人智学という考え方ー10 メインルートに戻って書きます。「感覚」

いやいや、モリ―先生に吸引されまして、ちょっと他の記事の下書きなども書きましたよ。

しかし、2020年のうちに 魂の扉・十二感覚―人智学講座 (耕文舎叢書 (3)  について書きあげられるのなら書きあげたいので、メインルートに戻ってきました。

人間の目は、多くのことを発信しています。

私は目を見ると、いろいろお察しできるような気がするときがありますが、あまり無遠慮に覗き込まないようにしています。

そして、目の奥の脳の反応だろうというものが感じられる気がするときがあるのですが、ルドルフ・シュタイナー氏も同じことを言っていたようです。

ですから、その見た目と行動のギャップなども「目」を使って知ることができるのですが、いかんせん、パッと見の見た目は私たちに判断の錯覚を起こします。それは、見ていないものまで「見たいと思えば、見たい物を脳内で補ってしまう」という作用があるからです。または、見たくないものは見ないのも同じ。

それは、見たものを理解したがる。という脳の作用により、意味づけしちゃう癖とも連結しているようです。

ひいては、意味が欲しい中毒になり、メッセージばかりを求めるようになるのかもしれない。

 

そうなると、在るがままを観る。という事からはちょっと離れているでしょうし、「認知」ということもストレートなフィルターではなくなっている可能性も高そうです。

 

ルドルフ・シュタイナー氏は、目は騙されるが、味覚は騙せないとお考えですが、これを私なりに書きたかったのですが、事例が思いつきませんでした。

 

・・・味覚か~

じゃあ、ヒトは見た目が9割。に味覚というフィルターを加えると、割とフラットな視点が持てるという事になるのかしらね。

Wikipediaによると、味覚には

基本味が他の要素(嗅覚、視覚、記憶など)で拡張された知覚心理学的な感覚としての味は、風味(ふうみ)と呼ばれることが多い。また、認識の過程を味わう(あじわう)と言う。

という意味も書かれていました。

そうか、第一印象で人となりを思い込んでその後も信じ込んで物事を判断してしまう事が多いが、認識の過程を味わうという「認知」も忘れないでおけば「認知の修正」ができるよ。という意味があるのかもしれないですね。

 

知覚

これらを踏まえて、やはり十二感覚を働かせておくことが薦められていますが、大切なのは「知覚しよう」「知ろう」「見たい物も見たくないものも区別せず、そのまま見てみよう」という事のようです。

「そのままを感じてみよう」と関心をもつことが大切だと書かれていました。

関心を寄せ、心を開いてこそ、世界は私たちに答えることができる。

 

おそらく、関心を寄せることは簡単ですが、心を開くことがハードルが高いんじゃないだろうか?

 

心を開く。ということにも体感があることを私は知っている。知っていると書ける理由は体験したからです。

東洋医学に「心包経」という経絡がありますが、(なるほど! 確かに心を護っている、包んでいる。という感じはこれか!)という体験があり、その時私は、瞬時に(何を頑なに守っているんだろう? 心を開けば良いんじゃん)と連想できたのでそういったものを取っ払ってしまいました。(ラッキーでした)

いや、もう全然心を護っているものが無いよ。24時間いつでも裸ん坊だよ。という事では無くて、(本当に他人様に心を開くということはこう言う事なんだ!)ということでしたから、生まれて初めての感覚でしたね。

 

おそらく、こういった事も、安心感というか、そういったことと関連しているでしょうね。恐怖や不安があれば心は開けない。

また逆に、誰にでも開いてしまい大変だ。(大変なのか、大変じゃないのかもわかりませんが、関心がないのに誰にでも心を開いているというのは成り立つのだろうか? 赤ちゃんってどんな感じ?)ということもあるのかもしれないですね。

先述の体験がある私が、心を開いた後、世界が私に答えてくれたものがあるのかどうかは、なんとも書けません。

私の脳内イメージはどんどん変わっていきましたし、おそらく他の多くの感覚も変わりました。それを「世界が答えてくれた」と意味づけて良いのかどうかがわかりません。

 

私は不思議と、意味が欲しい中毒になりにくいようで、メッセージばかりを求めないみたいです。

・・・いや、その時代が終わっただけですね。昔はやっぱりそうでしたから。

 

松果体

よし!第3の目を開発して能力者になるぞ!
というような情報を目にすると、(そんな一か所だけを無理に開発すると厄介な事になるよ。危ないな。)と割とさめているのですが、多分本当にかなり厄介がこじれるよね? 違う?

