信念と運命
ある日、こんなブログを書いた。
この中でジャッジについて書いた。
「良かれ」もジャッジだし、「正しい」も「間違っている」もジャッジだ。
生きていると中々難しいことも多いものですよ。
実は私はこのブログの中ではこっちが推しだ。
関わり合いと循環。
その中で自分がどう生きていきたいか?という事に過ぎないが、
自分がどう生きていきたいか?とはどういうことか?が難しいのかもしれないな。
私達は、直ぐに自分以外がやっていることに気を取られて、良いとか悪いとか、一言いいたくなるもんである。
本当に人間とは、自分を置き去りにするのが得意な生き物なのだろう。
頭の中で、こういった事をもっと分かりやすく書けないだろうか? いい言葉や表現はあるだろうか?と思い始めると、有り難いことに「そう!これ!」と思えるものが目の前に現れる。
今回は(も?)映画の中のセリフがいくつか登場するが、日本語訳なので本来のニュアンスとは違うのかもしれない。しかしこの日本語訳が私には「コレハイイネ」と思えた。(セリフを取り上げた映画は複数です)
Contents
信念と運命
「信念と運命」は「陰と陽」だ。
という痺れるセリフが映画の中の登場した。
この台詞のあと、「運命が動き、信念が試される」と続いた。
私は度々人生観と書くが、言い換えたらそれは「信念」なんだな。って思えた。
一見信念のようで、実はテクニックの追及のような思考ってある。境目なんてないから自覚しにくい。
しかしテクニックの追及では育たない とても大切なものが人間にはあると感じている。
そういったものではひょっとしたら、この映画のセリフで言われている「お試し」がクリアできないのかもしれない。
テクニックの使い方の追及ではクリアできないということこそが1つのスリップ現象なのかもね。とどんどん私の脳内でシナプスが繋がっていった。
テクニックというのは、法則や教えや、それらしい思想を使いこなすというようなことも含んでいる。
こんな考え方をしている私はまた別の映画の中で素敵なセリフに出会いました。
同じように完璧じゃない
宗教は完璧じゃない。
人間が完璧じゃないのと同じように
こんなセリフが現れました。
なんというか、こういう事を言えるという事自体が余裕があるということじゃないかな。
私がスリップと感じる事に関して書いたコラムです
この以前のコラムの中で、このスリップ現象から抜けるには「考えること」が大切だと書いた。
「懲りてない」可能性があるとも書いたが、言い換えれば「まだまだ余裕がある」ということでもある。
だから、それを「やめた方が良い」とか「アナタは間違っている」「気がついていない」と他人が思ったところで意味がないというようなことも過去に書いたかもしれない。人はどうであれ生きたいように生きているということも尊重するという意味では。
しかし、スリップし続けているという仮定に基づくと、それは融合や統合ということは起きにくい。かえって、スリップを繰り返すことで陰陽バランスは大きく崩れていくという可能性もある。
そして思った。
スリップから抜け出すケースとそのまま継続するケースの違いを考えた時に、こういった時こそ「人生観」や「信念」という目に見えないものが威力を発揮しているのかもしれないな。と。
人生観や信念ということも「この世は幻」に含まれているだろうけれど、幻だって威力はある。
その証拠に人間は苦しむということがあるし、喜ぶという事がある。
いや、幻だからこそパワフルなのかもしれない。
それが魂のインフレーションという事が起きる原動力でもあるものね。
そう、「幻」という意味も、多面的に考えた方が良さそうだ。
恐怖も幻だというセリフ
心は創造性に富んでいる。あたかも現実のように物事を見せる。それは錯覚であり認識にすぎない。
現実なのか錯覚なのか見分けるには時として助けが必要。現実を見たいなら支配するしかない「恐怖を」。恐怖は自分の心にしか存在しない。
認知行動療法という療法では上のセリフにあるようなことの対処をしていきます。
恐怖をブレイクスルー?!
