ONの中のON ONの中のOFF

笑った。

このタイトルでコラムを書こうとして下書きに入ったのは、なんと2018年の今頃だった。

当時書こうとしていたトピックがあったはずだけど、その時とは違う流れでついに陽の目を浴びる日が来た。

 

新しい流れを起こしたのはほぼ毎日更新しているブログの記事です。

私個人的には、今まではストレスケアを続けていたら、どんなに深い課題、問題となっている核にもいつかは辿り着くという考え方に同意していた。

ただ、黙々と体のストレスケアをしていたら、心の課題に影響を与え、いつかケアされる。

しかし、この「いつか」は、ストレスケアの取り組み方によって1年かもしれないし、5年かもしれないし、10年かもしれないし、100年かもしれない。1000年だとしたら数回生き返ってもまだ不足するが。

 

ですから、深い問題に対して、ストレスケアによってある程度生きづらさを解消させるにはそのための計画や段取り、戦略があると良いと考えています。

気にせずにいられるようになるには、100年、200年かかるかもしれない。けれど、ストレスケアの行い方をオーダーメイドで計画して、集中したら、その期間・時間が短縮できることもある。大いにあるし、私には有った。

 

それは、心療内科や精神科にかかることも同じです。苦しい、生きづらいから なんとかしたくて病院へ行きますでしょ?

こういった行動もストレスケアへの行動に含まれます。

 

という前提で話を進めていきます。

ONの中のON ONの中のOFF

計画性を持つ

書き進める前に、以前のコラムをご紹介します。

自分自身と調和している場合と、不調和が起きている場合。ONとOFF。

 

ONにも質があると思っています。OFFも同様。

言い換えると「深さ」です。

影響を及ぼす範囲ということでも良いです。

 

冒頭の考え方をもう一度整理すると、浅いON、影響の小さなON、だとしても積み重ねていけば核心に到達する。そのための積み重ねの年月が100年かもしれない、200年という課題などもあるかもしれない。

その時間を少しでも短くしたい時、的を得たい時に、ONの質や影響の範囲、深さを考えていくことに注目していきたいと私は考えています。それがオーダーメイドという事です。

その際、私一人が注目していくのではなく、相談者ご本人がご自分のために考えることや、実際にこれまでと異なる選択が必要なら選ぶこと、決める事、行う事、そのために今一度自分を感じる事、自分に注目することも大切なんですよね。

 

回復までの時間を短くするかどうかも決められます。

改善点に注目するかどうかもご自分で選びます。

途中でやめる事も出来る。

続けることもできる。

 

ONの質が変わる「きっかけ」

そんなあなたに、ストレスケアをやってもやってもなんだか変わらない。と感じる日が来たらどうしましょうか?

 

多分、そこが、ターボをかける時期。

フワッと から マジ・本気 への転換期。

人生初の本気モードを発揮するチャンス到来なのかもしれません。

 

ストレスケアのために、こういった自分の態度や意識が大切な案件・課題ってあるんだろうな。と私自身の体験から考えています。

それまでも決して手を抜いていたつもりもなかったし、真面目にやってきたけれど、そう言う意識とは深さと次元が違うと実感する気づき方や案件・課題がある。

それを「呪縛級」と表現しました。

自我とは

ネットで改めて自我を検索しました。

  自己。自分。

  • 哲学
    天地一切のものに対する自分。エゴ。
  • 心理
    自分自身に対する、各個人の意識・観念。

そうなんですよね。

自我という言葉を、どんな意味で使っているのか?で文章の理解が変わってきます。

 

自我は多次元性の立体の如く

自我は多次元性の立体のようでもある。なんて言いきって書くとカッコいいですね。(笑)

でも、確かにそうなんだという感覚が私には有ります。

(立体という物体には輪郭があります。自我には輪郭はないですが、境界という考え方はありますね)

 

ですから、呪縛級の案件だとしたら、その影響している範囲や深さが未知数で、それなりに広範囲だという意識は持っていた方が焦らなくて済む。

 

早く変わらなきゃ。と焦っても、まだ全体が見えていないのだから意味がないし、その焦りが新しいストレスを生む。

数年かけて重荷が降ろせたらラッキー♪ くらいで丁度いい。

昔の私は、死ぬ瞬間までに重荷を下ろせたらいいな~と考えていました。

 

