自分を高める。の罠?
自分に厳しくするのは何故か?
自分を高めたいと思ったが
いつもいつもではなくて良いんだけど、自分を律する必要がある時にそれができたら良いなぁと思っていた。
使う言葉があっているか心配ですが、欲望も感情も野放図のような状態になるのが嫌だということに対処するには、自分に厳しくする必要があると思ったし、律するということは素晴らしいということを知識により学習し、行動に移してみようと思ったわけですね。
自分が山猿のように成長していた子ども時代があるという自覚があるだけに、成長するにつれ「己に厳しくすることは良いことだ」と思うようになった。親にそう育てられたというより、未熟ながらに自分で世間を見て、人生を考えた時に、そうそうフワフワしていても、そうそうずる賢いことばかりしていても、そうそう感情的でも、理想とは違う。
非常に生意気なのですが、未熟ながらに自分で世間を見たときに、野放図の割合が高いような気がしたし、自分も反抗期などもあったにしても、自分を抑制しないままに大人になってもこれは野放図に仲間入りだな。ということに危機感があった。
(こりゃあ生き方や行動様式を変えないとヤバいぞ)というような危機感があった。
反抗期というステップをしっかり踏んで、「感情パワーの強さ」を自分で実感したことが非常に大きかった。
ではどうする? ということを考えた時に基本姿勢として「まずは一人で立つ」というようなことを目指したわけですが、そのためには自分に厳しい方が良いだろうと思えた。今時はちょっと風潮として違っているけれど、ひと昔の世の中のあまたの有り難い系の本は「己を律する」ということは金言だと言っていたし、自分に厳しくするという事は「善き事」だという自然な刷り込みがあった。
が、後年、(おや?何も考えていなかったけれど、ちょっとこれは改めて考えた方が良いな)と思う時が来た。
自分を律する。のイメージ
あくまで私個人のイメージだけれど、自分を律するという言葉のイメージはこんな感じだった。
自分で握った自分の手綱を ギュウギュウ と締め上げるのである。
それには理由があって、(私のような人間は、手綱を緩めてしまうと堕落してしまうし、精神性のようなものもフワフワとしてしまう。だから厳しくしておくべきだろう)と言うような事をMyルールと課していた。
初めてイメージイラストを書いてみたら、シュールというか、恐いと言うか・・・
これは以前別のところで描いた、自分の中の「裁判官」でもある。
内面裁判官も手綱も、俯瞰した視点と、内面を感じる感性の両方とも使っているもんですねぇ。
が、数年前に、(おや、なんか違うぞ)と気がついたのである。
それは、考え方の幅が広がったからこそ気がつけたことだったと思う。
今まで自分なりに考えてやってきた。自分なりに考えるためにも沢山の本を読んだ。実生活のトライ&エラーで学んだことも多かった。
そして、ふと、(ここまで来て、ビックリするほど(自分の思う)堕落ってするか??) という自分の自己評価のようなモノを見直してみた。
そしたら、手綱をギリギリと引っ張らなければ!という意識なんて必要ないな。と思ったので、それを一度やめてみるという意識に変えることにトライしたら、一切何の問題もなく、というか、なんも変わることもなかった。 いや、(あぁ今までの意識をもっと早く変えていても良かったんだな)と確認できたし、自分を信頼するということをまた一つ学んだ。
私個人は、山猿時代があったものの、年を経るごとにちゃんと生活しているのである。成長している。
また、その積み重ねがあって、自分の人生を有り難いと思っているし、心体も快調だ。(実家暮らしの時が一番だらしなくて、生活も乱れていて夜型人間で朝起きれなくて遅刻するような事もあったのですが、今となっては自分の生活リズムも安定し、早起きも平気だし何よりリズム感も良い。コロナの自粛生活があろうがなんだろうか、朗らかに機嫌よく生活をおくっている。)
もし、私が昔心配したような「堕落」の気配がおきてきたら、また手綱を少し締めてみたら良いんだろう。それを思い出すのは簡単だ。おそらくそういった事を意識し続けてきたということは、私にとっては「得意技」だろうから、新しいやり方が上手くいかなかったら、一度元に戻ってまた新しい「トライ」を模索したら良いだけのことだよな。と考えたわけです。
しかし、別になんにも起きません。
心配はただの杞憂でした。
というより、かえって前より調子が良い。
対外的に何か大きな変化があったわけじゃないんです。が、目に見えないところは大きく変わったことは分かっていました。
自分を信頼するということをまた一つ学んだ。
