2つのファクト。なぜこんなに認識が違うのか?
個人的な理由で1か月程は新しいコラムをアップできませんので、今日のうちにもう1つ書こうと思います。
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この記事は上の記事の続きにもなります。読んで頂く方が今回の内容がわかりやすいです。
ファクトはあるのか?
この時にも少し触れていますが、この記事はこれについてもう少し進めます。
記憶違いというような事は誰にでもあります。
記憶を変えてしまうという事も誰にでもあります。(一部の脳のタイプの方には記憶を変えるということは無いかもしれません。何事も例外がある。)
記憶を変える際に意識がある時は「嘘」と分類されるケースもあるでしょうし、無意識に記憶を変える、すり替えが起きるという違いもある。
ここに、脳のタイプや、ある時は疾患の症状として起きるケースも加わります。
これがミックスされているとファクトというものが無くなってしまう確率がグンと上がります。
しかし、この時無くなってしまうファクトとは「共通認識があると設定した上に成り立つファクト」です。
無くならないのは「当事者(個々)がファクトだと思っている事象」
複数名の登場人物がいて、それぞれのファクトが違う。
そういったことに出会った場合に「誰が正しいのか?」「ファクトはどれだ?」をどうやって決めていますか?
- 好き嫌いですか?
- 相手の立場・役職ですか?
- 自分の損得ですか?
- 付き合いの長さですか?
多かれ少なかれこういった事が、その現場を見たことがない場合の判断基準になるでしょう。
私がなかなかそういったバイアスをかけないのは、上のどれもこれもが判断基準にするには全く違っていたという知識と知識があってもうっかりと間違えた経験があるからです。
正義の女神も秤をもっていますけれど。ーWikipedia 「正義の女神」
こういったケースの実際の秤のようなものは無いんですね。疾患と症例でしたら治療ガイドラインというものがありますけれど。
いまより寂しかった時はファクトが1つだという信念があったのだろう
相手がファクトを話さない時にそれを単純に「嘘」や「悪意」「故意」と思う事もありました。その通りのこともありました。
それはきっと自分が嘘をつく時に「今、私は本当のことを話していない」という自覚があったことに由来します。嘘をつくと気持ちが悪いのですが、特に子供の頃はその場しのぎの嘘も言いました。バレたものが多かったけれど、バレない嘘もあった。故意にウソをつかなくても、真実を話さないということもウソだという気持ち悪さがあったので、本当のことを話す勇気が無くて結果バレなかったことは今でも覚えています。(もちろん忘れていることも山ほどあります)
こんな記憶や経験は、バレて恥ずかしい思いをしても、その時に終わらせるって大切だよなと思うきっかけになっている。
が、いつ頃かわかりませんが、「嘘つくなんて・・・・」と相手の行動、言動を寂しく感じていた私がハタと気がついたことがありました。
「(相手は)故意的な嘘ではなくて本当に忘れているのかな?」
「記憶が変わっているのかな?」という事でした。
それでも自分の真実・ファクトよりも、私から見たら間違っている相手の主張するファクトが尊重されるようなことがあるとやっぱり寂しかった。
記憶力が良いという自覚がありましたから、(そっちの言い分は正確ではないのに・・・)と思うけれど、昔の方が事なかれ思考で「それは違う」という声をあげることは少なかったと思います。
そして月日は流れ、
今はどうかといいますと
- 複数いた場合に、ファクトが全く違うという認知の違いがある。
- それが意図的、故意という範囲を超えた当事者の無意識の領域で完全に脳内で記憶が創られることがある。
- これとは逆に、疾患として虚言をしているうちに自分もそれを信じこむ。(最初の嘘は意識していてもその内それが真実という形で脳に吸収されていくように私には見えました。)
これらがレアケースではなくて、割と普通に起こっているなという風景が見えるようになりました。
私の寂しさは、私側のファクトからは感じて当たり前だったとも思いますが、見当違いだったともいえる。
こういったことは昔からあったことですが、現在ますますヒトの脳が変わっていっているのならば、ひょっとしてこれからもっと増えるかもしれません。
それに、私自身も自分だけを除外できませんし。
そう、だれしも錯誤ということから除外できないし、影響を受けたこと、言葉、気に入ったこと、言葉などを自分発信だと思い違いすることがあるということ。
確かに私たちの知識はそうやって影響を受けたものの集大成ではありますが、影響を受けたことすら記憶になく、一から自分発信だ・創造主だと思う事も、やはり程度問題にはなると思います。
上でご紹介した「女性に起きる「憑依と解離と、自分の中心不在」をアスペルガー症候群と理解する可能性。」の中に登場した、数分前に初めて他人から聞いたことを、場所も変えず、その場に居合わせるヒトも同じままなのに「ひらめいた」とおっしゃった方がいたのですが、「えっ? それって『たった今』聞いたことだよね?」と気がついたのはどうやら私だけでした。
それって私が今喋ったことだよね。ということもあった。
その時、今目の前に起こったその不思議さに他の誰も気がつかないのも不思議だったのですが、ひょっとしたら他の方も解離状態だったのかもしれませんね。たしかに他の皆様は「ひらめいた」とおっしゃった方に負けず劣らず「霊的なものを感じる」と自称されていましたから、解離の傾向は強めだったとも仮定できますし、同調する傾向にあるとしたら、目の前に起きている事柄に意識が向くより多くのエネルギーが「ひらめいた方のメンタリティ」に同調していたという仮説も成り立ちます。
「ひらめいた」とおっしゃった方はかなり強いコントロールタイプ・支配型でしたから、その影響下に包まれていたらある意味弱い側はそういう人物を絶対視してしまうので、こういった「あれ?」という事柄には気がつけないこともあります。
あの時のファクトは登場人物分存在したようにも思えます。
ファクトは人数分だけある?
