与えなさい。の罠?
前回のコラム
に続いて、〇〇の罠? シリーズ(?)第2弾である。
Contents
与えなさい
皆さんもご存知の通り、私は時々物わかりの良さという行動を放棄する時がある。
それが時々なのか、しょっちゅうなのかは今日は追及しない。
こんな私は、以前、「与えなさい。」というこれまた耳心地の良い言葉にちょっ としたストライキを起こした。
以前に触れたのはこちらです。
今日は、以前これらのコラムを書いた以降のコラムの内容と連結させて、もう一回り大きな視点からこの「あたえなさい」について書いていきたい。
私は前回の「己を律する」というような、それに異議を唱えること自体が「恐れ多いわ!」「精神修行も理解も足りんわ!」と一喝されそうな金言を改めて再考するという趣味があるようだ。(笑)
まぁ再考した結果を誰にも言わなければ、一喝されることも、アホちゃうか と思われることもなく過ぎていくのですが、時代がこんなに変わって、ブログやコラムに書いちゃえるようになると、ひっそりと考えていたことも陽の元に出しやすくなり、それらがゆるんだ蛇口からポトリポトリと漏れる水のごとく出てきてしまうのである。
ポトリポトリというスピードも、だんだん漏れ出る水量が増えてしまい過ぎやしないかと危惧しておりますが。
あたえなさい。に「自己犠牲」をトッピングしちゃいないか?
不思議なもので、与えなさい。という言葉を聞くと、その土台に美しい自己犠牲があるようなイメージが無いだろうか?
これを私は自分がそういった映画や小説を読み過ぎたからかな?と発生源の辺りをつけていたのですが、どうも私だけじゃなくて多くの方の脳内にもこのようなイメージがあるような気がしている。
なんと、このコラムがまだ下書きに入っている時に、「手塚治虫先生の漫画(アニメ)は基本(こういった)自己犠牲が含まれている。」というセリフを聞いた時には、またまた布置・巡り合わせに感動しました。
そうか、子供の頃から、私達は自己犠牲を美しいものだと学習し続けてきたんだな。
確かに子供の頃に見た映画の中の、自己犠牲のシーンを鮮明に覚えている。(他人のために命を捨ててしまった。失ってしまった。)と思ったことを覚えている。そう、映画や小説、物語、漫画、アニメ、ドラマでは自己犠牲を賛美し、それが美しいと意味を持たされていることが多いし、自己犠牲がその後に無駄になった時などは、(なんだかなぁ やりきれないなぁ)などと思うものだ。
私自身はキリスト教ではないのに、あたえなさい。の言葉に、ひっそりと気配を消して寄り添っている「自己犠牲」の香りをかぎ取ってしまう時に、漏れなく思い浮かぶ言葉がある。
それは「殉教者」という言葉である。
殉教者=尊い=善き者
この殉教者というような自己犠牲よりも一層くっきりしたイメージをいつから脳内で育み始めたのか思い出せないが、気がつけばいつの間にかどっしりと座っている。
しかし、しかし、冷静に考えれば、言語的にはこの 与えなさい。という言葉には =あなた自身を犠牲にして という意味は含まれていないはずなのに、勝手にトッピングしちゃってる。
そして、こういった 与える者=善き者 というイメージを利用して荒稼ぎする団体もあったりする。それは「信仰」(またはそのイメージ)を利用したシステムだったりすることもあるが、言われたとおりに、素直に与えている側にとっては立派な「信仰」なのがこれまた何とも表現しにくいことだったりする。これとは別に、信仰と名乗っていなくても、団体としての手法はそのまま同じという事もあったりする。
言われたとおりに、素直に与えることで、「私にもリターンがある」という現世利益(または来世利益)思考という事だろうか。
となると、特にこれが悪いこともないし、双方は利害と言うか、目的が一致している。
以前、コラムでこちらの書籍の内容をご紹介したことがありましたが、そういったリターンを期待しての双方の行動と、利害の一致というようなことを、不幸になりたがるとは言い切れない。
が、こういったパターンに含まれているようなケースもないわけじゃないだろうと思う。
というような事を見聞きした時に、私のへそ曲がり魂が、(あたえなさいってそんなに万能か?錦の御旗か?)と考え始めてしまった。
しかし、一応長年、こんな話を実際に会って会話をするのならまだしも、記録にばっちり残る文章にするのもなぁ と及び腰だったのに、蛇口がバカになりつつあるようで、ポトリポトリと漏れちゃってる。
いつの間にか自己犠牲を強要されているのなら一度お休みしてみる
「いつの間にか」と「強要」というのは同時進行しないはずですね。