と先ほど書いたのですが、自分を信頼したからこそ既存のルールを一度やめたわけですよ。
錦の御旗だと言われていた
自分に厳しく
というルールを。
それは、これまでの自分の体験と学びによるものが下支えした「新しいルール」。
自分の体験と学びによって既存のルールを継続するのは簡単ですが、自分の体験と学びを、新しいルールを取り入れていけるような間口の広さや柔軟性に変換していくこともできるんですね。
自分に厳しくしたら自分が高まる。という素晴らしいと言われがちな言葉や思考や理念も、ちょっと角度をずらして眺めてみるとだまし絵のトリックが見えてくる時がある。
(あなたはたいした人間じゃないので)自分に厳しくしなければならない。
(あなたはロクデモナイ人間なので)自分に厳しくして人間改造しないと高まらない。
という仰天メタファーが隠れている時もあるし、これらを金言として使っている側も「人間は対したこと無い存在だ」なんて意識を無意識的にその言葉に含んで使っている時がある。
過去の私が自分に対して、そう思っていたように。
だから、これに気がついた時にそれこそ(ヤバイじゃん)とプチ仰天しましたわ。
金言の陰に呪いあり。とでも言いたくなる一瞬ですけどね。
自分を高めたいという崇高な意識があるつもりで、絶対にその道(理想に近づく)を歩かせないぞ!と言わんばかりの無意識の思考。
別に手綱をギュウギュウとしなくても、フワフワしない。(何度も書くが、「ていうか、全然変わらない。」という現在はある)
とある傾向の修行好きな方はこの手の手綱を大抵は好む傾向にある。(いつも書くが、修行思想はお好きにどうぞ。否定も肯定もしていません。過去の私が考えた「修行」が的を外していただけのことなので)
矛盾や(心理的)逆転というのは、別に珍しいことでもなんでもないが、あれもこれも含めて漏れのないバランス調整文言を作ってそれをONにしたら良いというテクニック的な事で対処するという方法を私自身は選ばないのですが、その理由はそのテクニックというものがどこまでの深みがあるのだろうか?と考えるからです。
もちろん、深みがあればよいし、それはそれでご活用されたら良いのでしょうが、私の場合はもっともっと基本的な所をバランス調整するということを行うようにしています。
そのためにも個人セッションをお申込頂いた方と時間の範囲内でお話を伺って、対話をします。
念のため補足
このような補足を書くこともどうだろうか?と思いますが、言葉と言うのは共通ではありませんからやはり補足します。
自分に厳しく。とか、自分を律する。ということが大切な時もある。
私個人の話で言えば、山猿から人間へ、幼い人間から大人の人間へ、と変化したいと思った時には必要な時がありました。
いつでもそれをやったらヤバイと書いているわけじゃないのです。人生の基本、土台を創るときには、厳しさも律する心も行動も大切なときがあると考えていますが、それを必要のない時に「引っ込める」という次なる段階があるんじゃないか?ということを書いているつもりです。
新しい習慣を身につけるのが得意な方と、そうでもない方は、レッスン・訓練の期間が異なるように、厳しさ。も 律する。もグラデーションがあると思う。
あとがき
今日のコラムは、自分が気がついて行った意識修正(認知の修正)と行動変容を、「自分に厳しい人は自己評価が低い」という一文を読んで思い出したために書きました。
私の場合は「手綱を緩めたらダメ人間になる(または、なりたいような大人になれない)」というような考え方をしていたので、その時の自己評価は低いと言えますね。
自分に厳しい人は他人にも厳しいという言葉もありますが、ということは、この言葉に該当するような他人に厳しい人は、他人への評価が厳しいということも言えるんでしょうか?(読み返したら、当たり前のことを書いていた。(笑))
自分に甘いが他人にも甘い。
自分には甘いが、他人には厳しい。
いろんな方がいらっしゃるでしょうが、その厳しさと自己評価が密接に関係している場合もあるのでしょうね。
こんな時に「投影」というような事も関わっていることも多いですね。
0(ゼロ)100(ヒャク)思想の方は、こういった思考のグラデーションや、変化させるということが苦手な方が多いようですが、ご自分の思考の整理がしたい時にもどうぞ心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアをご利用くださいませね。
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(2021/04/03)