人智学という考え方ー9 ちょっと横道。モリー先生登場。

灯台創りの参考になりそうです

コラムに、当たり前ですが「人間道」という表現や、自分の灯台ということを書きました。

コラムを読んで下さっている方に参考になりそうな本が私の目の前に パッ と現れましたので、シェアします。

私はまだ最初の辺りしか読んでいませんので、読後に同じようにお薦めしたい書籍かどうかは今は分かりませんが、今のところは良さそうな感じです。

「モリ―先生との火曜日」 ミッチ・アルボム著

上の書籍の中に

貧乏を救う薬は教育だけ。

と書かれていました。私は幸運にも、このようにお考えで、かつ、そのために情熱をもって行動するという灯台(その方の灯台が内包している1つの要素)をお持ちの方と実際にお会いしたことがあります。

こちらのコラムにご登場いただいています。

行ける所まで行こうとしている方にお会いしました

enriquelopezgarreによるPixabayからの画像

「人生は苦」という言葉

余談になりますが、この本を読み始めて直ぐに、(誰でも命の火が消える日がくるはずなんだけど)私の命の火も自分では想定できない「とある日、とある時」に訪れるという、皆さんと同じ道を辿るということを再認識しました。忘れてはいたわけではありませんが、今日生きていることにまたまた感謝の気持ちが湧きました。

 

いろいろな教えの中で「人生は苦だ」とされていますが、そういった刷り込みもちょっと怖いな~と思うわけです。「人生は苦だ」の本当の本当の意味を私は学んでいないので理解していないと思いますが、大抵の方の理解が私と同じ程度だとしたら、

人生は苦だ

という言葉で、苦しい自分をなんとか納得させようとすることはできるかもしれないが、「幸せ」とか「満ちる」という意識からは益々遠ざかってしまう。変に「豊かさを感じる『芽』」を摘んでしまうような事にはならないだろうか?

遥か昔、私自身もこういった言葉で自分をなだめすかしていた時期もありましたが、同じく遥か昔、そういうやり方をある日やめることにしました。意識が「苦」にばかり向くし、「幸せがある」ということを忘れそうでしたから。(その当時は、ただただ苦しくて、幸せの欠片も感じられなかった)

そもそも自分に「幸せ」が準備されていないような気持にもなっていましたわ。 これって結構怖くないですか? 表現を変えて、「幸せと言うものは本人の感性によるところが多いから、感性(認知)というものを先ずは確認していきましょう」ということを伝えられる方が私の場合はまだ希望が持てますし、実際にそうだと思っているからこそストレスケアをおススメしています。

 

私は今現在、感謝の気持ちや幸せや、有り難さを人生に感じています。先はわかりませんが、過去から見るとこの変化はもうひたすら有り難いばかりです。そんな私は「人生は苦」ということを取り立てて伝えたいと思わない。(だって伝えても伝えなくても「ある」んだものね?)それよりも「人生には幸せもあるよ」と伝えたい。

 

マザーテレサの「戦争反対デモ」には参加しないが、「平和集会」には参加したいというあの考え方と同じなのかどうなのか?

 

ということを考えると、「人生は苦」と伝える方達は、HAPPYを感じていないのだろうか?と書きたくなった。(ひょっとして大変な、とんでもないことを書いてしまったのかもしれない。不愉快になった方がいたら申し訳ありません)

 

人生は苦だ

という言葉を使うと、まるでそれを言っているご本人がそれをわかっているような錯覚に陥るが、おそらくそれを言っているご本人も「苦」がドサッと頭上から落ちてきたら嫌だろうし、逃げようとするだろう。(ルドルフ・シュタイナー氏的には逃げるとまた厄介があるという事ですが。)他にも、「苦」がやってくると因果応報論(別名 引き寄せの法則)などが頭に浮かぶ方もいらっしゃるんじゃないだろうか? ということは、「人生は苦だ」ということを本当の本当には理解しておられなかったということにはならないだろうか?

しかし、その「教え」は伝えた方が良いと思っている。

 

あなたは、人間の行動として、どうしてこうなるんだと思いますか?

そして、私は、自分が書いていることは驚くほど的外れなのだろうか?と自問しています。

バランス

私は以前、刹那と感謝の同時進行と書いた。

大人になるって、手放しと受け入れだな~と考えていた時に、「刹那」と「自分の人生への感謝」という表現はどうだろうか?と考えついた。

「刹那」と「自分の人生に感謝する」の同時進行と言いますか。

あなたはいつ愛していると伝えたか? 伝えてもらったか?