だって、結果的に、今まで ずーーーーーーっとそれを大切に内包してきちゃったわけだし、下手したら促進しちゃってきたのだから、一朝一夕というわけにはいかないと思っていた方が自分が楽だ。

 

でも大丈夫。

 

的を得ようとしなくても、「しない方が良い事」をやめるだけでも私達人間って変わっていきますよ。

ただ、厄介なのは、この「しない方が良い事」「やらない」に気がつきにくい。

その上、やめにくい。

冒頭でご紹介したブログの内容を読んで、友人がFacebookのウォールに

「統合失調症が完解した方が大勢で瞑想してエラいことになったと言っていました。」とコメントをくれました。

 

全世界で瞑想ブームだとしても、その方の状態や脳のタイプによっては、やらない方が良い。ということもありますね。

(そのやり方によるということもあるでしょうが)

 

友人の書き込み以外に、私個人的には元々「特に何も症状が無かった方が、なんだか どんどん厄介な事になっていく」と感じていたのはヨガでした。

数年前からこれまで、この私が感じた疑問を話した数名の知人友人の中にも「そう言えば私の知ってる方もヨガを始めてから地に足がつかなくなったように見える」という証言?を複数名に貰っていたので、私の半径5メートル以外の場所でも(なんだか厄介な事に・・・)ということになられていた方はいたようです。

そして今回、それはおそらくヨガではなくて、瞑想の方なんだな。と思い当たりました。

 

そう、思い返しても、「ヨガ」というワードに「瞑想」が含まれていたのですが、「瞑想」というキーワードに絞ると、MYデータの症例数がアップします。

全員ではありません。がしかし、どんどん解離が進んでいく方がいらっしゃって、その様がこれまた(パターンでもあるの?)という型に割と見事にはまってる。

 

統合がバラける。融合がバラける。

 

そんな感じを拝見していると、(何のために瞑想しているんだろう?)と度々疑問が湧いた。良い悪いではなく、ご本人が求めているナニカなのだろうけれど、一体何を求めて、目的として行っているんだろう?と。

無関心?

ストレスケア(瞑想他多種多様のセルフケアを含む)をしていると自分に関心をもっているかのように感じるが、その関心の度合いも様々で、ほんとのところ、ストレスケアをしている自分は好きだが、その実 自分自身には関心が無い。なんてことも考えたことがある。

 

ストレスケアをしているからと言って、繰り返すパターンから抜け出ているわけじゃなかったりするのは、

ケアをしている。ということで満足していて

私自身(ご本人)に関心があるわけじゃない。ということだってある。

 

 

何度か観た映画を再び観ていたら

俺はもう無関心が美徳であるような世の中にはうんざりだ
俺にも十分分かる 無関心が一番の解決だ。
人生に立ち向かうより麻薬に溺れる方がラクだ
稼ぐより盗む方がラクだ
子も育てるより殴る方がたやすい
愛は努力が要る ー映画「セブン」より引用

という日本語訳が現れた。

 

そう、呪縛級の案件に取り組むより、無関心でいた方がラクだ。

愛は努力が要る。自分を愛するにも努力がいるんだな、と思った。

 

愛は努力が要る。という言葉を考えてみた

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

この長いコラムの最後に

Love yourself

Love myself

無くしてしまった自分を愛せますか? 消してしまった自分を愛したいですか?

と書いたが、自分を愛するには努力が要るようだ。

 

その努力、愛する努力を諦めた時に、無関心が急速に幅を利かせるのだろう。映画のネバーエンディングストーリー的にはそれを「虚無」と呼んでいるのかもしれない。

 

そして、思った事は

わかったつもりになるのは簡単だ。しかし、わかっただけではまだ何の行動も起こしていない。

気づくことは大切ですが、気づきの深さによっては、表層を薄っすらと撫でているに過ぎないことがあって、出来ればもう少し本腰を入れてもらうと良いんだろうなと思うケースもある。

自分に関心を持つということと、自分のために努力をすること(努力という言葉が嫌いでしたら、行動と変えて読んで下さい)は両方行うと良いし、深い意味で自分に関心を持たない限りは、それは無関心の領域の方が近いのかもしれない。

