そういえば悲しい体験記を書いていない。しかしシャドウ統合は率先して行った。
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ふと思った「悲しい体験記を書いていない」と
先日、茨木県からご主人のライブ(ライブハウスでの)と新婚旅行で来沖されたカウンセラーさん(セラピスト)とお会いして、お話しして
初めてハッキリしたことは 私が心理オタクだという事でした。
なぜどうやらそうらしいと分かったかというと、その方も心理オタクだったからです。
全然オタクだという自覚はありませんでしたが、そういえば子供の頃からずっと人間の感情と心と行動というものを当たり前に考えてきました。
育った環境やなかなか一筋縄ではいかなかった各種経験も心理オタクに拍車をかけたのかもしれません。
心理学の本を読むことが心理オタクと表現する方もいるかもしれません。
私は心理学の本も将来このような心体カウンセリング™ ということを行うとは全く想像しないままに独り勉強していました。しかし現実に起こっていることから学んだことが私の宝物になりました。
でしたから、勉強するという意識もないんですよね。ただそれが知りたくて、興味があって読んでいるくせに自分がしんどくなる本も多かった気がするけれど、やらずにはいられない。それを考えるのが好きだったんでしょう。
だから自分の心を見るのがシンドクなる。といういうことにある種鈍いかもしえれません。耐性があるということでしょうか。
いや、確かにシンドクなりましたよ。そんな時は目の前で起きていて自分も参加している現実の人間劇場が学びでした。
こっちもシンドイ時はしんどいけれど。
だからなのか? 自分で命を断とうと思った事はないのです。(思ってもいないけれど、まざまざと死というものを感じたことはありましたので、あの危険さは少し経験しました。)
それは、自分が感じる苦しみやシンドサを和らげるためのなにか方法があるのではないか?とすがるような思いで自分の心・人間の心を見続けることに意識が向いていたからとも言えますし、そういったことを考える元気もないというような時期があったからです。
過去の私は自分が感じる苦しみやシンドサを和らげるための具体的な方法は知りませんでした。
人間の心を見れば見るほど、救われるどころか返ってひねくれたくなる様な経験もありました。
ですから、自分の生育環境や現在の環境の影響でひねくれてしまったり、斜に構える気持ち、どうせ・・・という気持ちに満たされている方のお気持ちもお察しします。それは虚無でしょう。
不思議なのは虚無があった頃でも私は「それでも自分を保って居ようよ!」と言いたくなる気持ちが満載だったのですが、今はその良かれと思う気持ちも押し付けたからといって善行ではないことを学びました。
今は全くそういった事を言わないわけではなく、時には友達に話すように喋ってしまうこともありますがそれについてもあまり反省もしなくなりました。
私なら言われた瞬間は 面白くない! と反応するでしょうが、後から言われて結局良かった事もあったので。
その判断もご本人に任せたら良いかな。と。
正論は時として人を傷つけるけれど、正論は人を傷つけるという言葉で傷つく人もいる。
圧倒的な正しい言葉はこの世の中にあるんだろうか? と思っています。
こういったことも含めて、本人だけが係われることが殆どだとつくづく思っています。私が行っていることはサポートの域を出ないという事です。
気がつけばOKか? 気付きは万能か?
気がついたら終わり。では無かった事もありました。気がついて終わりになることは案外浅いことなのかも知れません。ある程度心体の土台が整っていればそうかもしれないけれど、心体共にダメージが大きすぎてまだまだ渦中の渦のど真ん中に居る時に気づきだけでどこまで行けるだろう?
自分の心を見る訓練をしている方は気付きだけでOKなケースが多いような気がします。
しかし、それも個々によるし、そうなのか?そうじゃないのか?を一度自分で感じてください。
依存症や中毒という事になると、その気づきの段階があると思います。気づきだけで果たして脱出・回復しているのか?
