多次元と素粒子とミラーニューロン その他もろもろ みな一緒
体験や感覚の臨界点を超えると次なる体ごとでの理解につながる。
そんな法則があるのかもしれない。
私は知識や情報は後で良い。全然かまわない。
事例によっては、知識や情報は後が良い方が良い。
先入観がない方が純粋な感覚を感じる事ができる場合もある。
ケースバイケースです。
好みもある。
気のせいかもしれないし。
Contents
今日のタイトルの伏線のようなブログです
未来の記憶はあるという事になったんだけどね
見出しでネタバラシしたところで特に損もしないのでご興味がありましたら読んでみてください。
今日の本題。多次元と素粒子とミラーニューロン
タイトルにも書いたように、
多次元と素粒子とミラーニューロンということが結局同じだという事になった。
ここには、精神や心理、哲学、遺伝子、思想、秘伝法則(今まで公にならなかったと付加価値をつけている思想・哲学も含む)も結局同じということになったいきさつも書きたいが(そんなことができる私の筆力があるのか?)
今日は「多次元と素粒子とミラーニューロン」ということでたいして長くもないこの先の文章を進める。
だから、手を替え品を替え説明されたり、
初耳の論法や学者さんの話や耳新しい言葉などを
あぁ! なるほど! とか
これは新しい考え方だ! とか
これは今まで秘密にされていたとか、世の中の一部の人しか知らない秘儀だから。と思う事は
実は本当には分かっていなかったことの証拠のような事になるのかもしれない。
実際私もそうなんだとわかりました(^^)
こんな「それを言っちゃあ終いよ」的なことが見えちゃったような気がしている。
これは気のせいだろうか?
そして、こんなことを書いている私も、「それをやっちゃあ お終いよ。」ということになるような気もしているが、全然終わりでもなんでもなく、ずっと見ていたものにピントが合っただけのような気もしてきた。このピントの合わせ方をおそらく「覚醒」して手に入れたいと熱望するのかもしれない。
そして、覚醒したいと願ってやまない方の神経を逆なですることを承知のうえで書くと、「このピントの合わせ方が、覚醒したら手に入る」と考えていること自体がそもそもピントが合っていないんだと思えてきた。
私の感性にはあまり響いてこないこの手の「真理」「真実を知りたい」ということは、こういったことを体験したい、確信したいということなのかな?
それとも、特殊能力を使いこなしたいということなのだろうか?
この辺(一体何を求めているのか?)は実際にそういった方とお話してみないと分からないけれど、自分でも何を求めているのかわからない方も多いような気がする。求めているというよりも、ちょっと興味がある。不思議なことが知りたい欲求にもっともらしい理屈をつけているだけかもしれない。こんなことも誰にでもあるし、自覚している方が珍しいと思う。
私もこの分野以外なら、もっともらしい理屈をつけることが得意だ。(笑)
覚醒したいなら先ずはこっちだろうと思えてしょうがない
こんな生意気なことを書いている私が今私が思う事は、「ストレスケアをしよう!」「ストレスケアが良いね!」 ということです。
私が見えちゃったようなものが本当でも気のせいでも、今まで通り「ストレスケアをしよう!」「ストレスケアが良いね!」 というままでした。
付属品などいらない。思想も特になくても良い。科学も知らなくても良い。覚醒欲も要らない。修行もいらない。
ストレスケアを続けていたら分かる時がくる。
前知識などなくても、分かる時がくる。
誰かの何らかのレールに乗っていなくても、分かる時がくる。
何が「分かる時がくる。」のか?
知識はあっても、分かっていない。
こんなことは当たり前のことだし、何一つ恥ずかしいことでもない。
分かるとはどういうことか? という感覚的なことは、実は難易度が高かったりする。
そういう感覚的なことが捉えにくい脳のタイプもあるだろうし、
理論武装ということなどは、無意識にここをカバーしようとしている行為のときもありそうだ。
その点私など楽勝だ。
誰も私に理論を求めていないし、
私も武装できるほどのナニモ持ち合わせていないという割と正当な自覚がある。(笑)
だから、先述したような
多次元と素粒子とミラーニューロンということが結局同じだという事になった。
ここには、精神や心理、哲学、遺伝子、思想、秘伝法則(今まで公にならなかったと付加価値をつけている思想・哲学も含む)も結局同じということになったいきさつも書きたいが(そんなことができる私の筆力があるのか?)
というような文章を書いても、
だから、手を替え品を替え説明されたり、
初耳の論法や学者さんの話や耳新しい言葉などを
あぁ! なるほど! とか
これは新しい考え方だ! とか
これは今まで秘密にされていたとか、世の中の一部の人しか知らない秘儀だから。と思う事は
実は本当には分かっていなかったことの証拠のような事になるのかもしれない。
というような事を書いても
(またとんでもない持論書いてんな~)と思われるだけだろうし
(そんなのずっと前から知ってるよ)と思われる程度のことだ。
ただ、私自身の特徴としては、体験から理解するということは得意なんだと思う。
事例のエッセンスを分解することも好きだ。
情報や知識がない分、
体験や体感ということにレールを引いていないため
そういう意味ではキャパシティーは広いのかもしれない。
レールを引かないということは、知識や情報に照らし合わせてその先を想定したり微調整しないということでもあるようで、
あるがままを観る。という習性なのかもしれない。
似た脳のタイプの方とお話する機会がありますが、その方はバイアスがかかりにくい上に、知識や情報があってもそれはそれとして混ぜていないようだし、腑に落ちるまでは保留の棚の案件として扱い続けるというルールが守られているようです。
私がしょっちゅうやっているのは
あるがままを観て、
ナニコレ?
