気合と精神力、素直さではカバーしきれない、あなたが気がつけない脳のクセ
この記事はプチシリーズの3話目です。
コラム1 目と脳と身体と思考の調和・統合
コラム2 自分の人生を生きている感じがしない。虚無感、空虚であることの理由。
誰にも催促されていないのに、本業が執筆業の売れっ子作家さんが締め切りに追われているかのように一生懸命書いています。
いつもより余程早いペースで書いてみてわかったことは、脳がそれなりに疲労するという事でした。
今日も前回に引き続き参考図書はこちらです。
Contents
今までのコラムとの関連性
前の2つの記事にも、関連記事の紹介を差し込んできましたが、まだまだあるんです。
だからこそ、今回ご紹介している書籍が私の知りたかったことのチェックメイトになり、以前「この本を読んでいます」とご紹介した本が一種の「すごろくのあがり」のような達成感を感じさせてくれました。これで終るわけでは無いのですが、今までの体験と知識の関わりが明確になって、ある一定のところまで理解が進んだな~という独特の感覚があります。
まだご紹介していない関連コラム一覧を解説付きでご紹介していきます。
自己と他者の境界が曖昧、共感ではなく共振し過ぎるというタイプ
自己と主観性には、正中線領域が関与しているという書籍の内容については既に紹介していますが、
こちらに登場した「共振」ということは正中線領域の大脳皮質正中内側部構造(CMS)の働きのバランスがよろしくない。
過度のCMSの機能的結合性により、高ければ高いほど妄想や幻覚の症状が強くなるそうです。
低ければ良いわけでもないので、程良さが重視されると私は理解しました。
コロコロと人格が変わる。影響を受けやすく「自己」が安定していない。自分の存在という感覚が薄い。
あまりに気分が変わりやすい方も解離している可能性があるでしょうね。
書籍の中では、アンドリューという数学の才能をもった青年が天(神?)の啓示を受けたと感じた後、一種の崩壊とも思える出来事が起きた例が書いてあります。
理想化している人物・チカラがあると思う人物に同化する傾向を併せ持っていることも珍しくありません。
自分はキリストの生まれ変わりだと思う方、自分は天皇家の直系や高貴な血筋だと思う方、日本には少ないでしょうが皇帝だと思う方もいますし、このような超メジャーな存在じゃなくても、好きになった人のマネをしているという客観性がなく、能力や好ましいと感じているエッセンスと全く同じになったと信じ込んでいる場合も、薄いグレーとは言いにくいケースがあります。
統合失調症の事例として書かれていましたが、今回のこの先で、統合失調症と発達障害の考え方について図を載せていますので、後程参考にしてください。
彼らはしばしば有名人のアイデンティティを装う事で自らの自己を他者の自己として経験する。ー脳はいかに意識をつくるのか より引用
ということは、かなり特徴的な事例は統合失調症の範囲かもしれませんが、軽度の事例でしたら診察も治療もうけないだろうし、私個人の感じ方ですが、こういった習性をお持ちの当事者はこれらの行為を楽しんでいるし、得意に思っているようにお見受けします。だから、どんどん頻度が上がっていくし、楽しいからやめたくないだろうし。
軽度の事例ではなくても。環境が受容し、溶け込み、支障なく生活していたらそれで良いのですね。という視点が私に加わったところが以前との違いです。
それが芸術に転換されるときもあります。役者さんの言う「降りてくる」ということや、絵を描く方、文章を書く方の「降りてくる」のも関連があるのかもしれない。
このグレーというのは、この書籍の言葉を使用すると「脳の異常」の重度から軽度までの範囲を表しています。
誰にでもこういった特徴はあるので、異常が無い人がいない。→それがあるのが普通。という考え方も出来ます。しかし、程度問題ということはあるのでしょうね。
昔から「高貴な血筋」をアピールして詐欺が行われる事例が多いですが、詐欺を働く方も、なりきっているうちにそれを信じ込んでいく場合もあるようです。
自己と哲学的人格的同一性などは確かに見当たらないように感じる。そもそもその「高貴な血筋」詐欺をスタートした時点でそうだったとも言えるし、脳のクセがあるのがデフォルトとはいえ、濃いグレーだと言いたくなる。
誤解のないように書きますが、自己との不一致がひっそりと起きている、他者への強い働きかけがなく重度の解離をされているケースもあるし、他者に危害はないけれど自分の安全の範囲をでる症状の方もいらっしゃる。表面は静かだけれど他者に危害を与える衝動が起こる方もいる。