何年前でしょうか? 私は「そうだ! 恐怖をブレイクスルーしよう!」というチャレンジに取り組むことを決めました。
何年も前のことで、今となってはその時の自分の気持ちになれませんし、その時の思考経緯もすっかり忘れてしまっていますし、
じゃあ具体的に何をやったのかも見事に忘れていますが、わたしのことですからストレスケアを行ったことは確かだろう。しかし、具体的にどんなストレスケアの流れだったのか?などは何も覚えていない。がしかし、覚えていないけれども、結果はどうやら一応ブレイクスルーしてるみたいです。(笑)
補足しておきますが、もちろん恐怖は無くなっていませんよ。
ただ、ある程度の、それこそ「幻」の恐怖のとある領域についてはお手当が完了しているような気がします。
一体私が「そうだ! 恐怖をブレイクスルーしよう!」と思い立って何をしたのか忘れちゃったけど、今これを書いていて思ったのは
私のその恐怖には、
- 理想
- 希望
- 願望
が含まれていたような気がします。
理想が幻だとしたらガッカリするでしょ? そのガッカリも恐怖といえば恐怖なんですよね。
願望も、その欲したものが思っていたものと違うとガッカリしますでしょ?ガッカリするよりも、幻に浸っていた方が楽だといえば楽だ。
そう考えると、幻というのは「楽」「平和」という意味も含んでいる。劣悪な環境・状況だとしてもその状態を継続するということは、変わらなくても良いという意味では「楽」であり「平和」だとよく認識されるそうですが、この感覚と恐怖は非常に仲良しなんでしょうね。
親和性が高いんでしょうね。
やはり人の心の奥底の奥底に、「ありのままなど見たくない」という気持ちが息づいているような気がします。それがスリップを誘発する一因にもなるでしょうし、ジャッジをする評論家で居るということはある意味「ありのまま」を受け止めなくて良いし。
本当は、ガッカリするのには耐えられないのかもしれないですね。または自分のことであっても責任を取りたくないという意識かもしれない。
自分が選んだものが「違っていた」と思いたくない。
しかし実際、その多くは雑念だったりするんですが、雑念は実際に消えないと、(あぁ あれもこれも全部雑念だったんだ。ビックリ)と気がつけないからしょうがない。それに雑念がぶっ飛ぶようなインパクトのある出来事はそうそう人生に現れないようだ。(起きる人には起きるようですが)
ジャッジを手放せば消えていく悩みやストレスは多いだろうと思いますが、それがなかなか・・・・。
だって、人間だもの。
だから認知行動療法という手法が生まれたんだけれど。
価値観はさまざま
こういった話を書くと、たいてい「じゃあ何が良いのか?」という疑問が頭に浮かぶことがあるけれど、それこそが正解がなくて、価値観と呼ばれるものなのだろう。
スリップを続けていても、骨身にしみず、懲りず、余裕があるのなら別に大きな問題は起きていないのだから、他人がそれをジャッジする必要もない。
よしんば問題が起きたとしても、骨身にしみて懲りるようなことがあればスリップは止まるだろうし、止まらなければそれでもまだ余裕があるんだろうと思う。傍からどう見えようと当人が変わりたいと熱望しないということはそういった意味が含まれていることが多い。
運命論が好きで流されていくような人生観も、信念が試されるような事があることを受け入れて貫くことも、逆にお試しに負けてしまったような気持になることもあるけれど、優劣は無いと思うようになった。個人的な好みはあるが、好みじゃないからと言ってジャッジして否定することもない。
結果、ご本人が今が幸せならその生き方が良かったんだろうし、別に幸せを感じなくても「そう生きていきたい」という希望は叶っている。
生き方の好みは人それぞれです。
ですから、自分以外のことが気になるのでしたら、この記事の冒頭に書いた
直ぐに自分以外がやっていることに気を取られて、良いとか悪いとか、一言いいたくなるもんである。
ということをバランス調整した方が早い。
バランス調整したから即刻言いたくなくなるとは限らない。
それでも伝えた方が良いのかもしれない。と思えば「信念」に基づいて伝えることだってあるが、それが正しいのかどうかは分からない。
ひょっとして「ありがとう」と言われたら、(あぁ ひょっとして伝えて良かったのかもね)と思えるのだろうか?
「ありがとう」と言われなくても、心の中でそう思ってもらえたら 良かった行為になるんだろうか?