ですから、「気づき」だと思っていることの段階があるということを書きたいのです。
私には、気がついた後にストレスバランス調整が必要な事も沢山あったと思います。
しかし、その方法を知って良かったとつくづく思います。
それは気づくだけで肉体的にもバランス調整完了という体験・体感を得た今でも。そしてこれからも。
悲しい体験記はすでに書いたから
様々な体験は、ホームページのコラムに記事を書く際に、必要なら?書きたいから?その必要な部分は書いていますが、全体的な話は書いていませんね。
そうすることで昇華するという効果もあるのですが、今まで通り必要な時に登場することで良いかな。と思っています。
どうしてかと言うと、私はこのホームページやブログ以外にも人目にはまだ触れていませんが思いのたけを書くという行為を過去にしたので、そっちで昇華されたんだと思います。1回ではありません。まぁまぁな量を2回ほど書きましたので、人目に触れようが触れまいが、書いた時点で昇華した。
私にはこういった行為がとても有効で、でなければ被害者意識をいつまでも引っ張り続けていた事でしょう。身体のストレスバランス調整を身につけたことも人生の転機でした。
小説家の方に「書くことをもうやめられない」とおっしゃる方がいますが、ひょっとして似ているのでしょうか。
しかし、人によっては書けば書くほど、話せば話すほど、昇華ではなく悲しい思いを募らせることもあるようです。ある時は怒りを募らせる。それは書いている最中、話している最中に過去に戻るからでしょうし、その感情の整理が終わるまでは何度も何度も過去に戻り続けます。
本人がそれをやめる気持ちが無い限りは続きます。
昇華には繋がっていないことだってあるんでしょうね。
有名でも、高所得でも、高学歴でも、家族がいても独身でも、そんなことは関係ありません。
高齢だということも関係ありません。
ストレスバランス調整を知っている方がこのような事があるのでしたらそれはお手当の量が不足しているか、的がずれているのかもしれない。
自分が過去に戻っていることに気がついていないでしょう。
ストレスバランス調整を知らないのならば、その方の目にこの記事が奇跡的に目に触れることを願います。
「あなたが必要としている手法は、あなたの手に入りますよ」と。
そのための第一歩は「気づくこと」だとは言えますね。知らないものは探せない。
だから、奇跡的に目に触れることを願うわけです。
ナニ派でもない
悲しい体験記を書くことに賛成派でも反対派でもありません。もう全くのフラットです。気にならない。
どちらでもご本人がお好きなようにするんですから。
それを書いて心が満ちる方もいれば、満ちない方もいるようです。
そして、それらを書くこと自体を批判する方もいると聞いたことがありますが、批判するのならあなたも書けば良いし、批判するのならあなたは書かなければいい。その批判したい気持ちのメカニズムはどうなのかな?と私には興味があります。
批判を正義だと美しい言葉に変換することってありますよ。
それは自分のシャドウを見なくても良いからです。全てを相手のせいにできるという側面を持ち合わせている時もあるんです。
正論を正義だという事もあります。
正義も人それぞれいう幅も結構あるようですが。
だから過剰に傷つく必要はないんです
あなたを大して知りもしないのに批判する人は、結局あなたのことを知りません。
知らないのに その人の想像と妄想の中で怒っている。
あなたはそれにはつきあわなくて良いんじゃないんですか?
例え話ですが、ひょっとしてそれを本人に指摘をしたとしましょう。
(それをしたら厄介なことにはなるでしょう。例えば逆切れなどで益々こじれる事がある事だけはお伝えします。)
「私の(俺の)気持ちなんてどうせ分からないくせに」と言われるかも知れません。
そうですね。確かにそうかもしれません。私も過去にこの名台詞を言った事があります。
しかし、相手もあなたの気持ちなど知らないことが多いですよ。
「どうせわからない」とお互いに言い合ったところでハッピーは生まれません。
それこそ、新しい悲しい物語がはじまります。
その連鎖を止めることがあなたにはできるという事です。
悲しい物語からの脱出のヒント
環境や他人のせい。ということは確かに世の中にはあると思っています。しかし、全部が全部 環境と他人のせいにしちゃうことは、変化の流れにも乗れないリスクが高いし、変わる絶好のチャンスが掴めないことにも繋がったりすることがある。
勿体ない。本当に勿体ない。
以前はそれを自分のことのように残念に思ったりしました。
しかし私も変わりました。
ヒトにはその人の人生を刻む時間が流れています。1日は24時間というのは共通ですが、人生の時間のスピードは人それぞれ。
私が自分の事のように残念と思ったことは、人さまの人生の時間に対して配慮不足でした。
それぞれが経験したいことをしている。自分のペースで。
自分以外の人の事が気になってしょうがない方もご利用ください。
ただ、悲しい物語をやめる鍵はあなたの心・精神にあります。
もうやめると決めたら心体カウンセリング™ にいらしてください。サポートが私の仕事です。
長い悲しみの歴史を終わらせるのに1回の心体カウンセリング™ では難しいです。数回の個人セッションを行います。
私の一番のお薦めは下記の集中コースです。
遠方の方はどうぞ下記をご利用ください。