 

とまぁ こんなことが頭によぎりました。

 

愛する。ということも、ナニカや誰かを愛するようなチャンスがないとわからない。

頭で考えている愛と、心体で感じる愛は違う。

そういった縁やチャンスがないと、無関心とはどういったことかも体感として分かりづらい。

愛した時に初めて、「あぁ今まで自分は誰のことも愛したことが無かったんだな」と分かる。誰のことも愛したことが無いと気がついた時に、自分すらも愛していなかったと気がつくことがある。

 

これらは、恋愛依存体質のケースの「体感」や「偶像」とも全く違う。

 

呪縛も愛も、それに気づいたり触れたりするチャンスが無いと、「本気」なんてものは発動しないのかもしれないが、そんな極端な場所へ出向かずとも、その今のあなたの誠実な気持ちで自分に関心を持とう。

自分を思いやろう。労わろう。という気持ちと行動で、ONの質を上げていき、影響を深め、人生に対する認知を少しずつ変えていくのはどうだろうか?

 

やめる。ということに気がつかないことが呪縛

私自身が同じ愚痴を言う自分がイヤ。という認識があるので、愚痴は言うが、何度も言いそうになると愚痴の対象から意識を引きはがしてきた。

それに、私自身も愚痴を言った時に嫌な顔をされた経験があり、経験から「愚痴をストップする」「程度問題」という行動を学んだ。

 

ストレスケアの今のような合理的な方法を知るまでは、精神力や心持ちで対象から引きはがしてきた。もちろん身体はそのストレスを抱えたままであっても、「やめたい。」「言いつづける自分にうんざり。」という気持ちが湧いてきていた。

忘れていないし、相変わらずモヤモヤしていても、時には怒っていても、とりあえず愚痴を言う、考えている自分が新たなるストレスになるから。

 

しかし、こういった愚痴でさえ、やめることがかなり難しいタイプの脳もあり、「やめて」と直接伝えても伝わらない、やめられない脳もある。

やめたいけれどやめられないんじゃなくて、そもそも「やめる」ということにも気がつかなくたって不思議じゃない。

 

誰にも何も言われない。気づくチャンスがない。

やめて!と言われることにうんざりしなければ、尚更かもしれない。

 

そして、呪縛級の案件となると、日頃は自分にフィットし過ぎて気がつかない(気がつけない)。どうやら割と強烈な体験とともに気がつくようなので、そのような機会が訪れた方が良いのか、悪いのかは書きようがありません。

ただ、訪れてしまった(?)その時に真剣に向き合い、全力を尽くすと、バリッと枠が破れて、能力もグンと上がるし、人間そのもののナニかのチカラは強くなる。

 

本当の体験か、創り上げたい体験かの見分けがつくようになったりします。

 

また、自信もつくし、自己肯定感も上がって、なんだか底上げされる気がします。それは、特殊能力が目覚めたわけじゃなくて、真剣に取り組んだ自分への信頼感が増すからじゃないか感じています。

 

ですからこの記事に書いたような

生きづらさを生むプライドの栄養源となっている
・バレたら困る
・隠しておきたい
・黒歴史
・恥部
・なにかしらのイメージを死守したい

 

こういったことも、きっちりストレスケアして、カタをつけておいた方が良いのだろうとも思っています。

 

きっちりストレスケアを完了させるためには、それらが人生にあったことを認める事も大切ですし、自分を許すことも大切。

「自分を許すことが先決だ」

許す? 許せない? 許さない?

 

逃げてばかりだと、自分への信頼感が育たなくて、代わりに大きく育っていくのはエゴだったりする。

いや、エゴが育ったって自分がそれで良いならいいんだけど、大抵は厄介さは複雑になってくることが多いし、どうしてここへ?というところへ流れついちゃったりする。

雑念は増え、一層 フワッ としてくる。

 

世間で良いと言われているものを素直に取り入れるのが素直なの?