相手がどう思おうと関係ないのだろうか?
難しすぎて結論は書けないけれど、自分の信念というものを創り上げていくというもの中々楽しいということは書いておきたい。
それを人様に押し付ける必要など無いが、自分が自分を支えることができるような信念、人生観を持っていても良いと思う。
もう少し書き加えてみると
上の記事の中に
そう、私の人生観は「それまでの人生がどうであれ、死ぬ直前に『あぁ 良かった』と自分が感じたら、それが幸せだ」と思っていました。
もう最後の一瞬で決まるんだろうと。
そのためにもストレスケアはしていた方が良いというのは非常に現実的な対処方法でした。(そして非常に使いやすいストレスケアの方法を人生の途中で知ったのでどんどん行ってきたし、今後も行います。)
という事を書きました。
よく、ヒトが人生の最後に後悔するのは、
やって失敗したことではなくて、できたのにやらなかった事だ。
というような事が言われています。
スティーブ・ジョブズも病床で
自分のように、仕事ばかりで家庭などのもっと大切にすることをなおざりにすると最後に後悔するので皆さんも注意してね。と言ったと伝えられています。
確かに病床ではそう考えて後悔した時間もあったかもしれませんが、私はもう少し違うことを想像しています。
最期が近づいた時に後悔することがあるとは思いますが、もう少し時間が進んだ最後の一瞬には「こうしか(このようにしか)生きられなかった」と全てを収めて最後を迎えたんではないかと勝手に想像しています。
それはスティーブ・ジョブズだけじゃなくて、皆さん同じではないかな?と思ったりしています。
会話ができる時や、手記が残せるときは回想するので後悔が湧くこともあるでしょう。
しかし、最後の最後の、本当の最後の瞬間に気持ちを話せる状態の方はいらっしゃらないが、その本人の気持ちが周りにはわからなくなった その一瞬に ご本人の中では「後悔」も全て帳消しになって、自分で帳尻を合わせて人生を締めくくるんじゃないかな?と。
もしそうだとしたら、正しい生き方などは益々無いのかな?と思えたりしてきたんですね。
こうなってくると、自分がストレスを感じるほどジャッジしているのって意味が無いな~と思える。
ただ、いつものように最後に書いておきたいのは、
私個人の好みとして、信念や人生観を大切にしたいと思っているだけなんですね。
何のためにストレスケアをするんだろう?
良い悪いもなくて、正解も間違いも無いのならストレスケアって何のためにするのだろう?
なんも気にせずやりたいまま、したいまま生きたら良いじゃん。と言うことにもなってくる。
ある一面はそうとも言えるんだけど、社会生活を送っていると、自分のやりたいまま、したい放題というのが、自分の生きづらさに変換されて自分に返ってくる時がある。
ということは、
「生きやすさ」とはそう単純に◯◯したら良いんだ。ということでも無さそう。
なのでわたしの考え方として、「生きやすさをクリエイト(創造)する」と言うことに注目している。
ここには、行動変容も含まれていて、その為の練習・レッスンというものも含まれるし、
ストレスケアをマメに行うということも含んでいる。
信念の整理や、人生観を再確認と言うこともしかり。
自分の生きやすさを、自分の思考、チカラを利用してオーダーメイドする。なので、意識的に運命に流されていく運命論者になりたいし、その生き方が好きと言う方は、エゴもジャッジも思考も手放すことが「生きやすさ」に繋がるし
周りに自分のことを今より理解してほしい。と言うことが生きやすさに繋がるのなら、コミュニケーションのレッスンも必要になってくるだろう。
生きやすさは人それぞれで、価値観もそれぞれで、対処法やストレスケアの焦点もそれぞれだ。
こんな事を、私が個人セッションをする時の指針にしている。
- ご本人の希望はなんだろうか?
- ご本人の生きやすさはとは何を示しているだろうか?
と言う事をお聞きしている。
この辺りがまだはっきりしていない場合だってある。
そんなことは考えたことが無いという方もいらっしゃる。
そんな時は対話をして、あれやこれやと一緒に考えるのもサポートとして行っていきたい。
対話をすると、思考がはっきりしてくることって多いから。
(2020/06/03)