 

一見、素晴らしい教えなども、教えの解説本の字面だけではなく、「良いものだ」という鵜呑みでもなく、「これが正しい」といつのまにか当然の前提になっている仕組みに気づくことも大切だなぁと思ったりします。

 

法則やルール、教えなども、「モリ―先生との火曜日」 ミッチ・アルボム著 の中の的確な表現を引用するのなら

大衆の阿片

にもなりかねない。

 

そして、以前も書いたが、法則やルールや教えなどを拡散(または出版、講演etc)したご本人が、命の火の消える前に「あれ(自分が発信していたもの)は間違っていた」とおっしゃった方を数名知っている。

大衆の阿片という言葉を使うと、「素晴らしいモノだよ」と言って広めていた側が、死を目の前にして「私が広めていたのは阿片でした」とおっしゃったようなイメージです。

※阿片もその良し悪しの判断がありますが、それも各自の価値観ですね。深いです。使い方次第という事も含め。

 

ひょっとしたら、広めていた側が「あ! これって知らないヒトの灯台じゃん」と気がつくようなこともあったのかもしれない。

 

命の火が消える時に、それまでそういったものを先導されていた皆さんの目には何が見えていたのか知ることはできないが、ご本人が「あれは違っていた」と前言を撤回しても、その「教え」は撤回されることがなく生き続けて、「ありがたいモノ」「素晴らしいモノ」として残っていく。

それが大衆の阿片ということになったりはしていないだろうか?

 

〇〇の法則。それが視野を狭くして、気付きを遅らせる。一度解き放たれては?

 

 

また、「モリ―先生との火曜日」 ミッチ・アルボム著 の中では、命の火が消える時に、それまでそういったものを先導されていた皆さんが「間違っていた」と視点が変わる理由が書かれていたので、興味のある方は、どうぞ実際に書籍を読んでみてください。

 

ルドルフ・シュタイナー氏的な表現なら、「自我意識」が自分とピタリとあわさる瞬間に、モリ―先生が感じる「この世界」が見えてくるような気がする。それは私が「バックヤード」と感じた領域も含んでいそうだ。

一考 ゾーンについて

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

そこには、天秤もあるような気がする

人智学という考え方ー6 天秤

 

モリ―先生の灯台

「モリ―先生との火曜日」 ミッチ・アルボム著 の中のモリー先生は、どうやら生命力が旺盛な時期も、命の火が消える前もブレずに同じことを伝えていらしたようだ。

おそらく、My灯台をお持ちだったのだろう。

人智学という考え方ー8 自分の灯台と他人の灯台

 

そういった方が生前、どんな価値観をお持ちだったのか?を知ることは、何かしらのあなたの灯台創りにお役に立つだろうか?

灯台は創らない。持たない。

では、灯台は創らない。持たない。という事は悪いことなのだろうか?

いや、多分違うと思う。

 

ドンブラコッコと現在地を知る由もなく流されていく人生。

 

私の中では、良いとか、悪いとか捉えずに、究極のギャンブラーだという認識にしておきたい。それも1つの生き方だ。

ピンボール人生

遥か昔、新聞の「OL人生相談」というコーナーで、

相談内容に続き、相談者さんの「私はコレで良いのでしょうか?」という問いかけがされていました。

回答文のあまりにファンキー(独創的、型破りの意)な回答が印象的過ぎて、今でもそのanswerを覚えている。

 

それは、

「あなたの人生は見事なピンボール人生です。ぶつかったところで、その時跳ね返された方向に進むという(行き当たりばったりな)その進み方でどうぞピンボール人生を全うしてください」

というものだった。

これが多分、今、究極のギャンブラーと書いている感性の発生源だ。

確かに人生とはこういうものだ。

 

私がファンキー(独創的、型破りの意)と感じたのは、新聞の相談コーナーでは、そんなに的を得ちゃいけない、オブラート・忖度付きでお願いします。というようなルールがあると思っていたからでしょうね。だからこそ(結構書いたね~)と非常に印象に残った。

 

ただ、同じ人生も、My灯台があるとちょっと違ってくるような気がするだけです。そのあたりを回答者は「見事な」という一文に込めていたのかもしれないですね。

 

あと、他人様の灯台を借りて過ごされている方とお話すると、私は「あぁ今度はこれがMyブームなんだな。」とか「これが今は好きなんだな」とわかりはするものの、ある程度の一貫性がないと、関係性も積みあがっていかない感じがします。私がその方のそれまでの発言や行動などを覚えていない性質ならなんにもストレスになりませんが、下手に覚えていると「全然違う! 毎回違う! 前のことを覚えてないの?」ということに私の脳が反応してしまうので厄介です。トランスしがちな方は、その時付き合っている方にとても染まっていかれますので、その方の付き合う方が変わると、私との付き合い方はまたゼロからスタートになる感じです。

 

他人様の変化に対して、関係性が積みあがっていくものと、いかないものが私にはあるようです。

 

今日のあとがき

連続シリーズのコラムで、ちょっと横道にそれました。

縄を編むかのように、異なる本の似ていると感じる箇所について合わせてみました。

 

この調子じゃ、年内に全部書ききれないかもしれませんが、出来ることはやっていきますね。

 

Life is beautiful。

もうすぐ新年です。その前にHAPPY Holidayですね。皆様、楽しくお過ごしくださいね。(^^)

 

(2020/12/23)

 

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