「神様は素直な人が好き」という有名な言葉があるが、

おそらく、「そうしていると、晴れ晴れとしているので厄介なことが少ないですよ」というような意味なのかもしれないなぁ と今思いついた。

 

そして、世間で良いと言われているものをそのまま取り入れることが素直なのか?という次なる「? クエスチョン」が湧くわけだけど、取り入れるにしても、自分を置き去りにしていない方が良さそうだ。

 

自分を置き去りにしていたり、無関心だったりすると、こういった時にも自己の土台が整いにくくなる。ONの元になるONとでも表現してみようか。

土台とは、テクニックやスキルを利用して ちゃっちゃっと創るものでもないだろう。

伝わらない、伝えられないジレンマ。のち、それで良いという想いふたたび

 

 

複雑な人生や、刺激に満ち溢れた人生を好むと、そういう意味の素直さとは違ってくるだろうし、気がつく事など望んでいないし、気がつくような行動を選ばないし、本当の意味で癒されちゃったらマズイわけです。

 

呪縛からも解き放たれたくない。ということになる。

 

良くなるために行っていることのつもりが、呪縛からも解き放たれないため、どころか、一層からめとられる為にというような事になっちゃうのはナゼ?

 

自己矛盾と心理的逆転ということは、根が深いと言いたくなるのはこんな時だ。

 

霊力や超能力を欲しがるのを一旦やめた方が良いケースもあるだろうが、欲しいものは欲しいのだ。それが欲望だもの。

 

やめるって難しいのよね。

アルコール依存症、薬物依存、タバコは分かりやすいけれど、依存症(アディクション)・嗜癖はもっともっとある。

 

こういった理由で、前頭葉皮質(理性)という場所をちゃんと経由してケアするということがとっても大切なステップだったりする。と私は考えています。

そういった認知について確認(ジャッジではなく)をするような対話って大切です。

 

好き=依存 ではないが、呪縛級の案件については、こういった依存症(アディクション)・嗜癖ということも絡み合っていることが多いと感じる。

 

また、トンデモ発言と書いた体内電位というか、素粒子というか、(私は日頃は使わない言葉だが)波動というか、好む磁場というか、解離するのが好きな方はそういったものが進行する行動・出来事を好むし(嗜癖)、好むというか・・・魅了されやすい、惹かれていく。

統合したくないのか、融合したくないのか(あ!これは 自己のことね。多分、不思議や フワッと とは統合したい、融合したい)、それが呪縛級の案件たるゆえんなのか。

ONの中のOFF

 

バランス調整をしてONになる。

しかし、そのONという状態が一瞬ならば、そのONの根っこはOFF?

ならば、

  • なぜ持続しないのか?
  • 持続するにはどうしたら良いのか?

を考える時期が来るだろうし、その時には、ひょっとしたら良いと思って行っていたことを「止める・STOPする」ということが必要な時が来るかもしれず、それは認知の修正ということであろうし、

自己理解の次なる段階とも言えるし

自分に関心を持つという意味が変わる瞬間だろうとも思います。

 

あらやだ、私ったら自分のことを誤解していたわ。という感じ。

ごめんなさいね、勘違いしてて。という事になる。

 

私の場合は、(良いと思ってたのよ。違っていたみたいね。)ということが多い。

 

こうなってくると、呪縛の縄はちょっとずつ緩んでくるみたい。

チャンス到来の時だ。

 

確かに真剣さや本気さが大切な時もありますが、日頃良いパフォーマンスでいるにはリラックスしていることも大切です。

私は、いきなり本気モードや、いつでも本気モードじゃなくて良いと思っていて、やってるうちに本気モードが入ってくるかもしれないね。というリラックス感からスタートしたら良いのではないでしょうか?

まずちょっとやってみてから考えてみても良いと思う。

 

最後に

これだけ書いてきて、今までも長々と書いてきて最後に ソレ? という事になるんだけど、

素粒子、電位、波動、嗜癖に良し悪しということは本来はなく、ただ「有る」し「在る」。

私のコラムはあくまでも「そういった状態から変わりたい場合は」とか「自分に合った方法はあるだろうか?と模索している方へ」という内容でしかありません。

 

「教え」でも無ければ、世の中に知らしめたい法則でもない。

ただ、内容のどこかや、ナニカが、少しでもあなたに寄り添う事ができたとしたら嬉しいです。

 

これを読んで、もし自信を無くすようなことがあれば、内容を忘れて、笑って一日を過ごしてください。

(2020/06/24)

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