バランスを無視して、潜在意識に期待し過ぎじゃない?と過去のコラムに書いた様と似ているのですが、同じように松果体に期待し過ぎではないだろうか?

しかし今までその根拠は上のこの程度しが書けなかった。

 

ルドルフ・シュタイナー氏は、

松果体は十二感覚を通して受け止めるものが集められる。

と考えたうえでの、「人間にとって重要」だと捉えていたようですが、なんだか、もう、こういった説明とは全然違った、独立した超能力部位みたく思っている方も多いみたいですよね。

松果体に力を発揮してもらおう!と思うのでしたら、その前に「十二感覚が健康に働く心体で居よう!」という事が大切だろうと思うのですが、超能力部位を開発だ!と信じ込んでしまった時点で健康さから離れているような気がするんです。

 

超能力部位を開発だ!というその考え方の磁場の歪みを認知できない松果体が、能力開発だと思う手法と名目ですくすく育つのも、なんかホラーみたいだ。

アストラル体が弱っている

人智学では、アストラル体は純粋な関心を示すカラダ だそうだ。

 

先程の第3の目、松果体を開発だ!ということも関心があるからするのでしょうが、純粋な関心かどうかというところがkeyですね。

ひょっとしたら、超能力部位を開発だ!という誰かの情報を見て関心をもったのなら純粋な関心じゃないのかもしれない。

私もやってみたい!というのは誰かの影響を受けたからであって、元々関心があったわけじゃない。という考え方はルドルフ・シュタイナー氏の論点とズレているのかどうかもわからなくて申し訳ないのですが、こういったことは、感心じゃなくて反応という事象かもしれないですね。

自分の灯台の「関心」ではなくて、他人様の灯台の「影響」という意味なのだろうか?

 

ということは、他人様の灯台の「影響」だけで生きていると、アストラル体が弱るのかもしれないですね。

 

人間でいることに関心があるのかどうか?

スピリチュアル系のフワッとしちゃうものや、解離や憑依を推奨するタイプのもの、宇宙系、神様系も含め、おそらく「人間でいることに興味がない」方の受け皿になっているような気もする。

 

本当の意味のアセンションが何かは相変わらず知らないが、どっか異次元へGO!というような事も、「人間でいることに興味がない」方達は「ついに願いが叶うぜ!」とお喜びなのかもしれない。

 

また、なんと! 解脱や悟りを求める方にも似たような風味を感じることが多い。解脱や悟りも、人間を脱出するもののように理解している方もいるのではないだろうか? (本当の意味は存じ上げなくて申し訳ありません)。消えたい、消したい、人間でいたくない。という言葉は使いづらい(?)が、解脱や悟りはそれっぽい。人間でいたくない正当な理由になりそうじゃないですか?

 

関心を失ってしまったなら私たちは人間ではなくなってしまう

と書かれていたこれは、

アストラル体がなくなっちゃう

ということなのでしょうか?

 

なんだかこれは大変な気がする。

私が大切にしたいこと

世の中にいろんな情報や知識や教えがありますけれど、(あくまで私個人の感覚ですが)1つのモノサシとして、

それは人間でいるためのものか?

人間でなくなるためのものか?

は気にしていたいな。と思っています。

 

折角生きているし、人間timeがもらえているわけだから、先ずはこの状況に感謝することの方が先じゃないですかね?

 

泥臭い、愛おしい人生はいかがですか?

人智学という考え方ー3 放り出された?

 

 

(2020/12/23)

 

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