昔から度々ニュースになるような、特別性(私は神様、高貴、皇帝、有名人の家族・恋人)を信じさせる詐欺行為ではないか?と問われるような例は、それに周りも乗っかってしまうわけです。本来乗っかるヒトがいなければ事件性は成立しないけれど、そこには関係者同士の受容と供給が成立していた時期もあったのでしょう。簡単に判断できないからこそ裁判では「故意か否か」という点を時間をかけて検討されていくのだと思います。
このような図を添えるとわかりやすいでしょうか? 前回コラムのバレリーナさんの発言のところに今から挿入したいくらいですが。以前から書いているように、大多数を占める脳のタイプが時代と共に変遷しているのでしょうね。
この図は上の項目の「共振」にも適応する図だと思っています。
発達障害のブルーの解説は、今はもう昔と違うのではなくて、昔からの特徴に加えて、発達障害と言われる脳のタイプに空間認識の特徴があるということが近年わかってきたということです。 その下の?のついた文字は、私が(ということは時間もだよね?)とノートにメモした文字です。
(ぼやけた線のままじゃなくて、クッキリと描かんかい。というお茶の間?の声が聞こえてきそうです。笑)
自分の哲学を持つ。と書くのは簡単ですが、これが高いハードルと感じる脳のタイプがあるという理解も進みました。年齢・職業・立場関係なく決して少なくないことも。
薄いグレーなどは、私達の周りに当たり前にあると思っているし、私もそこに居るという自覚があります。そもそもこのような事に興味を持ち、コラムを書く時点である種の特異性があるだろうから。
考える幅が狭い。情報・言われたことを鵜呑みにしやすい。立派な人の言う事はすべて正しいと思う。
立派な人は間違った事を言わない。と思うのも「0(ゼロ)100(ヒャク)思想」の1つの状態だと思えます。
中間がないという事は、おそらく自分で考えるという割合が低いのだと思う。
自分で考えない傾向の脳は、答えは他人がくれるものだと思っているようにお見受けすることが多いです。日本の学校内での学習スタイルには向いていると思います。
考えるという言葉も書くのは簡単です。その中には無数のエッセンスが含まれている。そういえば、これって人生と同じですね。(^^)
個人個人がどういった行為を「考える」と捉えているのかにもよる。
厳しい基準の「考える」という行為があったとしたら、一体世界中で何名がそこに属しているだろうか?
脳を全体的に使うのではなく、特定の脳領域内で局地的にのみ情報が処理される場合は、その情報は意識には結びつかないー脳はいかに意識をつくるのか より引用
↑このような一文を読むと、あらまぁ と思いました。じゃあ、教えて教えて!と考えずに教えてもらう事だけを行うタイプの脳は局地的にのみ情報を処理されていると考えても良いのかしら? ということは、いつまでたっても意識には結びつかないのかしら? ってね。
ほんとうに、「あらまぁ」である。
ちなみに、脳内の他のすべての領域やネットワークに結合していなければならないそうで、「前頭前野」と「頭頂葉」にネットワーク結合の鍵があるとのことでした。
ここまで書いてきて、
脳内の他のすべての領域やネットワークに結合するってこんな感じじゃないの?という体感覚らしきものが私にはあります。(と、言いきるのは怖いですが、自分なりに なるほど あの感覚はそうかな? と思い当たるので書きました。)
誰にでも脳はあるのに、それが「深く考える」という行為に結びつかないのはどうしてだろう?と改めて考えてみたら、
それはひょっとして、
1つ目の推測 「多次元はあっても、次元同士が連結してない」という事なのかな。と思えた。
先述の
脳を全体的に使うのではなく、特定の脳領域内で局地的にのみ情報が処理される場合は、その情報は意識には結びつかないー脳はいかに意識をつくるのか より引用
という説を用いるのなら、紹介コラム先の4次元ルービックキューブの中の、脳内のルービックキューブ同士も情報がやり取りされていると思えるんですよね。
そのルービックキューブ同士のやり取りが無い。
その大きな原因は「空間」「時間」を捉える身体性能力の有無かもしれない。ちなみに脳内には多くの時間の尺度があるそうです。(そりゃそうだ)
2つ目の推測 「多次元はあっても、元からの脳の機能。クセ、後発的な脳機能障害も関係しているのかもしれない。」という事なのかな。とも思えた。
元からの脳の機能、クセ、後発的な脳機能障害も関係しているのかもしれない。
脳内は多次元であっても、それを連結させるそもそもの機能の問題。
先天性、後天性どちらも考えられる。