と思ったり
う~む、なるほど。
と思っている。(笑)
良いとか悪いとかではなくて、知らなくたって体験したらわかる。
順番が違うだけ。
子どもの成長と非常に似ているのかもしれない。
何が分かる時がくるのか?
何が分かる時が来るのか? という質問には
分かっているつもりでもわかっていなかった ということがわかる時がくると答えるしかないけれど、「わかる」に幾層もあるので、私は最終地点などハナから目指していない。最終地点があるという想定をしていない。だから身の回りのことをよく見ていたら良いし、自分におきることを味わっていたらいいと思っている。
遠くのものも身の回りの相似形だから。
今起きていることが理解出来たら、その良さにプラスアルファが加わるんだろうとは思うが、なにぶん私も道半ばなため、この先もっと強烈にわかりやすい表現ができるようになるのかもしれない。
多分、「知っている」んじゃなくて、「わかっている」という人には共通した行動様式があり、その逆もある。
そういったものがお人柄と言動ということに反映されているんだろう。
今後について
今の時点で、なるほど! と捉えているつもりのこれらを、なるほど! で終わらせておけば良いと思った。
その内、私が「見えちゃったもの」が見えた通りならば、そのままこの感覚を人様に渡すことができるのではないだろうか?という疑問が湧いた。
湧いたけれどどうするのかは当面考える。
これこそが大切な一線の1つだと思うから。
わかったと思った皆さんの多くの場合、ここで純度を失っていっているようにお見受けする。一線というものを私は大切に考えている。
これを実際に分かりやすい言葉で表現した方がいて、その方の口からこの言葉を聞いた時に(そうか 私が一線と感じる目には見えない境目のその先をこの方はこう表現されたわけか)と感銘を受けた。その言葉は「魔境」という言葉だった。
どうやらユング心理学では「魂のインフレーション」という表現もあるようだ。勉強になりますね。
無意識に書いていたが、先述した
それとも、特殊能力を使いこなしたいということなのだろうか?
ということが
私の脳裏にもよぎった
その内、私が「見えちゃったもの」が見えた通りならば、そのままこの感覚を人様に渡すことができるのではないだろうか?という疑問が湧いた。
ということならば、
湧いたけれどどうするのかは当面考える。
これこそが大切な一線の1つだと思うから。
を検討することが無ければ(大切な一線と感じていなければ) ヒャッホー と突き進むでしょうね。私は覇者だ、ついにチカラを手に入れた。真理を操れる。と思うであろうし、なにかしらの誘惑が強いんだと思う。
成功欲とか、名誉欲とか、そんなことも考えられるし、承認欲求とも言えるし、他人をコントロールしたい欲も含んでいるだろう。別の良い方をすると、空虚感であるのかもしれないし、満たされていないということはあると思う。満たされていないという受け身の表現じゃないなら、満ちていないという言い方でも良い。
これではまるで「振出しに戻っている」ことに気がついた方が良いが、気がつけないのが人間なのだろうし、その場合もやっぱりストレスケアをした方が良いとも思う。
魔境・・・そりゃ 純度を失っていく感じがするわけだ。
わかった! と思った時は、その先にまだまだあるよ。と思っていた方が良いのかもしれません。特にこのような案件では。
また、私に魔境という言葉を示唆してくれた方は、どうやら知人が魔境に入った(と、その方が感じたのですが)ことに苛立ちを感じているようだった。おそらくその方を理想化していたんでしょうね。魔境に入ったその精神性も怒ってもいた。
その時私は聞かれもしないのに、いつも言う事を伝えた。
「誰にでもそんな時期がある。(魔境から)帰ってきたら『お帰り』と迎えたら良いだけじゃないですか?」というものだ。余計な事だったかもしれないが、もう口から出ちゃった。
それを失敗とレッテルを貼らなくても、「経験したいことを経験中」と捉えることもできるし、許したくない、認めたくない、理想化を押し付けているのなら、そう感じる方もストレスケアをした方が良い。
こういうアレコレを何パターンも実際にお見受けしたからこそ、年を追うごとに私は愚直にストレスケアをやっていこうと思ってきたんですが、結果それが良かったんだと自分の選択に祝杯をあげたくなりました。
この最後の辺りの内容など書く予定に無かったのに、書いて一番良かったのは私自身で、自分の歩いてきた道と、分かれ道の選択についておさらいできた。
ですから、私が引き続きお伝えすることは1つ。
ストレスケアは良いよ! 自分に良いよ! ということは、ひいては周りにも良いよ! ということは遠く離れたところへも良さが影響していくようですよ!
ですから私は、ずっとこれ一択。
ストレスケア(^^)
今まで通りってことだね!
ストレスケアの積み重ねが人生を生き易くすると思っていますし、笑い声のある生活に繋がると思っています。
個人セッションを受けてみてください。
セルフケアも身につけるともっと楽です。
その先に結構イイコトありますよ(^^)
(2020/04/12)