ですから、オピニオンか?ファクトか?という問いかけが無力化するような場面が増えるかもしれませんね。もう実際ありますし。(昔からあるんですが)
私はオピニオンか?ファクトか?ということを大切だと捉えていますし、それは実際に目の前に起きていることをよく見る。ということや、自分のバイアスに気がつくことだと思っています。
しかし、クライエントのお話を伺う相談業の際は、正しさをジャッジするのは私の仕事ではありません。クライエントが事実・ファクトだと捉えているお話を伺います。認知について質問をしたりします。
当事者のファクトを尊重することが大切なんですね。
これが相談以外のときまでオールか?という事に関しては違うと感じています。
何が起きているのか?という今起きていることや、事が起こった経緯、この先の展開ということを考えた方が良いこともあるわけです。視点と目的が違うのでしょう。
例えば、当然ですが犯罪のプロファイリングをする方は、相談業とはまた異なる視点が活躍するのだろうと思うのですが、それをごちゃまぜにすることはそれぞれの職務の本筋から離れてしまうと思います。
この2つが同時に活躍するのは「物語を紡ぐ作家さん」なのかもしれませんが。
あくまで個人的な意見ですが、多くのデータを集めるとファクトに近づけるような気もしています。
人数分のファクトがあるとしても、それを聞く側が勝手に取捨選択せず並列に扱っていくと「まるでファクトに見えたもの」にほころびが出てくることもあるし、時間が経つと真実が明らかになるという事もあります。
ですから、「ファクト」という言葉を使う際に、定義をしっかりと共通認識してからスタートした方が良いでしょう。
どういう事に関して「ファクト」として話を進めるのか? 取り扱うのか? ということです。
正確には「録画映像」があるもの以外、ファクトと言いきれる事象は存在しないのかもしれないです。ドキュメンタリー映像という意味ではありません。ドキュメンタリー映像にも編集と演出が加えられているからです。
録画画像のようにバイアスのない目で物事をそのまま記憶していくような事は人間には無理だろうし、ただ録画を覚えていても、それに伴う考える力をつけることが重要ではないかと思えます。映像をそのまま記憶しても、それを理解する際にバイアスがかかるわけですから。
ファクトすらも、表現しだいでいろいろあるというような事が起きるんですね。
ファクトをジャッジすることの優先順位もケースバイケースだという事にもなります。
こうなってくると王座の位置にいた「ファクト」っていったいなんなの? などという気持ちにもなりますが、でもしかし、大切な概念だと私は思っています。
真実って1つですか?
ファクトって1つですか?
アナタの価値観ではこの2つはどのような位置づけですか?
記憶は思い込み
先述したように、
私は記憶力には自信があったという過去の認識を書きましたが、
可能性として、記憶力には自信がある。という錯誤もあるんですよね。
すっかり忘れている。
記憶がすり替わっている。
記憶を創り上げた。
これらを「記憶力に自信がある。真実だ。」と思う脳のタイプがあるということ。
人間ならどの脳のタイプもこれが起きるけれど、解離ということに含まれるこれらが特に起きやすい脳のタイプがあるということ。
妄想も「そんな馬鹿な」ではなくて、ファクトと捉える脳の作用があるという事です。
統合失調症などの幻聴は、ささやき声ではなくて、実物大の音量で聞こえるそうですから、一体どれが幻聴なのか把握できないし、それを幻聴と理解することが非常に難しいそうです。
当事者は真剣に生きていらして、しかし、脳のクセに手を焼いている時があります。
録画映像には全く別の記録がされていても、それを見るまでは自分の記憶を「事実」「ファクト」と扱いますでしょ?
そして録画画像がこの世に存在しないのがほとんどです。
共感力が強い方は、相手が解離した状態にも当然共感していくでしょうから、自分のメンタルを鍛えるということは大切でしょうし、もしそれが「安心感の欠如」が関係している脳の発達でしたら、今からでも安心感の欠如ということをケアすることを早急にスタートされていかれると宜しいかと存じます。
共感と共振は違う。という言葉を精神科のDr.がおっしゃっていましたが、過剰な共振が収まるだけでも随分違うと思うんです。これも脳のクセの部類でしょうし、心の課題としても奥が深いものなので収まっていくのには簡単ではないはずですが、取り組む価値はあると思います。
過剰な共振が収まるだけでも、ファクトの見え方が変わってきます。
(2018/09/02)