先天性という範囲で、遺伝的要素ということが非常に気になってきた。(というのも、冒頭に紹介した書籍の中でも遺伝子について触れられていた)
3つ目の推測 「多次元はあっても、現在メンタル不全中」という事なのかな。と思えた。
うつ、抑うつ、〇〇障害により、視覚も聴覚も、五感も変化します。
考えられない。ってメンタル不全の時にも起こります。
身体の色々な機能がフリーズします。時間をかけて回復する心のゆとりを持って貰えると嬉しいです。
参考コラム
ここにもなんだか違和感があったけれど、どこに引っかかっているのかようやくわかった
話の流れが良いので、もっと別の機会に書こうとしていたことをちょっと書きます。
長くなりそうなら続編を書くつもりで、まずは書き始めてみます。
簡単にバランス調整して、あとから考えればいい。という説があるんです。
簡単なバランスで感情を鎮めて、冷静になってから考える。という意味がこの言葉の意味です。
だから、先ずは簡単なバランス調整として「〇〇しておけばいい」し、OFFをONにした後「考える」というロジック。
自分が何が引っかかっているのかわからないから、誰にもこのロジックに対する違和感を話したことはありません。
(なんかスッキリしないんだよな~)と薄っすらと抵抗を感じるのですが、意識上に上げられなかった。
以前に書いたコラムはこちら。
このコラムを書いた時は、今から書くことには至ってなかった。その先にまだ熟成期間が必要でしたが、読み返すと、ちらほらと予感はあったような内容になっていました。
そうなんです。私は自分の体の「おや?」という反応の理由を言語化する・意識上に上がるまでちょっと時間がかかるんですよね。感情的な反応をしても、ちょっと時間がかかる。これが私の自覚している「遅さ」です。これも1つの私の脳内に存在する時間です。(高速で働く類のこともありますから、それはその案件についての私のまた別の時間でしょうし、誰しも同じく、様々な時間が脳内で稼働しています。)
探求心はこれで終るわけでは無いのですが、今までの体験と知識の関わりが明確になって、ある一定のところまで理解が進んだな~という独特の感覚と共に、ついに意識でその抵抗感が捉えられました。
それは、こちら
図解って便利ですね。文章で書いたら随分長くなるものが、これで表現できますものね。
あくまで個人的な意見ですが、考える習慣かない場合、いくら感情をバランス調整しても、考えられないんじゃないかと思う。
考えるとは何か?という定義にもよりますけれどね。
考える習慣が無い場合、感情をバランス調整して、できるようになることと言うのは、
というような事がメインじゃないかと思うようになりました。
他人の意見というのは、誰かのブログや投稿や書籍、会話やある程度の体感(腑に落ちるなど)も含めても良いかと思う。
それは考えられるようになったというよりも
と表現するにとどめておいた方が良いんじゃないか? これらは「=考える」ことではなく、「考えたつもり」と感じる類のことではないだろうか?
このような事について、私の場合は体は先に(なにかがしっくりこない)と反応しておりましたが、ようやくアウトプットすることが出来ました。
それはやはり、今回の書籍を読んで脳内整理が進み、意識化の思考がプックリと浮上したか、意識化の思考がまとまったからだろうとも感じています。
多分、考える人というのは、バランス調整を一生知る事がなくても考えていると思う。
考えるって、ただ流れゆく思考も「考え」とも表現するし、メンタル不全の最中の頭の中でグルグルしている状態も「考える」と表現されることがあるので、実は簡単に使っている言葉だけど「考えるって ところでナニ?」というような状態が実際には多いと思う。
かくゆう私も「じゃあ あなたは考えているのか?」と問われたら、私なりに考えているとしか言えない。
私なりの考えってなに?という事について言葉にしていくのは本当に難しい。
今日のこの最後のパートの内容については、誰を否定しているものではなく、
わたくし武田が、「おや? 何か反応しているけれど、これは一体なんだ?」ということを解き明かして文章化したに過ぎないということは理解して頂けたら幸いです。
誰でも「自分の考えが指摘された」と感じることは自分が否定されたようで不快が伴います。信頼関係があったらそうならないかどうかは微妙です。指摘されたと感じて、信頼が裏切られたと感じるケースもありますから。
ですから、正解だ不正解だ、あってる、外れてるという評価・揚げ足取りではなくて、わたくし武田が、「おや? 何か反応しているけれど、これは一体なんだ?」ということを解き明かして文章化したに過ぎないということを重ねて申し上げます。
