づき」と「メッセージ(とよく多くの方がおっしゃるもの)」は明確に別物として捉えていたのですが、なんと私は曖昧でした。
彼女が言わんとしていることもイメージはできるんだけど、私自身の明確な住み分け感がすんなり出てこない(笑)
アレ? なんで私は曖昧なのかな? と思っていたのですが、どうやら私の場合は「気づき」「メッセージ」に加えて「雑念」というカテゴリーがもう脳に沁み込んでいてしまっているようで、明確に分類できないということに気がつきました。
それこそ、これを書きながら気がついたわけです。
タイトルが先に決まって、書き進めているうちに自分に気がつきました。そう、私の中の気づきとは、ひょっこりでてくる感じが強くなっていて、先述の「取りに行く」「ナニカの答えは手に入れる」というときは「思考を凝らした結果のその時の結論」というものになっています。これは気づきとは別物。いや、別物とも言い切れないか。
脳内事象って線引きが難しいですね。
私の場合は、書いている最中に「気づく」ことが多い
私の場合は、書いている最中に「気づく」ことが多いのも確かです。セッションでバランス調整を受けている時にも気づく時があります。
セルフケアの際は、セルフケアのあと(合間とも言えます)、日常生活をおくっている時に「あ! そうか!」と気がつく瞬間が訪れることがほとんど。
シナプスが何時繋がるか?ということでしょうね。
こんなのも個々のタイプによって違うという事を、友人とのやり取りで今まで以上に知ることができました。
あなたのストレス反応はいかがですか?
今日、この記事を書いてきて、1つご提案をするならば、
私は気がつかなくてもOK。私は気がついてもOK。
相手は気がつかなくてもOK。相手が気がついてもOK。
これらのストレス反応を確認してみても良いかと思います。
ストレス反応が現れていたらバランス調整を是非行ってみてください(^^)
バランス調整はこちらもオススメ。セルフケア用です。
あなたはどんな磁場で生きていきたいですか?(^^)
(何度も書きますが、トンデモ発言でしたらすみません)
今日のこの記事を書くきっかけになった有り難い友人とのやり取り。
「気づき」と「メッセージ(とよく多くの方がおっしゃるもの)」は明確に別物として捉えていた友人もきっとブログなどに彼女の感性で文章を綴られると思います。
楽しみです(^^)
(2020/06/16)