強要という言葉は、される側が気がついている時に使う言葉なんだろうと思うと同時進行しないはずなんだけど、しかし、いつの間にか強要されると書きたくなるケースもある(と感じる)。
自己犠牲という意識すら無ければ、それは「犠牲が無い」ことになるので、ただの印象に残らない出来事なのでしょうが、
そこに気がついたら自分が可愛そう過ぎる。と無意識的に判断した時に、それは衝撃が強すぎるから、と気が付かないように安全装置が働いている時もある。
DVなども、受けた側が理由をつけて正当化するという心の働き方があるが、もともとそういった事に気がつきたくないという嗜好があれば、似たケースが次々と起きても、自分のそのあたりの感性を鈍麻させてあえて気がつかないことだってあるだろう。
鈍麻させる際に救いとなるのが、「あたえなさい」という言葉の美しい意味だというケースもあるだろう。自分を守るために、「私は善きことをしているんだ。だって与えているんだから」「この自己犠牲は、報われるんだから」「相手のための自己犠牲は正しい行いだ」と変換させていることもある。
現実は厳しいから、美しい世界の出来事へと変換させるフィルターをかけるようなイメージだろうか。
気がつくより、流れに身を任せた方が楽だと感じる人生だってある。
現実を見るより、美しくフィルターをかけた世界で生き続ける人生もある。
それを逃避だとすることもできるが、
ヒトには色々な感性があり、価値感があり、幸せがある。
以前、とあるスピリチュアル系(陰謀論系も含む)の世界は、どうしたら良いのか? どう考えたら良いのか? などが分からない方達の受け皿なのだろうと思うようになったと書いたのはこんな理由からだ。
美しい言葉に酔う。というように私が感じるケースがあったとしても、それはあくまで私の感性であって、それを自分ワールドと一体化させる方もいらっしゃるのだろう。
ただ、今は、与えなさい。が正しいのか間違っているのかを話題にしている訳ではありません。
その、あたえなさい。は、あなたが自主的に「あたえたい」と明確な意識を持って行っているのか、誰かに良いと言われたから行っているのか?(善きことを行っているつもりがよくよく見てみたらドンブラコとナニカに流されているのか?)という辺りを書いているつもりです。
正しい、「与え方」
実は、正しい与え方など、私は全く知らない。
信仰などをされている場合も、されていない場合も、あなたの疑問に答えてくれる方はいるだろうか?
信仰などの場合は、(決まった答えがあるのだとしたら)神父さんや牧師さんが教義にある答えを教えてくださるのでしょうか。お坊さんや住職さん、神主さんは教えてくださるのだろうか?
今日のこのコラムでは、今の私が、それらの答えを知らないくせに先を書き進める。それは1つご提案を書きたいからだ。
毎コラム、なにかしらのご提案を書いているような気がするが、今日のはこれです。(過去にも何度も書いていますが)
自分にも与えよう。
自己犠牲などの上に成り立っている「あたえる」ではなく、自分が喜ぶから与えてみるのはどうだろう? あたえる対象は自分。
自己犠牲な行為を行うと自分が喜ぶ方はそれをされたらいいんだと思う。何に喜びを感じるのかは人それぞれだもの。
ただ、自分に与える。自分に喜びを与える。ということに罪悪感があるのなら、それに対するストレスケア(バランス調整)をしてみるもの良いが、「実際に与え続けて慣れる」というのもおススメする。
少々経費がかかっても、一度トライしてみても楽しいと思う。
- 利用する交通機関の少し料金が高い席を予約して実際に座ってみたり、
- 断捨離中だと我慢したものの買いたい衣服があるのなら2~3着買ったって罰は当たらない。
- 考え事が嫌なら、エステに行って施術を受けながら寝てたって良い。
- 時間って貴重だから、なんにもしない時間を創るのもいいし、
- 逆に好きな漫画ばかりを読んでも良いだろうし、
- Amazonプライムで映画ばっかり見たっていい。
私は、エステ以外は全部した。笑
そして、漫画ではなくてアニメを見た。
別のブログにも書いたが、将来的に引っ越しも考えている。私が喜ぶ所にお引越しするつもりだ。そのための自分が喜ぶ条件などを改めて考えていたら結構楽しい。
(あぁ 希望を満たす環境に引っ越したらさぞかし楽しいだろうな)と思うともうすでに楽しい。今の質素な家でも楽しく暮らしているのに、イメージ以上の家になったらと思うと超楽しい。
↓ ブログ「すぐじゃないけど検討中」
終わりに
最後に質問です。
1 あなたは自分に最近何を与えましたか?
2 あなたは自分に何を与えたいですか?
皆様の、笑顔のある生活を願っております。
(2021/04/17)