具体的な対応策(案)
ここまで書いて、
先ずは簡単なバランスとして「〇〇しておけばいい」し、OFFをONにした後「考える」というロジック。について言いっ放しのような状態ではなんですから、じゃあどうする? なにが実際に「考える」ことに繋がるのか?という案を書いてみます。
ストレスがある。OFFという身体の反応がある。それをバランス調整をしてONという身体になる。という事には大賛成ですし、私も行っていますし、OFFという身体の反応のバランス調整は自分でも行う事をお薦めしています。
複雑さを含まない、シンプルな「ストレスがある。OFFという身体の反応がある。それをバランス調整をしてONという身体になる。」というスタイルは私は非常に好んでいます。
ただ、そのOFF→ONという行動にもれなく、自動的に、付加価値的に「考えるようになる」という別の行為はついてこないような気がします。
そう、感情の影響を受けてOFFを起こしていると仮定した時に、「感情がおさまる」と「考える」という別の行動の連結スイッチが入るわけじゃないんじゃないかな?というのが、わたしの「おや?」という疑問点でした。
それはまた別の「私はOFFをONにしたから、考えている」という思い込み?を生むという可能性についてはどうだろう?
(バランス調整をする際に、また別のロジックを加えことについては、私が以前から抵抗があるのですが、それもいつか書くかも知れませんが、〇〇をしたら◇◇になる。というのは真実の時もあるし、期待の反映だったりもします)
このような事から、考える習慣の無い方はセルフケアでOFF→ON(ストレスケア)だけで、自動的に「考えるようになる」というのは難しいかもしれません。
ですから、質問される対話型セッションを受けることをお薦めします。
向かないのは
- タイプ分けや占い類の答えを聞きたいというジャンルのものは「考えるようになる」という行動変容が目的の時は向かないと思う。
- また、対話が無く、セラピストや施術者が体の反応だけを整えていくセッションも目的とは違っているでしょう。
- 対話をしていても、その対話が質問者が特定のカテゴリーを判定、分類するためだけの質問でしたらそれも目的とはズレている。
- ご神託をお聞きするものは論外。
向かないものは他にもあるでしょうが、今はこれくらいしか思い浮かびません。
自分以外と対話し、一方的ではない双方向のスタイルで、質問に答えるようなシーンがあり、体の反応も随時確認できるようなセッションをお薦めします。
私は心体カウンセリング™ を行っているので、やはり話をしながら、リアルタイムでご自分の身体の反応を確認することの良さを知っています。
「おや?」という反応が「考える」という一歩に繋がることがありますし、その際にクライエントの脳のクセに適した質問があると、「考える」という新たな試みをセラピスト、カウンセラーなどと確認しながら進められるように思います。
ただ、考えることが向かない方もいるんですね。
私の記事など本当につまらない。そんなこと考えたくない。というタイプの方もいます。
だから、無理に考えること無いです。
私は好きで考えたり、書いたりしているだけです。
満遍なく何でも一定の基準を満たす知識を得るにはまだまだ努力と時間が必要です。
セラピーやカウンセリング、相談業をするのなら、こういった事を考えていた方が良いとも思っていますが、
考えたくないなら無理に考えなくていいし、そもそも無理に考えるという事はできるのだろうか?
私は普通に会社員をしていた時から人間の精神や心理、行動様式について無意識に検証して、世の中に点在している相似形などを理解しようとしていたので、これは努力とかそういうものじゃない。きっと単純な向き・不向きもあるでしょう。(生きるのはシンドイと感じている。しかし、現実を見ずにはいられないという脳のタイプなのでしょう。)
セラピーやカウンセリング、相談業をしていても、無関心な方もいます。
それでもクライエントが良いと感じたら良いんです。
絶対こうじゃなきゃ。ということは無いんだと思います。
考えなくても、シンプルなストレスケア(OFFをONにバランス調整)を沢山していく事が大切です。
一緒にやっていきましょう♪
段々何かが変わってくることでしょうから、楽しみにしてください(^^)
長い間、考えることは美徳だと思っていました。そんな私も、多様性の素晴らしさを少し理解できるようになってきたのかもしれません。
もし、あなたが、「自分の生きやすさって何だろう?」と知りたくなったときはお越しください。サポートします。
(2018/11/18)(2018/11/19修正と加筆)